幕間ー2

 マーリアは言われた通りに寝台に伏せていた。粗末な寝台は固く冷たく、ただじっとしているだけの彼女は、様々な思いに囚われ、疲労感ばかりが増して眠気は訪れない。


「休める時に休んでおいた方がいいです。わたしがついていますから」


 と、そんな様子を見てとったグレンが声をかけ、急に思いついたように、


「そうだ、これをお持ちになって下さい」


 自分の懐をまさぐる。彼が取り出したのは女神ラムゼラの護身袋だった。


「昔、殿下に頂いたんです。騎士の叙勲を受けた時に」

「あなたの大事なものなのでしょう?」

「今は貴女に必要だと思いますよ。古いものですみませんが、殿下と思って握ってて下さい」


 そう言ってグレンは、色褪せた織の小袋をマーリアの震える手に持たせようとする。……だが。


「あっ……」


 マーリアの手が滑り、守り袋は床に落ちてしまう。中から、女神の守護印の刻まれた丸い石が飛び出し、硬い筈の黒曜が床石に負けてぱきんと割れた。

 二人は顔を見合わせる。


「ご、ごめんなさい……」

「いえ。ですが……」


 二人の胸裏に浮かんだのは、『不吉』の二文字だった。エーディの身に、なにか? と。


――――――――――――――――――――――――


 不自然な嵐は、街道に出た途端にぴたりと止んだ。山中は酷いぬかるみと風雨に、いつどの瞬間にも愛馬が足をとられ転倒し、崖下へ落ちてもおかしくない状況だったが、何とか乗り切れたのは、女神の援護があったのではないか、とエールディヒは思う。巫女姫を介してしかひとの世に影響を及ぼさぬ天上の存在が、か弱き無実の乙女の為に力を貸してくれたのではないかと。


 とっぷりと日は暮れ、峠下の宿屋は賑わいを見せていたが、もちろん休む暇もない。ただかれは、疲れ果てた愛馬をそこに預け、新しい馬を買い、馬の支度を急がせながら一杯の水を所望しただけだった。街道では嵐もなかったのにずぶ濡れの客を、店主は怪しげに見たが、懐から馬数頭分にあたる金貨を出し、釣りは要らぬ、と言ったので、途端に愛想が良くなった。

 一刻も惜しいと思いつつ待っていれば、噂はもうここまで広がっている。


「王宮で魔女が見つかったって?」

「そうそう、王子さまの婚約者の癖に邪神に身を売るたぁ、とんでもねえ女もいたもんだ」

「巫女姫さまも難儀されたことだったろうなぁ」

「とにかくこれで飢饉も終わる。俺らをひでぇ目に遭わせた魔女の面拝んで、処刑も見物しに行きたいがなぁ」

「無理無理、てめぇの駄馬じゃあ今から行っても王都に着く頃にゃあとっくに済んじまってるぜ」


 酔った男たちの笑い声が響く。そこここで、明日魔女が処刑され、国が救われる事への乾杯の声があがっていた。

 エールディヒは彼らをまとめて斬り捨てたい程の怒りに囚われたが、彼らはただ噂に踊らされているだけの輩で、かれが守るべき民であることを忘れた訳ではないので、ただ黙って拳を震わせるしかなかった。


「旦那、馬の用意が整いましたが……良ければ、上物のワインで少し休憩を……」

「いらん!」


 一番上等のを、と頼んで曳かれてきた馬は、勿論、騎士団長であるかれの愛馬とは比べられぬ程貧弱ではあったが、倒れ込みそうに疲弊している愛馬よりはましというもの。

 灯りの乏しい中庭、店主の見送りも要らぬと跳ね除け、ひとり急く気持ちで鐙を履こうとした時。


「旦那さまぁ、わたくしと、休んでいかれませんこと?」


 愛らしい女の声がかかった。


「……!!」


 かれが無視しなかったのはむろん、女の色香に惹かれたからではない。その声が耳に馴染みのある声だったからだ。

 振り返ると、目深にヴェールを被った若い女が立っている。その、ヴェールから一すじこぼれ落ちているのは、緑の髪。


「まさか……王都にいる筈だ」

「うふふ……ここで何もかも忘れて今から愉しみましょう? 目覚めたころには何もかも終わっている筈。それでいいじゃないですかぁ」

「戯言を! 貴女の虚言のせいでどれ程あのひとが苦しめられていると思っているんだ!」


 怒号を放ち、エールディヒはさっと女のヴェールを剥ぐ。果たして現れたのは……、


「ユーリッカ姫……何故、このような仕打ちを」


 噴き上がりそうな怒りを堪え、努めて冷静を装ったのは、真実を聞き出し、何とか言質を取れないかと考えたから。だが勿論ことはそう簡単にいく筈もない。


「……わたくしぃ、よく巫女姫に間違われますの」

「ふざけるな!」

「媚薬の香の効き目もさっぱりだわねぇ……まぁしかたないわね、あなたは……」

「質問に答えろ。魔女の疑いがある以上、巫女姫とて容赦はせぬぞ」

「魔女はマーリア。巫女姫が魔女だなんて、ああおそろしい。そんな疑いを持っているのは、この国であなただけよ? いくら王子でも、救い主の巫女姫に手出しをすれば、あなた、八つ裂きにされちゃうかもよ?」

「貴女はここにいない筈の身。なにかあっても誰にもわかりはしないし、わかったところで何の為にと訝しまれるのが先だ。あまり見くびらないで頂きたい」


 そう言い放つと、エールディヒは抜き身の剣を緑の髪の女の鼻先にぴたりと突きつける。だが女は動じた様子もなく、


「あなたって、急いでいるんじゃなかったっけ?」


 と、のんびりした様子で言う。


「貴女が神託を撤回すれば、大神殿に行く必要はなくなる」

「わたくしがぁ?」

「……そうだ」


 なにかおかしい、とエールディヒは感じ始めた。のこのことこんな所に無防備に現れる筈がない……。次第に、相手に対する違和感が募る。


「あー、もう気づいちゃった? もっと遊んでくれるかと思ってたのに。わたくし、巫女姫じゃない、って最初に言ったじゃないのぉ」

「……っ!!」


 ぶんと薙いだ剣はただ、揺らぐ女の残像を切り裂いただけ。草の上にぽとりと落ちたのは、魔具のひとがた。贋者だったのだ。

 唇を噛むとかれは直ちに剣を収め、ひとがたを拾い上げた。こんな魔道が存在する事すら知らなかった自分だが、先の巫女姫ならば何かわかるかも知れないと思ったからだ。すぐに馬に跨ると、振り向きもせずに宿を出、月明りを頼りに街道を駆け始める。


(こんな仕掛けでわたしを篭絡できるとでも思ったか。とにかく、魔女がマーリアではない証はこの目で見た。セシリアさまは信じて下さる筈)


 そう信じて、ただ駆けるしかなかった。

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