第5-5話:象牙色の海岸の話

 会社に入ってもう10年以上は軽く経っている。そうなると、なかなかいつ何をしたのかという記憶はどうにも曖昧になってくる。3~4年しかなかった学生時代とは違い、最終的には40年以上も続く会社生活だ。6年前と7年前にそれぞれ何をしていたかを思い出すのは、一昨日の昼飯を思い出すより難しい。

 ただそれでも中東に出張したのはもう随分と前のことにも関わらず、それが何年の出来事だったかは今でも大した苦労なく思い出せる。キーワードは「4年に1度」だ。


「ちょうどワールドカップの開催された年だった。空港から会社に到着して、受付のあるロビーで長々と待たされたとき、そこに転がってたスポーツ新聞を読んで時間をつぶしたんだが、大半がワールドカップの話題だったよ。あとは、なんだったかな、ドバイだかどこだかで日本産の馬が活躍したとか、いや、違うな。それはまた別の中東の出張のときだな」

 昼休みに殺風景な給湯室でインスタントコーヒーを飲みながら傍らの武田に話しかける。今日はあいにくの大雨で、外に食事に行く気にもなれず、武田と2人で会社の玄関まで出張で仕出しにくる弁当を買って、自席で済ませた。そんなわけで普段より時間が余ってしまった昼休みの残りを、こうしてつぶしているというわけだ。

「ふーん。僕なんか、多少は身近な文化圏のはずのアメリカ出張だって苦労した思い出しかないのに中東出張なんて想像もつかないよ」

「それで思い出した。お前、結局あのあとどうなったんだよ」

「あのあと?」

「とぼけんな。俺がお膳立てしてやったフランス娘との食事に決まってんだろうが」

「恩着せがましいなあ。別に何もないよ。うん。ね」

 苦笑しつつあっさり否定するも、いたずらっぽく目を細めつつ意味ありげな一言を付け加える。そういうしぐさが実に様になる男前なのだ。この武田という男は。

「なんじゃそりゃ。じゃあ誰と誰とのあいだに何があったんだよ」

「それよりなんでいきなり中東の新聞の話になったの。そっちのが気になるけどね」

 あからさまに話をそらされた。こうなると簡単には口を割らないことは長い付き合いで分かっていたので、諦めてそっちの話題に乗ることにした。そもそも別にどうしても聞き出したいというほどの話題ではない。

「別に大したこっちゃねえよ。海外いたときはロビーやら給湯室やらに適当な新聞や雑誌が転がってて暇をつぶすのが楽だったな、って思い出してただけだ。こっちはすぐ片付けられちまうからなあ」

「当たり前でしょ。会社が公然とさぼっていいなんてお墨付きくれるわけないじゃない」

「さぼりじゃねえよ。休憩だよ。喫煙者どもなんて好き勝手にしてるじゃねえか」

「それは確かに」

 大仰に頷くと、武田はマグカップを傾ける。ただでさえ甘ったるいココアに砂糖を加えたそれは、奴以外にはとてもじゃないが飲めたものじゃない。しかしどうして太らないんだ。俺みたいに無駄なジム通いの趣味もないというのに。

「そのときのワールドカップって何か面白い話題あった?」

「どのときだ」

「いや、だからリッチーが中東出張してたときだよ。紙面がそれ一色だったんでしょ? 何か1つくらい印象に残ってることないかな、ってね」

「いや、ワールドカップの試合結果とか予想とかばかりだったってことは覚えてるんだが、俺もそこまでサッカーに興味があったわけじゃあないからな。具体的な内容は大して……」

 そこまで言ったところで1つ思い出したことがあった。

「ああ、そういえば1つあったな」

「日本の試合?」

「いや、ワールドカップ関係なんだけど、あまりサッカーは関係ない」

「何それ。変なの」

 くすくすと笑う。

「いやワールドカップの対戦結果が紹介されてる記事で、確かブラジルが予選リーグを突破したって内容だったんだけど、確かそれが Brazil qualified for best 16 with a win against Ivory Coast とかなんとかで」

 10年近い昔の薄れた記憶を掘り返す。

「日本語でお願いしたいなあ」

 残り少ないココアがダマになっていたらしく片手でマグカップを回して中身をかき混ぜつつ、武田が困ったように片方の眉を上げた。

「分かりやすく言うと、ブラジルがアイボリーコーストに勝利した、って記事だったんだよ」

「え? アイボリコストって何? 国の名前?」

「それだよ」

 まさにそれが俺の話のポイントだった。

「ぶっちゃけ国名なんだけど、お前も知ってる国のはずだ」

「えー、どうかなあ。アイボリーが象牙で、コストが費用でしょ? そんな言葉が含まれる国の名前、ちょっと憶えがないかなあ」

「なんでだよ、コーストは海岸だ、海岸。オーストラリアにゴールドコーストって観光名所があるだろ、ほら、別名が黄金海岸の」

「あったっけ。ごめん、あまり海外詳しくないんだよね。コーストねえ。ホロコーストなら聞いたことあるけど」

「アホか。そりゃ大虐殺だろ」

 俺の呆れた声に武田はマグカップを置くと両手を開いた。降参らしい。

「自慢じゃないけどTOEICで200点台とったことがあるくらいだし、やっぱり英語は苦手だなあ」

「いや、つーか、そもそもホロコーストはドイツ語だぞ」

「Holocaust? Are you guys learning history during lunch break? That's hardworking(ホロコースト? 昼休み中に歴史を学んでるの? 勉強熱心ね)」

 聞き覚えのある、ちょっと訛りの入った英語が後ろから会話に加わってきた。振り向くとちょうどオフィスに到着したばかりで通りすがったところらしく、スーツケースを引きながら給湯室の入り口を覗き込んでいるフランス人、ことアンジェリークがいた。

 空港から直接来たせいか、メイクも薄く、アメリカのオフィスで会ったときは見事に輝いていた金髪も荒れ気味だったが、それでも掛け値なしの美人だ。休み時間のオフィスを行きかう人たちが男女問わず一度は目を向けてくる。

「What the heck are you doing here?(お前、ここで何してんだよ)」

「Well, I heard two words which seemed interesting, so would like to join the company.(えーと、なんか面白そうな単語が聞こえたから入れてもらおうかなって)」

 いや、そうじゃなくてなんで日本のオフィスにいるんだ、という意味の質問だったが、考えてみれば出張に決まっている。まさか観光旅行で日本に来ておいて真っ先に会社に顔を出したりはしないだろう。

「You already are joining the company, right?(すでに入って来てるじゃねえか)」

「You know what I mean. Oh, hi, Tuck.(まあ、そうね。あっ、こんにちは、タック)」

 一旦は口を開いた武田だったが、そこで止まってしまった。口を閉じて首をかしげると、諦めたように苦笑する。

「こんにちは、アンジェリークさん」

 どうやら英語で挨拶をしようとして諦めたらしい。

「コニチワ、タックサン」

 付き合いの良いアンジェリークが笑顔を返した。

 ちなみになぜ武田が「タック(Tuck)」と呼ばれているかというと、欧米系には「武田」が発音しづらいうえにイマイチ名前っぽく感じられないためだ。

 日本人からすると「たけだ」の略称となれば当然「タケ」だろうが、英語やラテン語系からすれば「Tak」という文字の並びは十中八九「タック」と読まれる。それに加えて「タック」というのは男性の愛称としてはごく自然だ。かの有名なロビンフッドにもタックという名の仲間がいた。

 閑話休題。

 しかしこうしてみる典型的な金髪碧眼のアンジェリークと2人、美男美女が並んでるな。俺1人で随分と平均値を引き下げている。まあ、ここまで外見の格差がありすぎると逆に気おくれもしない。

 もちろん中身が若干ポンコツの武田だからということもあるが。

「なんで日本語なんだよ。あの長期出張はお前の英語修行も兼ねてたはずだぞ。挨拶くらいさすがに英語でしてただろうが」

「やっぱり『ハァイ』って挨拶するの、なかなか抵抗感があるよね。こう、日本の社内にいるとなるとなおさらね」

「そういうもんか」

「リッチーくらい発音が良ければ気にならないんだろうけどさ。どうしてもね」

 そんな中身のない会話を武田としているあいだ、アンジェリークは小声で「タックサン」「タックサン」と微妙に発音を変えつつ繰り返していた。

 怪しいものを見る目つきを向けている俺に気づいたアンジェリークは少し頬を赤らめつつ、弁解するように首を振った。

「I still not getting use to this -san stuff(この名前に「さん」を付ける風習、どうにも慣れないのよ)」

「No wonder. Me too.(そりゃそうだろ。俺もだ)」

「Then why are you keep on using it?(じゃあ止めればいいのに)」

「Well, in that sense, I still am Japanese ... following the orders without accepting it(まあ、そういう意味じゃ俺もまだ日本人ってことだな。納得してないルールにも従えるって意味では)」

 日系企業が海外進出した際に、相手の名前に「~さん」を付けることは珍しくない。同じグループ企業同士であればメールの書き出しにさえ互いに「-san」をつける。例えばメールの書き出しが「Dear John san」のようになる。

 正直、なんか道化じみているな、と思いつつも、今アンジェリークに言ったように、俺もルールをルールだからと従うことに慣れている日本人だから、海外のメンバーにメールを送るときは基本的に付けるようにしている。

 たださすがに気心が知れた海外の同僚相手ともなると「-san」を略してメールを送ってしまうことも多い。特に誰にもコピーを落とさない個人宛のメールの際にはまず付けない。

「Hey, so what about World Cup and Ivory Coast?(それでワールドカップとアイボリーコーストがどうしたの?)」

 ああ、そうだ、その話だった。

 しかし英語話者と日本語話者の間に挟まれると会話が面倒だな。まあ2人とも会話に置いてきぼりにされることに大した抵抗感を持ってなさそうな心の広い奴らだからこちらとしてもそこまで気を遣わずに済むのは救いだ。

「Oh yeah, I guess you are just the right person talking about this.(そうだった、そうだった。つうか、お前、この話題に打ってつけの人間だな)」

「Really? Well, to be honest, I am not THAT big fan of football. You know, just a football fan only once four years.(そうなの? ごめんなさい、正直言ってしまうと、私、別にそこまでサッカーファンってわけでもないのよね。ほら、4年に1度だけ臨時でサッカーファンになるタイプってこと)」

「That's fine, 'cause a football doesn't matter much. It's about Ivory Coast. Actually, we don't call 'em Ivory Coast in Japanese.(それでいい。ぶっちゃけサッカーはあまり関係ない。アイボリーコーストの話さ。実は日本語だとうちらはアイボリーコーストをそうは呼ばないんだ)」

「Well, no wonder. The name doesn't sound like proper noun ... like only normal English words. I guess you just translate 'em, right?(そりゃそうでしょうね。あまり固有名詞っぽく聞こえないし……なんていうの、英単語を並べただけみたいな? 単語ごとに日本語に訳してるんでしょ?)」

「Uh uhh, no, wrong.(おっと、ハズレだ)」

「Okay, I give up. So, what's the answer?(降参よ、答えは?)」

「Tuck will let you know if you answer my question in French(俺がこれからする質問に答えてくれれば、武田が教えてくれるさ)」

 俺の言葉にアンジェリークが顔をしかめる。

「I don't get it.(何言ってるのか良く分からないんだけど)」

「Just try.(とりあえずやってみてくれ)」

 ここで俺は、おだやかな笑みを浮かべて会話をただ聞いていた武田に向き直ると「今からアイボリーコーストがどこの国かこいつがフランス語で教えてくれるから聞きのがすなよ」と伝えた。

 武田はアンジェリーク同様に怪訝な表情を見せたが、俺はそれを無視してアンジェリークに質問する。

「Okay ... have you ever been to Ivory Coast?(よし、質問だ……あなたはアイボリーコーストへ訪れたことがありますか?」

「No, I never ...(いいえ、私はまだ一度も……)」

「In French, mademoiselle.(お嬢さん、フランスでご回答ください)」

 わざとらしくかしこまってそう相手の英語の回答を遮った俺の言葉に、アンジェリークは肩をすくめるとスラスラとフランス語で話し始めた。

「Je n'ai jamais ete en Cote d'Ivoire.」

 これでいいのか、とスッキリしない表情で形の良い片眉を上げて見せたアンジェリークとは対照的に横にいた武田が相好を崩した。

「あ! 今、コートジボワールって言ったね」

「大正解」

 そう、アンジェリークの回答の末尾の「Cote d'Ivoire」はカタカナ表記すれば「コートジボワール」となる。これは英語訳すれば「Coast of Ivory」だ。

 元フランス領であり今も公用語がフランス語であるかの国は、正式名称をフランス語の「コートジボワール」ありきとしている。そこから派生して英語の「Ivory Coast」が生まれた、という順番だ。

「コートジボワールもワールドカップの予選勝ち抜いてたんだね。すごいな。コートジボワールって、かなり小さい国じゃなかったっけ」

 頭の回転の速いアンジェリークは、日本語が分からないながらも武田の様子とその言葉に登場した外来語を拾い聞いて、なんとなく内容を察したらしい。

「Oh, so you call it Cote d'Ivoire in Japanese too. That's interesting. I thought you guys only are familiar to English.(へー、日本語でもコートジボワールはコートジボワールでフランス語なの? ちょっと面白いわね。なんか日本人って英語とアメリカべったりだとばかり思ってたから)」

「Not really ... we Japanese love eating french flies.(別にそういうわけでもないさ。日本人はフレンチフライが大好物だからな)」

「Eating in McDonald, right? And you called me American!?(ってそれ、マクドナルドのポテトのことでしょ! それで私をアメリカ人呼ばわりしたなんて失礼しちゃうわ!)」

 アメリカ人呼ばわり? ああ、あれか。初めてアメリカの空港で会ったときのことか。よく覚えてやがるな。まさかそこまで根に持たれてるとは思ってなかった。

 そのとき構内に昼休み終了5分前のメロディが流れた。アホな会話をしてるあいだに昼休みも終わりか。

「Oh, I have to go! Au voir!(いけない、行かなくちゃ! それじゃ!)」

 周囲の様子と俺たちの表情を見て昼休み終了のメロディだと察したアンジェリークは、慌ててスーツケースをつかむと立ち去ってしまった。

 俺はマグカップを軽く流しでゆすぐと自席へ戻ることにした。武田が無駄に気を持たせる言い方をしていた2人の食事のときに交わされた話の内容とやらを問いただしてみたかったが、それはまた別の機会になりそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る