第5-3話:会議室Aの話

 俺が日本でドリップ式コーヒーを給湯室で好きに入れているように、海外オフィスでも自前で飲み物を賄っている奴らはいる。ただ日本に比べると圧倒的に少数派だ。

 理由は2つ。1つは給湯室やそれに当たるキッチンを社員には自由に使わせないオフィスの場合だ。使わせない理由はオフィスにもよるが、多くの場合は社員に好きに使わせるとあっという間に汚されてしまうからだ。後始末を自分でするという概念を持っているのは基本的に日本人だけだと思っている。

 ちなみに数年前に訪れたオーストラリアのオフィスの給湯室は皆が利用できることになっていたが、制限になる直前のようなカオスだった。給湯室の壁に「Your mess, you clear. No kitchen fairies here(後始末はご自分で。お片付け妖精はどっかに遠出とおで)」と書かれた手書きの張り紙があったくらい汚かった。ちなみにその張り紙の下に「But my mom does!(僕のママは来てくれるよ!)」という落書きが壁に直接手書きでされていた。

 だからそうやって給湯室の壁を汚したりするから使わせてもらえなくなるんだ。まったく。


 海外では自前の飲み物を持って来るメンバーが少ないもう1つの理由は、単にコーヒーが無料で飲み放題のオフィスが多いからだ。

 給湯室に共有のコーヒーメーカーと粉クリームが置かれていて、好きなときに好きなだけ飲める。アブダビとシンガポールのオフィスはそうだった。


 そして、ここニューヨークのオフィスも同じく給湯室に馬鹿デカいステンレスのコーヒーメーカーが置かれていて、スポーツジムのウォーターサーバーのようにプラスチックのレバーを引くだけでコーヒーが延々と出て来る。持ち回りで入れているのか、係のメンバーが決まっているのかは知らない。

 出張で来ているだけの俺としては誰が入れているのかなんてどうでもいい。タダでもらえるなら頂くだけだ。

 ただいくら無料で飲み放題とはいえ、コーヒーを飲み続ける以外にすることがないとなると、さすがにありがたみも薄れてくる。

 まったく、会議は一体いつになったら始まるんだ?


 そんなことを考えながら、ついさっき給湯室でいできたばかりの3杯目のコーヒーと一緒に会議室へと戻ってきた。ドアの脇には「Meeting Room A」と書かれた表示板が見える。本来であればここで10分前から参加者6人による会議が始まっている予定だった。しかし給湯室へと足を運ぶ前と変わらず、そこには武田1人しかいなかった。

 部屋に現れた俺を弾かれたように振り返った武田は、しかし入ってきたのが俺だと気づくと困ったように微笑んだ。

「お帰り。見ての通りだよ。どうしたんだろうね。昼休みが長引いてるのかな」


 武田というのは、そういう表情がつくづく絵になる色男だ。細身だが決して華奢ではなく、優しげな目元と丁寧な物腰で日本にいた頃から社内の女性には好かれていた(よくオモチャにされていた、と表現したらムキになって否定されたので、以降はこう表現することにしている)。

 俺と同じくすでに30代も半ばのはずだが、大抵の場合、奴のほうが若く見られる。俺が老け顔なわけではない。年相応のはずだ。なお、武田に言わせると「リッチーはいつも怖い顔してるから老けて見られるんだよ。もう少し楽にすればいいのに」とのことだが、怖い顔をしているつもりはないし、老けて見られるのはお前が同じ職場にいるせいだ、というのが俺の主張だ。

 ちなみに当たり前だが俺の名前はリッチーじゃない。これはあだ名だ。本名は森地もりち大輔だいすけで、入社直後の研修のあいだに同期から「もりっちー」と呼ばれるようになり、それが転じて「リッチー」になった。


 俺の名前はさておき、その昼休みという言葉につられて壁の時計を見ると時間は午後の1時半を10分過ぎたところだった。

「本当にこの会議室で合ってんだろうな」

 まだ座ってもいないのにすでに残りが半分ほどになった紙コップを会議卓に置いて、軽く伸びをする。体がバキバキだ。何しろここ数日の睡眠はほとんど飛行機の機内泊だった。20代の頃でさえ機内泊でまともに寝れた記憶はないというのに、30代ともなるとマジでキツい。

 時差のせいで眠いのか、睡眠がまともにとれないから眠いのかほとんど区別がつかない。そんな疲れの中、短い出張に仕事を詰め込まれほとんど5分刻みでスケジュールを組まれている。

 その中で向こうから設定された会議だというのに10分も放置されているとなると、そりゃ優しい気持ちでいられなくても不思議はないだろ?

「間違いないはずなんだけど」

 武田は立ち上がると会議室の外に出た。どうやら会議室の名前を確認しているらしい。さっき俺が見たときから変わっていなければ「Meeting Room A」のはずだ。変わってたら怖いが。

「間違いないはず、ってなんだよ。間違いないのか、自信がないのか、どっちかにしてくれ」

「じゃあ、会議室Aのはずなんだけど、ってことで」

 俺の若干キツめの言葉をいつものとおり軽く笑顔で受け流す。まったく捉えどころのないヤツだ。こいつ自身もここには出張で来ていて仕事を詰め込まれているはずなのにな。

 喋れもしない英語しか通じないオフィスでもやってけてるのは俺と違って適度に鈍感だからだろうな。たまに羨ましくなる。

「つーか、本当にDディーじゃないんだろうな」

 このオフィスには会議室が6つあり、それぞれ東西の端に3つずつ位置している。東側に A ~ C の3つの会議室があり、西側に D ~ F の会議室がある。ニューヨークとはいえ郊外の安い土地に建てられた平屋のこのオフィスはそこそこの敷地面積があり、東西の距離はなかなかのものだ。

 今回の出張のために借りた席は西側だったが、わざわざこの会議の為にはるばると東側までやってきたというのに実は違ったとかいうオチは勘弁して欲しいものだ。

「さっき念のために会議室Dに内線電話かけたじゃん。誰もいなかったでしょ。それに昼休みの直前にちゃんと確認したんだからさ。会議室Dから会議室Aに変更になったって」

「誰に聞いたんだよ」

「そりゃ、まあ、誰だっていいだろ」

 こいつにしては珍しく言いよどんだな。まあ、俺も分かってて聞いてるんだが。

「愛しのアンジェリークか」

「愛しのは要らないって」

「愛するアンジェリークか」

「あのさ、からかうにしても中学生じゃないんだから、もうちょっと言い方があるだろ」

 冷静を装うのは構わんが顔が真っ赤だぞ。どんだけ照れてんだ。お前こそ中学生か。


 ニューヨークのオフィスに空港から直行させられて、さっそく会議だと言われたが、せめて先に自席を確保させてくれとゴネたら、出張者など一時的にオフィスを利用する奴ら用のスペースへと案内された。

 そこで、ヒューストンのオフィスに配属されたはずの武田の姿があったことだけでも驚きだというように、さらには半日前にヒューストンの乗り換えの際に空港で出会ったフランス人の女がその横にいたわけで、大抵のことには動じないつもりの俺もアホづらをさらけ出してしまったわけだ。

 なぜ武田がここにいるのかを問い質してみたところ、武田の保守担当しているシステムのトレーニングのためだそうだ。わざわざ出張しないでもビデオ会議によるリモートトレーニングで十分だろう、というのが当初の予定だったらしいが、回線が細すぎてシステムの操作や画面の文字を伝えるのが無理だったそうだ。

 長期出張で来るときにアメリカ国内の飛行機移動があったらどうしようと心配していた武田は、基本的にヒューストンオフィスからの移動は不要と聞いていたらしい。それで安心していた武田はいきなり出張要請に随分とビビったそうだが、旅慣れた現地の新しい友人たちが懇切丁寧にサポートしてくれたおかげでなんとかニューヨークまで辿り着けたとのことだ。

 ニューヨークには俺が到着する1週間前からすでにいたらしい。とっとと教えろよ、と思わないでもなかったが、ヒューストンでこいつを驚かせようとずっと連絡しなかった俺が言えた義理ではない。


 そしてこのフランス女ことアンジェリークだ。

 こいつはうちのヨーロッパ支社からアメリカへ出向している。日系企業に入社しただけあって日本に興味はあったらしく、ヒューストンのオフィスで右も左もミロの買い方も知らなかった武田に英語やアメリカでの暮らし方を教える見返りに日本について色々と習っているとのことだ。

 ちなみにアンジェリークの年は25だが、会ってからしばらくのあいだは武田のことを同い年だと思ってたらしい。まあ、日本人は若く見られるし武田の外見からすればそれ自体に不思議はない。しかし互いの年齢も気づかないってどんな英語の習い方してたんだ。

 そもそも英語を習うのにフランス語訛りでいいのか、ということの方がツッコミどころな気もするが。


 ん?

 待てよ。


「おい、会議室の場所を教えてもらったんだよな」

「そうだよ。アンジェリークにね」

 否定するのも面倒になったらしい。ありがたい。正直、俺もそろそろ余裕がなくなってきた。

「どんな風に教えてもらった。口頭か?」

 またからかわれるのかと警戒する武田だったが、俺にからかう様子がないことに気づくと怪訝な顔で「そうだけど?」と返してきた。

 なるほど、か。

「おい、さっき会議室Dにかけてただろ。会議室Eの電話番号はいくつだ」

「え? そこに書いてあるよ。でもなんで会議室Eにかける必要があるのさ?」

 武田が指したのは内線電話からぶら下がるプラスチックのカードだった。

 俺はそれを見ながら「かければ分かるさ」と番号を叩く。ついでに内線電話をスピーカーモードに設定した。これで武田にも会話が聞こえるだろう。

 あいつの癖のある英語を聞き取れるかは知らん。


 呼び出し音が途切れて、女性の声がスピーカーから流れる。

Helloアロー?(どちらさま?)」

 アンジェリークだな。ハローでもヘローでもなく、アローと聞こえる独特の訛り。

 アメリカの東海岸南部でも聞く訛りだが、こいつの場合は単にHエイチの音を発音するのが苦手なフランス人訛りだろう。

「Bonjour, mademoiselle(こんにちは、お嬢さん)」

 あえて英語訛り全開のフランス語で返事をしてやると、一瞬の間ののちにクスクスと笑う声がした。

「Bonjour, monsieur(こんにちは、お兄さん)」

 律儀にフランス語で返事をしてくれたあと、困ったように言葉を続ける。

「Where are you guys? We have been waiting for hoursハワーズ(あなたたち、どこにいるのよ? 私たちもうここで随分待ってるんだけど)」

 フランス人がたまにやる間違いだ。Hエイチの音も発音しようとして、発音する必要のない方のH(この場合、Hour)までハ行で読んでしまうパターンだ。

 まあ、それで話が通じなくなることは少ないから誰も指摘しないんだろうが、少し意地悪な気分になっていた俺としては軽くネタにするのを止められなかった。

How wasハワーズ I supposed to get there? I mean, we were waiting in the room that you've told Tak(そこにどうやって辿り着けってんだよ。俺らはお前が武田に教えた部屋で待ってるんだぜ?)」

「What do you mean by ... oh my god!? Got it, so you guys are now in Meeting Room A!(え、それってどういう意味……あっ、ちょっと待って!? 分かった! あなたたち、今は会議室Aにいるのね!)」

 戸惑ったのはほんのわずかな時間だけだった。俺の一言で全部理解したらしい。頭の回転が早い女は嫌いじゃない。

「Yes, you are right. We're in Meeting Room Aエー ... or should I say Meeting Room Aアー?(そのとおりだよ、今いるのは会議室Aエーさ。いや、正しくは会議室Aアーかな)」

 俺の皮肉に相手の苦笑が見えるようだ。

「Okay, I'm sorry ... anyway, yeah, you're right, it's my fault. I will explain the members here, so please come right away.(分かったってば、私が悪うございました。まあ、そうね、あなたの言うとおり私のせいだわ。待たせてるメンバーには私から説明しとくから、出来るだけ早くこっちに来て)」

「D'accord merci(了解だ。ありがとう)」

 俺の知ってる数少ないフランス語の1つで返事をして電話を切った。


 会議資料などを抱えながら2人で急ぎながら社内を横断する最中、武田が不思議そうに聞いてきた。

「ちょっと早口過ぎてついてけなかったんだけど、なんか謝ってた?」

「そりゃアイツのミスだからな」

 とはいえ責められない気もするが。

「多分だけど、お前らの会話、こんな感じだったんじゃないか? お前が『New meeting room A?(新しい会議室はAエーですか?)』みたいに聞いて、相手がそうだって言ったんだろ?」

「そうだけど、それでどうして会議室Eイーにいるのさ」

「そりゃ、アイツが言った通り、本来の会議室はエーだからな」

 ここで口を挟もうとした武田を遮るように言葉を続ける。

「フランス語ではそうなんだよ。フランス語だとアルファベットの読み方はAエーと書いて『アー』、Eイーと書いて『エー』、だから会議の場所はどこかと言えば『会議室Eエー』ってことさ」


 分かってしまえば簡単なことだ。アイツからしてみれば武田に「新しい会議室はEエーだっけ?」と聞かれたから「そうよ」と答えただけのことだ。

 もちろんアイツだって英語ではAと書いて「エー」と読むし、Eと書いて「イー」と読むという知識はあるだろう。だがとっさに聞かれてアルファベットだけが脳裏に浮かぶとなかなかその補正は難しい。


「書いて確認すれば間違えなかったんだろうがな」

 一応はフォローも入れておく。

「立ち話だったからねえ」

「いいから急ごうぜ。もうかなり待たせてるはずだ」


 その後、まずはとっとと会議を終わらせた。そして迷惑かけたお詫びに食事を奢らせてくれ、とアンジェリークが俺に言ってきたので快く受けてやった。

 そしてその日の夕方の便でヒューストンへ向かわなければいけないことをそれを受けてしまった俺は、オフィスを出る前に武田に「すまんが代わりに行ってきてくれ」と一方的に頼んでから、返事を聞かずにタクシーに乗り込んだ。


 同期の武田よ。俺に出来るのはここまでだ。あとは自力で何とかしろ。英語を学びたいんだろ? これが一番手っ取り早い方法だ。外国人の彼女を作ることさ。

 そんな恋のキューピッドを演じたつもりでいい気になっていた俺が、完全に目論見が外れたことを知るのは日本に帰ってしばらく経ってからのことだったが、まあ、それはまた別の話だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る