第7-1話:船便の話
今日の最後の授業が終わったので下宿先へ帰ろうと大学の本館を出たら、ちょうど雨が降り出したところだった。どうしようかなあ、と呟いた言葉が冷たい冬の空気で真っ白い吐息に変わる。その白さごしに見える雨は殊更に冷たさを増して見えた。
今朝のニュースで確認した降水確率は30%という微妙な数字だった。少し迷いつつも下宿先が大学から近いこともあり、傘を持たずに自転車で来てしまった。小雨ならなんとかなるだろう、という考えだったが、まさかここまでの強雨は想定外だった。
前年度まで暮らしていた学生寮までなら、この雨の強さでもずぶ濡れになる前に帰れたのだが、その寮は大学4年生になったときに追い出されてしまった。その距離感に慣れてしまったこともあり、とにかく近いことを優先して下宿先を探したのだが、それでも教室までの距離はそうとうなものだ。
大学自体は非常に近い。下宿先の玄関から大学の通用門まで、歩いても2分かからない距離だ。問題はその通用門から大学の各施設まで辿り着くのにかかる時間だ。都内にあるにしては妙に敷地が広いこの大学は、とにかく大学の出入り口から個々の施設が離れている。付け加えるなら、その個々の施設同士も自転車が欲しくなる距離だ。
何にせよ仕方がない。一旦は本館の上階に設けられたラウンジスペースでしばらく雨宿りをするしかないだろう。家に帰ればインスタントコーヒーがあるのに自販機で飲み物を買うのは実に業腹だが、背に腹は代えられない。温かいコーヒーを飲みながら課題を進めることにしよう。
雨に背を向けて玄関に向かう。すると俺と同じく予想外の雨に立ち尽くしているとおぼしき生徒の姿が見えた。
年季の入った黒いダッフルコートを着込んだその生徒の肩には、中身が大量に詰まったトートバッグの紐が食い込んでいる。ダッフルコートの裾から覗く足にはだぼついた灰色のズボンとスニーカー。靴以外はどれも妙にサイズが大きく、体格に合っていないような気がした。色味の無さも相まってあまりに色気のない格好だったこともあり、髪の長さが無かったら女生徒とは思わなかっただろう。
特に同じ授業などで見かけた記憶はないから、同じ学部ではないことは確かだ。知り合いではない。しかし、眼鏡越しに憎しみを込めて俺の背後で降り続ける雨を睨むその目つきには、なぜか見覚えがある気がした。
つい見入ってしまったこちらに気づいた相手は、なぜか俺の顔を凝視し始めた。
どうやら相手もこちらの顔に見覚えがあるようだった。
居心地の悪さに、会釈だけ返して館内に戻ろうとした俺を見ていた彼女は、なぜかその館内に戻ろうとした俺の仕草を見てパッと顔を輝かせた。
「あー、センセー、お久しぶりデスネ」
妙なイントネーションのあるその言葉が発せられるとともに彼女の表情が和らいだ。途端にさっきまでのとげとげしさが消え失せる。
女生徒は重たげなトートバッグを肩に背負い直しながら、俺に近づいてきた。近くで見ると意外と背が低い。さっきまでの
そのときようやく俺も彼女のことを思い出した。
「郵便局の」
「はい、その通りデス、センセー」
その笑顔とイントネーションにも覚えはあったが、それより何より、大した学力ももたない俺をセンセ―呼ばわりする可能性のある人物に俺は1人しか心当たりがなかった。
しかしすぐに思い出せなかったのも無理はない。初めて会ったときはもっと暖かい季節で、服装も状況も全く異なっていたからだ。
あれは確か5月中旬の平日だった。
3月に寮から下宿に引っ越して、色々と実家に送り返す荷物が発生していたが、根が面倒くさがりな俺はついつい段ボールに入れたまま下宿の狭い部屋に放置していた。しかしゴールデンウィークも過ぎた頃、無駄にスペースを取るそれに我慢できなくなった。
一念発起して、実家への手紙と一緒に段ボールを抱えて学内にある郵便局へ向かうことが出来たのは、外を出歩くのに最高の日だったからだ。降り注ぐ日差しは少し暑いくらいに暖かく、しかし日陰の空気は少し冷たい。その落差を含めて、5月は俺が一番好きな季節だった。
しかしその安らいだ気持ちは郵便局の自動ドアをくぐった瞬間に吹き飛んだ。
「だから! 安いがいいから、郵便は船でお願いシマス言ってる!」
「いえ、ですからね。ご希望は理解しています」
妙なイントネーションでまくしたてる甲高い声と困ったような郵便局員さんの声が聞こえる。見ると妙にサイズの大きいTシャツと短パンに短髪という涼しげな風体をした眼鏡の女生徒が、汚い段ボールをカウンターに乗せて何やら押し問答していた。
幸か不幸か、他に客はいなかった。俺はあえてそちらに目を向けないようにしつつもう1人の局員さんに対応してもらい、用紙に必要事項を書き入れて段ボール箱を預けた。
関わらないようにしているつもりだったが、それでも狭い建物の中だ。どうしても会話が耳に入ってしまう。
話が平行線のまま言い争う2人の言葉の食い違いに気づいてしまった俺は、あいだに入るか迷った挙句に助け舟を出すことにした。
別に女子が目当てだったわけではない。奇しくも俺が大学で修めようとしている事柄に関わる問題だったからだ。
「あの」
恐る恐る声をかけた俺に、疲れた様子の郵便局員は安堵の表情を、もう1人の女生徒は眼鏡越しに険のある目つきを向けてきた。
その剥き出しの敵意にかなりひるみそうになったが、ここまで来たら後には引けない。
「あのさ、君は飛行機の郵便じゃなくて、船で郵便を運んで欲しいんだよね?」
「だから何度もそう言ってるマスが、分からない人がこっちデス!」
指を差された郵便局員さんはとっさに反論しようとしたが、俺はそれを手で制した。どこで食い違っているのかはすでに分かっていた。これ以上の争いは無意味だ。
「君は船で運んで欲しいのに、こちらの人は
「そうです、この」
あまり友好的でない言葉が続きそうだったので慌ててかぶせるように先を続ける。
「船便っていうのは船で運ぶ郵便のことなんだよ。船の郵便なんだ」
俺のこの説明に、まず女生徒が驚きの声を上げた。
「そうだったんデスカ~」
ポカンと丸く口を開けた彼女の言葉に、郵便局員が目を丸くした。
「その説明で納得するんですか!?」
俺は郵便局員に苦笑いをしてみせた。
「フナビンと聞いて、船を連想できるのは俺たちが日本人だからなんですよ。フナとフネが同じなんて、知ってなきゃ分かりませんて」
俺のこの言葉に彼はイマイチ納得していない様子ではあったが、とにかく手続きを進めることにしたらしい。女生徒に笑顔で向き直ると、用紙の必要事項を1つ1つ埋めさせ始めた。
「さっきの話、もう少しクワシク」
郵便局員が荷物と一緒に奥へと向かったところで女生徒が向き直ってきた。本当はさっき書類を埋めている最中に立ち去ろうとしたのだが、服の裾をガッチリ掴まれて逃がしてもらえなかったのだ。
「えーと、船便の話?」
「ソレ」
どう説明したものかちょっと迷っているとペンとルーズリーフを突き出された。さすがは大学生。
「日本語の特徴の1つにくっ付けると変化する語があって、音便って言うんだけど」
「あー、ワタシもよくオンビンに済ませて言うマスネ」
勘違いしていることに気づいたが面倒なので指摘せず、手書きを続けた。
「酒とか船とか雨とか、ローマ字表記で書くと……あー、ローマ字表記は知ってる?」
「はい、それで日本語覚えたマシタネ」
やっぱりアルファベットの音を知ってる人はそれを介して教えるのが一番確実か。逆にアルファベットを知らない人への教え方をきちんと押さえないとな、と脳内のメモ帳に刻み込む。日本を教えるとき、そこには教える相手が存在し、その相手は毎回同じバックグラウンドを持っているとは限らない。
「ローマ字で書くと E で終わる言葉があるとする」
「はい、センセー」
そう返事しつつ真剣な顔で聞き入る相手に気恥ずかしさを覚えるも、どう答えたらいいか分からず、無言のままルーズリーフへ「
「これらが他の言葉と結びついたとき、E が A で終わる変化が起きる。例えば……」
続けて話しながら、先に書いた言葉の横へ「
「はー」
ルーズリーフを両手で捧げ持ちながら感心した様子で俺の汚い字を見つめている。逆に恥ずかしい。そこへ郵便局員さんが最後の手続きのために戻って来た。女生徒が向き直る。
この隙に退散することにした俺はそっと出口に近づいた。自動ドアが滑らかに開き、肌寒い外気が火照った体に気持ち良かった。室内は冷暖房がついてなかったにも関わらず、日差しだけで随分と暖められていたことに気づく。
いい天気だ。空を見上げた歩き出したそのとき、背後から大声が飛んできた。
「センセエエエエエエ!」
振り向く。さっきの女生徒が入口から俺に大きく手を振っている。その間、待たされている郵便局員さんも後ろで苦笑いしながら俺に小さく手を振っていた。
「アリガトー!」
周囲を歩く生徒たちの視線が恥ずかしくて、俺は雑に手を振り返すとすぐに背を向けて歩き出した。そのとき、そういえばあの子の名前を最後まで聞かなかったな、と気づいたが別段気にはしなかった。学年か学部、もしくはその両方が違うことはほぼ確実だった。もう話すこともないだろうと思ったからだ。
そして半年以上も経ってようやくその予想が外れたわけだ。
大学の本館は各階の中央階段の前にラウンジスペースがあり、丸テーブルとプラスチックの椅子が並べられている。すでに次の時間の授業が始まっており、ラウンジスペースの人影もまばらだ。いるのはおそらく俺たちと同じく雨宿りしている生徒たちだろう。
自販機で買った温かい飲み物の片方を彼女の前に置きながら、向かいに腰を下ろす。
「良く思い出したね」
「センセ―は完全に忘れてマシタネ」
まったくもってその通りだ。反論のしようもない。
「でも、ごめんなさい、実はワタシも忘れてマシタ。思い出したのは、センセーがヒントをくれたからデスネ」
「ヒント?」
俺が館内に引き返そうとしたに彼女は俺のことを思い出した様子だった。それが何かヒントになったらしい。首をひねる俺に彼女が笑みを浮かべる。
「あのときセンセー、何しようとしてマシタ?」
「土砂降りだったから、とりあえず雨が止むまでラウンジにいようかなって」
「はい、そうデスネ」
ここでちょっと間を置いてから彼女は得意げに先を続けた。
「センセーは、アマヤドリしようとしてマシタ」
なるほど。
「そういうことか」
「そういうことデスネ」
それで思い出したわけか。
「そっかー」
いや、それはそれでいいとして、その「センセー」という呼び方はどうにかならないものだろうか。正直なところあのときの教えた内容だと応用も効きづらいし、文法的な説明もほぼしていない。あれでもって先生扱いされるのはあまりに面映ゆい。
そう伝えたところ、しかし彼女には苦笑まじりに首を振られた。
「センセーが教えてくれたのは文法じゃないデスネ」
戸惑う俺を見ながら彼女は背筋を伸ばして真剣な目を向けて来た。
「センセーが教えてくれたのは日本語の面白さデス。おかげでワタシ、日本語を嫌いにならずに済みマシタ。あれから日本語を勉強し続けられマシタ。だからセンセーは私のセンセー」
そのあと、少し顔を赤らめつつ「あとセンセーが教えてくれたこと、もう1つあるけど、それは内緒デスネ」と口元に人差し指を立てられた。この「もう1つ」を聞き出せたのはこれからしばらく経ってからのことだが、それはまた別の話だ。
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