第2-2話:コンピューターの話
「
節電のためという名目で昼休みはほとんどの照明が落とされる薄暗い社内で、前日の野球の結果をネットニュースでチェックしていたらパーティションの上から声が降ってきた。
「どうしたんですか、
座ったまま見上げるとパーティションの上に腕を乗せ、さらにその上に疲れた顔を乗せた上司がいた。まだ40代なのに心労のせいか白髪交じりとなっている大きな頭が薄暗いフロアの中に雨雲のように浮いている。
ちなみにうちの会社で個人スペースを仕切っているパーティションの高さは大体大人の胸の高さくらいだ。だから普段は歩き回る他のメンバーの視線を感じずに仕事に集中できるし、近づけば今のこの状況のように簡単に中のメンバーと会話できる。
しかしその上で腕枕しながら楽な姿勢をとれるのはこの職場でも随一の巨漢である健井さんくらいだ。
「先に言っとくがお前のことを責めてるんじゃないぞ」
それを聞いて安心しろというのは無理な話だ。とりあえず仕事のパソコンをスリープモードにすると俺は話を聞く体勢に入った。
「
「あー、そっちですか」
「そっちってなんだよ」
「いえ、仕事で何かミスったかと思いました」
仕事のミスでなかったことには安堵したが、こっちの話もこっちの話で胃が痛い。
笹川というのはうちの職場に配属になった今年の新入社員だ。そして俺はその教育係だ。もちろん教育係という仕事が実際にあるわけではないし、普段の仕事に加えて教育係をやったからといって給料が増えるわけでもない。10人ちょいしかいないこの職場で俺が2番目に若いというだけのことだ。
それでも笹川が何かをやらかせば基本的には俺の責任ということになる。しかし会社という組織はそこで俺に苦情が直接は来ない。まずは上司だ。つまりは健井さんだ。
「すいません」
「いや、まあ、お前が謝ることじゃないんだが、それでも俺はお前に言わんといかんわけだ。分かるよな」
「はい、分かります」
残念ながら、と付け加えなかったのは目の前の上司が俺のしている何倍もの苦労を1人で背負い込んでいることを知っていたからだ。
そして「分かります」と答えたのは分かっていたからだ。
笹川がもう少しどうにかなってくれないと困ることを。
「笹川」
メールではらちがあかないことが分かったので俺は笹川のブースへ向かった。
「また直しですか」
うんざりした顔をされる。本当にコイツは顔に出る。俺相手はいいが、せめて先輩方に注意されたときにあからさまに不満そうな顔を浮かべるのだけは止めてもらえないだろうか。
「また直しだ。コンピューターを直してくれ」
俺が依頼したのは画像や表を含んだ文書作成だ。もちろん画像や表のデータ作成を任せたわけではない。さすがに新入社員には荷が重すぎる。それらのコンテンツをどう配置したいのかのレイアウトおよびそれらの隙間を埋める見だしや文章を手書きで渡して、その通りのパワーポイント資料を作成してもらった。
パワーポイントを使ったことがないというので、画像の貼り付け方やサイズの変更の仕方、フォントの設定方法などを逐一教えて、なんとかレイアウトは形になってきた。そしてようやく文章の細かいチェックに入れたのがここ数日のことだ。
「もう神田先輩が直したほうが早いと思いますよ」
当たり前だ。何年も経験を積んだ俺のほうが遅かったら大問題だ。それこそ給料を下げられても文句が言えない。
「遅くてもいいから直してくれ。表記ゆれがある。コンピューターとコンピュータだ。とりあえず長音記号が無いほうを正にしてくれ」
「それくらい置換で出来ますよね。ここまで来てもらう時間を考えたらマイナスですよ」
そうだな。お前が自分でブレに気づいて直してから提出してくれてたら全部不要な時間だったな。
もちろん、そんな子供じみた口喧嘩でさらに時間を無駄にするつもりはない。
「画像化されたグラフや表の中にないと言い切れるか?」
「それくらい先輩が」
お前、頼むからそれ他の先輩に言わないでくれよ。
「これはお前の仕事だ。お前が完成させる。俺はただチェックをする。そうしてやっとお前の実績が生まれる。それでも出したあとに見つかったミスは全て俺の責任になる。それが俺の仕事だからだ」
笹川は黙ってパソコンに向き直った。俺の言葉に感銘を受けてくれたからなのか、単に面倒になったのか、定時までに帰りたかったからなのかは定かではない。
定時を1時間ほど過ぎたがなんとか資料は完成した。
紙に打ち出してもらったそれを手渡してもらったとき、俺はダメ元で、奢るから駅前でラーメンでも食おう、と笹川を誘ってみた。健井さんの言葉もあったので、色々と注意しておきたかったのだ。厳密に言えばそういった注意も業務の一環であり、定時内に行うべきことではある。しかし俺は他の社員がいるところで笹川を叱る気にはなれなかった。先輩からの教えの1つ、「褒めるときは人前で、叱るときは人目を避けて」を思い出したからだ。
いずれにせよ定時後にまで俺と顔を突き合わせたくはないだろうと諦め気味の誘いだったが、意外なことに笹川は乗ってきた。この時点では、奴も俺に言いたいことがあるからだ、とは気づけなかった。
「なんでコンピュータなんですか」
駅前のラーメン屋で店員に大盛ラーメンの食券を2枚渡してからカウンター席に座ると、いきなり笹川のほうから話しかけてきた。
「そりゃ今どきワープロ専用機とか無駄だろ」
「違いますよ。普通伸ばすでしょう、コンピューター」
普通って言われてもなあ、と思いながらカウンター席の前に並べられたトッピングをチェックする。このラーメン屋は無料のトッピングが充実しているのが売りの1つだ。個人的には生タマネギが嬉しい。
「伸ばすとか伸びるとか、プロジェクトだと縁起が悪いからじゃないか」
心底適当な返事に、逆に言葉が返せない笹川の顔を一瞥してから俺は笑った。
「すまん、まあ、それは冗談としてだ。特に理由はないな。単に1つの文書内では統一しておかないと図表のデータ精度まで疑われるからな」
「どういうことですか? 表記ゆれとデータの精度は関係ないでしょう」
正論だな。
間違ってるが。
「うーん。例えば新聞を読んでて変換ミスがあったらどう思う? ちゃんと校正してるのか怪しい気がしてくるだろ。そしてちゃんと校正も出来てない新聞となると取材やソースも怪しいかもしれない」
心底は納得してない様子だが、とりあえず「まあ、分からないでもないです」と笹川が返してくれたところでラーメンが運ばれてきた。濃い豚骨スープに太目の麺が漬かっており、その上に肉厚のチャーシューを始めとした力強い具が並んでいる。
「食いきれるか?」
「勝手に大盛りにしたのは先輩ですよね。まあ、食いきれますけど」
じゃあ文句言うなよ。
そう愚痴りたくなったところで今日の目的を思い出した。
「ちょっと言いづらいことなんだけど」
「それよりコンピューターの件なんですけど」
なんだって?
「その話、もう終わっただろ」
「終わってませんよ。表記ゆれを避けるべき理由については一応説明いただけましたけど、なんでコンピューターと伸ばさないのかは説明してもらっていません」
したような気もするが、してないような気もする。
しかし考えてみたら会社に入ってからは伸ばさない表記を多く見る気がする。コンピュータもそうだが、サーバやドライバも伸ばさない。容量削減のために文字数を削る文化が根付いたんだろうか。
「原語の英語でも末尾は ter ですから伸ばすべきですよね」
「いやー、むしろネイティブは伸ばしてない気がするぞ」
シンガポールやアメリカから来る海外支社のメンバーとの会議を思い出しながらそう返して、相手の返事を待つ間に熱いラーメンをすする。
まずは追加の調味料もトッピングもなしで食えるだけ食う。ただでさえ量が多いのに大盛りにするとどうしても途中で味に飽きてくるので、そこで初めてニンニクやタマネギといったトッピングの出番が来る。それが俺のスタイルだ。
「じゃあ先輩はセータとかクーラって言いますか? セーターとクーラーでしょう?」
「へえ、最近の若い世代はクーラーって言わないと思ってた。エアコンじゃなくて?」
「うちはクーラーでした」
「クーラで思い出した。推理小説って読む?」
俺のこの質問は、日本の推理小説家に意地でも長音記号を使わない作家がいることを思い出したからだ。クーラーを「クーラ」、ライターを「ライタ」と書くその作家の文体は、初めて見たときは本当に奇異に見えたものだ。しかし笹川の返事にそんな考えはどこかに消えてしまった。
「アガサ・クリスティだけは読みます」
「え?」
「知らないんですか?」
「あ、いや、そうじゃなくて、ちょっと書いてみようか」
俺は懐からボールペンを取り出すとカウンターに置かれた紙ナプキンと一緒に渡した。渋る笹川に無理やり書かせる。
「クリスティなんだな」
「だからそう言ってるじゃないですか」
「いや、これ、伸ばさないの? クリスティーって」
名前の最後を指さした俺の言葉に笹川の顔が一瞬こわばる。
「いや、これは、いらないんですよ。ほら、小さい『ィ』があるじゃないですか。両方は不要ですよね」
「その理屈だと紅茶はティーじゃなくてティって書くことになるぞ?」
相手の言葉に、俺はボールペンで横に2つの単語、ティーとティを書き足した。正直なところ、揚げ足取りのつもりはなかった。純粋に不思議だったのだ。
しかし笹川はそうとらなかったらしく、不機嫌そうに返された言葉は売られた喧嘩を買うかのような強い口調だった。
「紅茶がティーなのは常識じゃないですか。もう少し考えて喋ってくださいよ」
だから、先輩に対してその態度は止めてくれ。いや俺はまだいいが、社会人としてプライベート以外ではもう少し礼儀正しくしないと本当に困るぞ。
考えてみたらそもそもその話をしに来たんだった。
互いのラーメンもほとんど空に近づいているところでギリギリ本題を思い出せたことに気づく。それでもやはり口に出すには抵抗のある話題で、意を決するのには間が必要だった。
そしてその間のせいで先を制された。
「いや、でもアップルティならありな気がしますね」
「へ? 好きなのか、アップルティ」
「違いますよ。何の話をしてたのか忘れたんですか」
いや、ちょうど思い出したところだ。何の話をするべきだったのかを。
「長音の扱いについてでしょう」
そもそもは違うぞ。
「ティーはさすがに長音がないとおかしい気がしますけど、アップルティとかカモミールティとかだと最後を伸ばさなくてもいい気がします」
ここで笹川は箸を器に置くと、ごちそうさまでした、の言葉と一緒に立ち上がった。
相手の最後の言葉についてどう返そうか悩んでいたせいで、突然の退席に対応できず、気が付いたら笹川は俺を置いて帰っていた。
そういえば奢ってもらったあとに、ごちそうさまでした、とお礼を言うことは出来るんだな、とラーメン屋から帰宅する最中にふと気づいた。そのときは、とりあえず一歩前進だな、と思ったが、家に帰ってからよくよく考えてみたら何も前進しておらず何も解決してないことに気づいた。
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