第1-2話:ワイシャツの話
あと1週間ちょいで大学も夏休みという6月のある日のことだ。
ちなみにうちの大学は6月末にはもう夏休みに入り9月頭にはもう授業があるというスケジュールだ。これは日本の大学の中ではかなり変則的らしい。
8月いっぱいで夏休みが終わるという日程は、それまで過ごしていた高校時代とほぼ変わらなかったため、初めて大学の日程を知ったときも「7月丸々休みか。大学は夏休みが長いんだな」という程度の感想しか持たなかった。
他大に行った高校時代の同級生と話す機会があったときに、ようやくこれが普通ではないのだと知った。
いずれにせよ夏休みを清々しい気持ちで迎えるためにも目の前のレポートを倒さねばならない。提出先の教育研究棟までの移動時間も含めると2時間あるかないかだ。急がないとまずい。
まだ午前中ということもあり大学の部室棟の1階は人もまばらだった。俺はそこに並んだ丸テーブルの1つにレポート用紙とテキストを広げた。
いざレポートにとりかかろうとしたとき、ふと嫌な予感がした。
この状況、なんか覚えがあるぞ。
「相変わらず勉強熱心ッスねー、先輩」
背後からの声を聞いた瞬間、俺はテーブルの上の物を全部鞄に放り込み別棟へ駆け出したい衝動に駆られた。しかし必死に自制する。移動時間が無駄なこともあるが、何より、それは自分に負けた気がするからだ。
そう、そもそも相手にしなければいいのだ。それは俺の問題だ。
前に回り込んできて断りもなく目の前の安っぽいプラスチック製の椅子に腰を下ろしたのは、
つまり先輩呼びはからかい半分だ。
見ると、どうやら年に1回の散髪タイムを迎えたらしく、ついこのあいだまであれだけ見事な長さだった黒髪がバッサリと短くなっていた。首元が実に涼しげだ。
首をひねった瞬間、数センチの長さのお下げがちょこんと突き出しているのが見えた。
なんか、それ、もうまとめる必要なくないか?
「いやー、もうすぐ夏休みだねー。セージはどっか行くの? 海とか山とか海底とか山頂とか」
後者はそれぞれ前者に含まれてる気がするんだが。
ちなみにこいつが俺をセージと呼ぶのは俺の名前が
って、ヤバいぞ、奴の言葉を耳に入れるな。
「私のことはいないものと思ってくれていいから、ほらほらレポート進めた進めた」
「じゃあ物理的にいなくなってもらえないかな」
つい口を開いてしまった俺の言葉に、永久子が沈黙した。目線を上げると、驚愕に目を見開きながら野菜ジュースのパックを持った手をわなわなと震わせている永久子の姿があった。
「し、死ねってこと?」
「い、言ってないだろ、そんな……」
あ。
これダメだ。
脳内にハムスターがカラカラと回し車を走る映像が浮かんだ。
全力で走っているのに気が付けば同じ場所にいる感覚。
いつもそうだ。
永久子のペースに巻き込まれて会話をしてると疲れ果てた挙句に何も進んでいないことに気づくのだ。
大きく息を吸い込む。
吐きだす。
視線を手元のレポート用紙に固定する。
「そうだ、それでいいんだ、粕川」
部活の顧問みたいに重々しく告げる永久子の声を無視する。
「レポートしながらでいいんだけどちょっと聞いてよ」
無視。
「私さ、夏休みのうちに大学近くの下宿に引っ越すつもりなわけ。さすがに片道1時間半はそろそろ限界ってか」
無視。
「んで、今さー、真面目にこうやって駅前の不動産屋にもらった冊子を見てるってわけよ。私も忙しいってわけよ。察してよ。冊子だけに」
無視。
ようやく俺が相手する気が無いということが伝わったらしく静かになった。向かい側からはパンフレットをめくる軽い音が一定のリズムを刻み始める。
しかしその静寂も長くもたなかった。
「ぶははははは! ちょっとこれすごいわ! これ、これさあ、道案内に『突き当りのT字路を右に曲がって』ってあんだけどさ! 『T字路』の『T』がよく見ると一丁目、二丁目の『
どの時代にもその名前はいないだろ。
というか、それより何より。
「それ合ってるから」
さすがに看過できなかった。
「ねー、変だよ……あ?」
デジャヴを感じる。
なんか嫌な予感しかしない。
それでもレポートを書く手を止めずに最低限の説明で終わらせることにする。
「日本語に『てぃーじろ』はないから。形がちょうど同じな上に口語だと区別しづらいから間違って覚えてる人多いけど『
「うっそだー」
永久子が疑い深げな声でギコギコと椅子を傾ける。
「じゃ、ちょっとスマホで『ていじろ』を変換してみてよ」
俺の言葉にスマホを取り出しペタペタと操作する永久子。
その動きが止まった。
「マジか」
「な? 逆に『てぃーじろ』だと変換できないはずだ」
あらためてスマホをいじくる永久子。
「ほええ」
スマホの画面を凝視しながらキテレツなため息をついている永久子の姿を見ていて、もしかしたら、と気づいたことがあった。
「永久子ってさ」
「なんよ」
「ワイシャツの『わい』をアルファベットのYだと思ってるだろ」
相手が口を開こうとしたところで予想される回答を先回りしてみる。
「Tシャツに対してYシャツなんだからそりゃそうでしょ、って言おうとしただろ」
金魚みたいにパクパクと口を開いたり閉じたりしたあと、両手を大きく斜めに上げた。Yのポーズだ。目をギュッとつぶったその表情を見るに、降参の意味も兼ねてるらしい。
「ワイシャツの語源は White Shirts だからね。少なくとも英語で『Y Shirts』って書いても通じないはず。『T Shirts』は通じるけど」
永久子は、そっかー、と呟きながら手を下げるとスマホをいじりだした。
また動きが止まった。
「あれ? 『わいしゃつ』の変換で普通に『Yシャツ』出るよ?」
「え?」
マジか。
定着しきっちゃったってことかな。そうなると、むしろもう和製英語ってとらえるべきなのかもしれない。
軽い敗北感を覚える。
「そっか。でも個人的にワイシャツの『わい』が『Y』になるのって、ジーパンの『じー』にアルファベットの『G』使うくらいの違和感あるんだけどな」
「あれ? 違うの?」
それもかよ。
「ジーパンはジーンズパンツの略だからつづりに『G』は使わないよ。頭文字は『J』になるはずだし、大体からしてさ」
今書いているレポート用紙を下に回すと、まっさらな紙面に「Gンズ」と書いてみる。
「これ、さすがになんかおかしいって思うでしょ?」
「そうだね。ゴンズって読みたくなる」
「それは知らんけども」
「そうでゴンズか」
だから知らんて。
「まあ、でもこういう『TシャツだからYシャツだろう』みたいな類推って、日本に限った話じゃないけどね。英語でも似たような話あるよ。単数形でも S で終わる『Peas』って外来語が伝わってきて、しばらくしたらいつの間にか『Pea』で単数形を表すようになっちゃったらしいし」
ついでとばかりにレポート用紙の余白に JPEG と MPEG と書き並べる。
「あとこういう
ちなみに実際はこれら2つの単語の PEG は異なる単語から取られた頭文字語だ。具体的に何の英単語の頭文字かは忘れたけど。
そんな話をしたら永久子がすぐにご自慢のスマホで意味を調べてくれた。
「えーと、Jのほうが……」
俺の隣まで椅子を引きずりながら移動してくると、ノートに俺が書いた JPEG と MPEG という文字のそれぞれ下に Joint Photographic Experts Group と Moving Picture Experts Group と書いた。
なるほどな。JPEG は画像だから Photographic で、MPEG は動画だから Moving Picture か。妙に納得した。
しかし女の子ってなんでみんなこんな字が綺麗なんだろうな。不思議だ。
そんなことを考えてる俺の横で、うんうんとノートを見ながら頷いていた永久子が付いてもいない埃を払うように手をパンパンと打ち鳴らすと立ち上がった。
そのまま大きく伸びをする。
「なーんかさ。ジーンズの話してたら駅前のジーンズショップ行きたくなったから帰るでゴンズね」
それ、気に入ったのか。
あと下宿先は探さなくていいのか。
まあそんな急ぐ話でもないかな。夏休みの前に絶対に終わらせないといけないってことでもなさそうだし。
ん?
夏休みの前に終わらせないといけないこと?
ちょっと待て。
「じゃねー」
永久子がひらりと手を振り、ガラス戸から出ていった。
残されたのは俺と全く進んでいないレポートだった。
なおレポートは間に合わなかったが、泣き落したら一晩猶予をもらえた。
だからと言って永久子を許したわけではない。
断じて。
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