第6-1話:味わった話

 テレビを見ながらスマホをいじってたら、風呂上りの兄貴が髪の毛を拭きながら話しかけてきた。

「はい、第1問。日本語の問題な。あ、でも中学生のカナちゃんには難しいかな~」

 信じられん。なんで、こいつは第一声からそんな心底ムカつく会話を開始できるんだ。あれか。大学生にもなるとその程度のスキルは身につくものなのか。

 そうだとしたら、むしろなりたくない。

 でも答えないとずっと横で話し続けるし、あまりのウザさに前はそれで掴み合いのケンカになり、その結果なぜか「女の子がそんなことするんじゃない」とわけ分からん理由で私だけが母さんに怒られた。

 くそ。しょうがないから話を聞いてやって、とっとと終わらせるしかない。いっそ相手の人生を終わらせたいが、こいつのためにブタ箱に放り込まれるのは割に合わない。

 色々と納得いかねー。

「はよ言えや」

 そして死ね、という言葉は飲み込んだ。

 台所で食器を片付けてる母さんに聞かれたら「あんた、また女の子なのにそんな言葉」とかなんとか説教されるし、ホントめんどい。そしてせっかく私が許可を出してやったってのにバカな兄貴がバカな質問をしてくるんだ、これが。

「あ、その前に否定形って分かる?」

 うっざ。

「分からない」

「あー、やっぱりねえ」

「って言葉でしょ、例えば。分かってるからとっとと終わらせろや」

 私の端的な回答にペシッと自分の額を叩きつつ嬉しそうにほざく兄貴を横目で苦々しげに見やりつつ言葉を続けた。兄貴の動きが一瞬止まる。

 なお、そして死ね、と今度はちゃんと付け加えた(ただし小声で)。

 母さんは台所で水仕事を開始したみたいだから多分聞こえないだろう。

「ふっ、そこまで分かってるなら話は早い……って、今なんか最後に言った?」

「うん。死ねって言った」

「そっか。まあいいや」

 いいのか。

「じゃあ問題だ。『味わう』を否定形にしてみろ」

 何言ってんだ、こいつ。

「は? 簡単じゃん。味あわ……味わ……味わあない? あれ? あじあわ……あれ?」

「ぶははははは!」

 とまどう私に指をさして笑う兄貴、ソファから弾かれたように立ち上がり拳を振るう私。

 そしてまた怒られたのは私だけだった。

 くそ。

 色々と納得いかねー。


 さて、土曜日のこと。

 料理好きの母さんは特に週末、その腕を振るいたがる。今日も昼頃に買い出しに出かけたあと、夕方になってからあらためて食材を確認し出したが、何やら足りないことに気付いたらしい。

 酒屋さんでみりんを買ってきて、と頼まれた。

 そして向かった先の酒屋でのことだ。


「こないだタケルさんから聞いたんだけど、またカナが一方的に暴力振るっておばさんに叱られたんだって?」

「待てや。いくらなんでもその情報伝達は歪み過ぎだろ」

 レジには酒屋の一人息子にして私の幼馴染であるタカシが店番をしており、店に入るや否やこの会話と相成った。

 状況説明、終了。

「でもタケルさんそう言ってたよ?」

「対立する陣営の情報は双方向から聞かないと見誤るよ」

 寝ぼけたこというタカシにそう教えてあげてから店内を歩く。頼まれていたみりんをまずカゴに放り込む。次にノンシュガーアイスティーのペットボトルを探す。

 アイスティーは自分用だ。

 甘くないのを飲んでる方がカッコいいかもしれない、と思って飲み始めたら意外と飲める味だと気付いたけど、なんか周囲から変にカッコつけてるって言われるのが嫌で今では人目を忍んで買っている。

 我ながら意味が分からん。

 なお、人目を忍ぶと言いつつ、タカシに目撃されているのは構わないのかというと、うん、構わない。こいつはそういうの気にしないし、そもそも私がこいつの弱みを(兄貴経由で)大量に握っている。

 タカシが頼れる二十歳超の男性というと身近にはうちのバカ兄貴くらいしかおらず、結果、タカシが上った大人の階段は兄貴経由で大体が筒抜けなのだ。

 そして私がそれを把握していることをタカシも把握している。

 はい、ヒエラルキー完成。

 商品を入れたカゴをレジに置いて精算してもらう。

 バーコードを読み取りながらタカシがなんかぶつぶつ言い出した。

「双方向から聞かないとも何も、お前、学校で話しかけてくるなって言うから会話ないじゃん」

「そんなこと……言ったけど」

 なんか中学生になった時、ふと色々とそれまでの子供時代から自分をリセットしたくなった。男子と平気で話すってのもなんか小学生くさいなあ、とか思ってそう言ってしまったんだけど、うん、今更ながら後悔してる。

 もう放課後に一緒に遊ぶこともなく、学校で話さないとホントこういうときでもないと話す機会がない。

 ちょっと寂しい。

 そろそろ話しかけてきてくれないかなあ、と思いつつも自分から言うのは悔しいし、恥ずかしい。

 複雑なお年頃だなあ、私も。

 うんうんと自分の悩みを分かってあげていると、レジを叩いていたタカシが苦笑する。

「じゃあソーホーコーからの情報で判断すっから何があったのか教えてくれよ」

 そう言われた私は、内心ニヤリとほくそえんだ。

 よし、こいつも悔しがらせてやろうじゃないか。

「味わう、って言葉あるじゃん。あれの否定形って言える?」

「味わえない」

 あれ?

「いや、あれ?」

「何?」

 なんか違う気がする。

「えーと『食べない』が『食べる』の否定形だから……『味わえない』はそういう意味では『食べられない』だから……そう! 『食べる』を『食べない』にするみたいに『味わう』をこう、なんとか、可能かどうかじゃなくてさ。味わうか、そうしないか、みたいな……」

 自分でも何を言っているのかよく分からなくなってきた私に、タカシが分かった分かったと手で制して口を開く。

「味がない」

「違ああああああああああああああう!」

 客がいないのをいいことに大声で否定する私にタカシが声を出して笑う。

 なんか……こいつのこんな笑い声聞いたの久しぶりだな。鼻息荒く相手をにらみつけながら、ふとそんな考えが頭をよぎる。

「わりーわりー。最近はこういう機会でもないとさ、お前の困ってる様子が『味わえない』から」

「くっそ」

 険悪な顔を崩さない私にタカシが、クックッと笑いをこらえながら店のメモ帳を手に取った。

 鉛筆で何かを書き始める。

「いやー、だってそんな難しくないだろ。『う』で終わる動詞をまず考えてさあ、例えば『わらう』があったとして……」

 メモ帳に「わらう」と書き「う」を丸で囲った。

「それが『わらわない』になるんだから『う』が『わない』に置き換わるって考えればいいわけで」

 丸で囲った「う」の下に「わない」を並べ、さらに「わらう」の横に「あじわう」と並べた。

 私はタカシから差し出された鉛筆を握った。

「この『う』が『わない』になる……『味わう』の『う』だけを『わない』に置き換えると『味わわない』」

 レジから釣り銭を出しながらタカシが頷く。

「ってことさ。ああ、そうそうもう1つ」

「なんよ」

「いや、さっきから否定形って言ってるけどさ、動詞の活用形に否定形はないよ。日本語にあるのは否定文」

「……否定形うんぬん言い出したのは兄貴だから」

 負け惜しみを言う私にお釣りを渡しながら、毎度ありとタカシは付け加えた。

 ありがと、と答えつつ店を出ようとして、自動ドアの前で振り返った。

「あのさー」

「んー?」

 ぼんやりとこっちを見てたタカシが怪訝な顔をする。

「別に来週からはさ、フツーに学校で話しかけてくれていいから」

 相手が私のその言葉にどんな顔したかを確認せずに私は急いで店を後にした。


 話し込んでたせいで遅くなった私は母さんに怒られた。

 みりん買ってくるだけで遅すぎる、とか、女の子なんだから暗くなる前に帰ってこないと危ない、とか、まあ色々と。

 でもしょうがない。そのかわり今後は寂しい思いを「味わわない」で済みそうなんだし、良しとしようぜ、自分。

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