第5-1話:ネスレの話
12月半ばのオフィスは室内にも関わらず息が白くなるほどに寒かった。
地球温暖化対策のためだかなんだか知らないが、エアコンの設定温度の最高値が制限されているせいだ。かつ休日のため、ほとんど人がいないことも理由の1つだろう。人間の発する熱というのは馬鹿にできないんだな、と益体もないことを考えながら俺はパソコンのキーボードを叩いていた。
俺と同僚の武田の2人は、月曜までに終えなければいけない資料作りを休日出勤しながら作成しているところだった。午後に入った頃にようやく終えられそうな目処がついた。キーボードに打ち付けるのもつらいほどに冷たくなってきた指先をもみほぐしつつ、斜向かいに座る武田に「一休みしようや」と声をかけて給湯室へ向かった。
廊下に出る前にデスクに放り出していた社員カードを引っつかむ。オフィスから廊下に出る扉さえもオートロックのこの社内では本当であれば肌身離さず身につけておくべきものだが、首に何かをかけておくのがどうしても苦手な俺はいちいち外してしまう。
ドアを開けて待っててくれた武田と一緒に白一色の廊下を歩く。白くて、静かで、そして寒い。まるで冬そのものだ。
「くそ、30代に入ってから寒暖の差に弱くなった気がするな」
「単にリッチーが残業だらけの生活を送ってなかったからじゃない? こんな寒さをコートなしに過ごすなんてそうそう体験する機会ないからね。休日出勤するようになったのって職階が上がってからでしょ」
言われてみればそうかもな、とぼんやりと返す。
入社してからそれなりに時間も経ったな、とあらためて思い返す。同期の間で呼ばれていたリッチーというあだ名を使うのも今やこの武田だけになった。同期の半分は転職やら何やらで辞めており、残りの半分は地方へ転勤だ。
残ったのは、時間に余裕があった時期に散々ジム通いしたせいでゴツゴツの外見になった俺と、芸能人のように細くてイケメンの武田という対照的な2人だ。共通点は仕事が楽しすぎてついつい婚活がおろそかになっているということくらいだ。
余談だが、俺のあだ名の由来は大したものじゃない。森地大輔という本名から「もりっち > もりっちー > りっちー」という呼ばれ方の変遷を経てきただけのことだ。
外に面する壁一面が窓となっている給湯室はオフィスよりも寒々としていた。プライベートな空間のため、外から見えないように曇りガラスがはめ込まれているが、断熱効果は低いようだ。
俺は棚からドリップ式のインスタントコーヒーを取り出し、武田も同じものにするのだろうか、と視線を向けた。
武田は軽く首を振ると下の棚からココアの缶を取り出す。バッサバッサと景気良く自分専用のマグカップに粉を放り込むと、これまた大さじで何倍も砂糖を加えてからお湯を注ぎ込んだ。なんでこんなカロリーとってんのに太らないんだ、こいつは。
飲み物を注いだだと、黙ったまま2人でゆっくりと熱量を体内に移し変えていると、武田が自分のカップの水面を見てクスクスと笑った。なんだ。怖いぞ。
「どした」
一応、聞いてやることにした。
「いや、子供の頃さ、僕にとってココアってのはミロだったんだ」
「ミロ?」
「いや、そういう名前のココア飲料があるんだよ。粉状でお湯やミルクに溶かして飲むんだけどさ。僕にとって、ココアってのはミロで、ミロってのはココアだったんだよ。だから外で食事するとき、ココアが飲みたい、って言うかわりに、ミロが飲みたい、って言ってたんだ。親は分かってるからココアを頼んでくれるわけ」
「ああ、それで大きくなってから知ったわけだな、世界の真実を……ミロがココアの全てではないと」
「大げさだなあ。いや、間違ってはないけどさ。それでさ、あれは、中学生だったかな、初めて子供たちだけで喫茶店だかなんだかに行ったときで……冬だった気がする。寒かったのは覚えてるよ。みんなが飲み物を決める中で、僕がミロにするって言ったら笑われてさ。馬鹿みたいだけど、その日は泣きながら家に帰って親にも笑われて、ホント、人生最悪の日だった」
思わず正直な感想が漏れる。
「馬鹿だったんだな」
「無知をそう呼ぶのであれば、うん、馬鹿だったね。あ、でもさ、ミロを知らないってのも珍しいよね」
軽い反撃を見舞ってきたつもりらしい。
そう言われても知らんもんは知らん。
「はあ? そんな有名なのか? まあ、ガキの頃は日本に住んでなかったしなあ」
物心ついてすぐにアメリカは西海岸へ親父が転勤となった。母親は祖父母の反対を振り切って、俺と生まれたばかりの弟を連れて親父について海外生活を始めた。
俺は現地のアメリカンスクールに通いつつ、家では母親による日本語の授業を受けていた。そんな勉強尽くしの環境に耐えられたのは、母の教え方が上手かったからか、俺が優秀だったのか、……単に親に心配をかけたくなかったからなのか、思い出せない。まあ、今となってはどうでもいいことだ。日本に帰ってきたのは中学生になる春休みだった。
そんなわけで俺の小学校時代には日本文化の入る余地はなかった。そのせいで中高生時代は友人たちと、小さい頃に見た漫画やアニメなどの話題で盛り上がれず苦労したものだ。
「日本でしか流行ってないものにはどうにも疎いんだよなあ」
悔しそうにそう認める俺に、武田が自信なさげに呟く。
「いや、アメリカでも結構メジャーな飲み物のはずだけど……ネスレのミロって言ったら」
「ネスレノミロ?」
「ネスレは会社名だよ。ミロが商品名。ホントに知らない?」
「アメリカでもメジャーなネスレ……え、それ、英語で書くとどういうつづりになるんだ? 想像できねえわ」
武田は上着の内ポケットからボールペンを取り出した。
書き付ける紙がないかと辺りを見回すが、土曜日に清掃会社が来たであろう給湯室には紙切れ1枚転がっていなかった。俺が自分のポケットを漁ってみるとコンビニのレシートが出てきたので、それを手渡す。武田はそこに青い字でさらさらと会社名を英語で書いた。相変わらず外見にふさわしい綺麗な字を書きやがる。
「スペルはこうだったはずだよ」
そこには Nestle と書かれていた。俺は苦笑した。
「なんだ、ネッスルのことか」
ネスレなんて無茶な読み方をされては知ってるものも出てこない。分からないはずだ。事ここに至って、もう1つの行き違いにも気がついた。
「なあ、もしかしてお前が言ってるミロのスペルってこうか?」
相手のボールペンを借りて、Nestle の隣に Milo と書く。武田は笑顔で頷く。
「うん、そりゃそうでしょ。他にどうやって書くのさ」
「マイロ」
「どこへ?」
「参ろう、じゃねーよ。これの読み方だよ。ミロじゃない、マイロだ」
分かってみれば何のことはない。ネッスルのマイロと言えば、確かにアメリカでも馬鹿でかい缶で売ってるのをよく見た。日本のスーパーでも何度か見かけたことがあるような気がする。
「え、なんで Mi でマイって読むのさ」
「アホか、マイクだって英語で書けば Mike だし、長さの単位も Mile でマイルだろうが」
「あれ? ホントだ。普通にマイって読むね」
「まあ、そっちはまだ分からんでもないんだけどな、ミシガン州のつづりは Michigan だし、ローマ字読みと同じ発音だって珍しいってほどじゃない。ただ、Nestle でネスレって読むのは、英単語の読み方を少しでも知ってたら、どうやっても出てこない読みだろ」
あきれ顔の俺に、まだ呑み込めていない様子の武田がレシートに書かれた Nestle の文字を見ながら首をひねる。
「えーと、Le で レ とは読まないってこと?」
「いや、そういう意味じゃない。Let って書いて レット って言うし……だから、そうじゃなくて -tle で終わる単語の末尾をレって読むのがどうかしてるっつう話だよ。ほら、リトルとか、ハッスルとか、ホイッスルとか、日本語でもカタカナで使うだろ」
相手からまたボールペンを借りて、狭いレシートにカリカリと今言った単語を順に書いていく。Little、Hustle、そして Whistle 。
さらにそこへあらためて並べるように Nestle と付け加えてみる。
「おら、こうやって見れば、Nestle って書いたら ネッスル って呼びたくなる気持ちも分かるだろ? あえて英語っぽく言うならネッソーだ」
「うーん」
レシートを手にして、じっと眺めていた武田が苦笑した。
「悪いけど、やっぱりネスレかなあ。小学生の頃からそう呼んでるからね」
慣れというのは恐ろしい。
「そうか。別に俺は構わんが、アメリカ行くことがあったら、ネッスルのマイロください、って言わないと通じないからな」
「行かないから大丈夫。大体からして『何かをください』って英語で言えないし」
そいつは重症だな、と返してからコーヒーを口に含むと、今の無駄話の間にすっかり冷え切っていた。武田も同じらしい。2人して飲み残しを流しに空けて、熱々の入れたてを飲むことにした。あと1時間以内には終わらせて、とっとと帰ろうぜ、とかなんとか話しながら。
ちなみに武田がアメリカ支社に出張させられることになったのはこの会話のわずか半年後のことだったが、それはまた別の話だ。
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