第3-1話:ロートルの話
大学のパソコン室は夏の猛暑を避けるには最適の場所だ。贅沢を言えばもう少し設定温度を上げて欲しいことくらいだ。
予想通りの肌寒さに、薄手のセーターを持ってきて正解だったな、と鞄からそれを取り出した。セーターに袖を通しつつ、同じ鞄からカバーをかけた文庫本を取り出した。さらに一番近くにあった適当な椅子を引き寄せて足を乗せ、長い髪の毛を後ろで束ねる。
よし。
本を読み始める準備が整ったところで文庫本を開いた。幸いなことに日曜日のパソコン室は人影もまばらで椅子は余りまくっている。パソコンを使いもしないのに椅子を2つ使っていても怒られる心配はなさそうだ。
念のために説明しておくと、別に猛暑を避けるためだけにパソコン室に来ているわけではない。それだったらちゃんと図書館に行く。ここにいるのは付き添いだ。
誰の付き添いかというと、私の隣でパソコンを前に頭を抱えている同級生の
この子が、週末のうちに英文のレポートを完成させないといけないという非常事態に陥っているのは、端的に言えば遊びほうけていた本人の自業自得だ。1人ではさみしいというのは休日をつぶして付き合ってあげている私に感謝の言葉があってもよいはずだが、今朝待ち合わせ場所で頂いたお言葉は「え、嘘、手伝ってくれないの!?
どれだけダメ人間の道を突き進むつもりなんだ、この子は。
ちなみに沙耶はかなり可愛い。私見だが、多分この大学で全学年合わせても3本の指には入る。これだけ可愛いので意のままに動いてくれる男なんてすぐに捕まえられそうだが、寄ってくる男たちも彼女のあまりのダメ人間っぷりにすぐ離れていく。ある意味すごい。
最初の10ページほどで早くもその本を買ったことを後悔し始めていた私の浅い集中を破ったのは、これまた早くも慣れない英語に音を上げ始めた沙耶の力無い問いだった。
「真紀子ー」
「何よ?」
「ロートルのスペルってどう書くの?」
「はい? 何、スペルって」
「スペルってのは英語のつづりのことだよ、言わせんな、恥ずかしい!」
テンパッた沙耶の叫びにも私は振り向く必要すら感じず、乗り気になれない文庫本のページを力無くめくりながら答えた。
「ロートルってのは英語じゃなくて中国語。言わせんな、恥ずかしい」
「え、嘘」
「嘘ではないよ。私の知識が間違っている可能性は否定しないけどね」
片仮名で書かれる単語が必ずしも英語から来ているとは限らない。「ロートル」だけでなく、今の沙耶の状態を指して「テンパッてる」というのも元は中国語だ。語源は麻雀用語の「
そのパターン以外にも、漢字で書くことが一般的でないためあえてカタカナで書かれることもある。アザラシやイルカなど動物の名前が良い例だ。
動物の名前と言えば、1つ思い出したことがあった。
「関係あるようで全然関係ないけど、アホロートルって名前のサンショウウオがいるはず」
「嘘だー」
「嘘ではないよ」
「ググッて調べちゃうよ? 嘘だったらお昼ご飯おごって!」
「本当だったら逆におごってくれるんなら乗るよ。って、そんなんどうでもいいからレポート続けなさいな」
その後も隙あらばネットサーフィンをしようとする沙耶の後頭部を丸めたマウスパッドで引っぱたき続けた甲斐もあり、なんとかレポートは完成した。
関したレポートを保存した直後に沙耶が私を振り返った。お礼の言葉でも言うのかと思いきや「私ってやれば出来る子だったんだね!」と小さく握りしめた拳を口元に可愛らしく当てやがったのでもう1発頭をマウスパッドではたいておいた。
その後、2人で学食へ向かった。
学食に入ると同時に、沙耶は財布の中をのぞきながらわざとらしいため息をついてこっちをチラチラと見やってきたが、私はそれをガン無視して厨房奥のおばちゃんに「魚のアングレーズと玄米ライスの小を1つください」と注文した。
料理が出てくるのを厨房のカウンターで待っていると沙耶が腰に手を当てて私を下から覗き込むように睨んだ。
「ちょっと真紀子! 冷たいんちゃうん!?」
そういうとプクーッと頬を膨らませる。めっちゃ可愛い。これで中身が人並みだったらなあ。そんな失礼なことを考えてる私になおも訴えかけてくる。
「お金がなくて困ってるっていうあたしからのサイン、見落としてるよ?」
「いやいや、あんた、さっき自販機で1,000円崩してたでしょうが。最低でも890円あること分かってるから……昼飯には十分でしょ」
「あ、あれ? 見てた?」
「見てたも何も、私、あのとき隣にいたでしょうに」
どこまで本気で言ってるのか分からないのが怖い。
「ちぇー」
結局、自腹でラーメンと海草サラダを買った沙耶は、妙に不服そうに私の向かいに腰を下ろした。
「真紀子は優しさが足りないよね!」
「沙耶は常識が足りないよね。あと色々足りないよね」
無駄に急いでやって来たせいで沙耶のトレイには箸も水も載っていない。そう来るだろうと思って彼女の分まで確保しておいたそれらを私は自分のトレイから彼女のトレイへと移してあげた。
「あれ?」
礼の言葉がないのは予想通りなので別に気にならない。それよりふと思い出したことがあった。
「そういえばさ、さっきの話。ロートルが英語じゃないってことだけど」
「中国語なんだっけ」
「うん、それでさ、片仮名で書くからって英語とは限らないって話。もっと分かりやすいところでこれもそうだよね」
私は自分の目の前に置かれた皿を指差した。
「ランチ?」
小首をかしげる沙耶に私は苦笑する。
「それは英語。そうじゃなくて料理名のこと。この料理さ、『魚のアングレーズ』って言うんだけど、これも英語じゃないよね。あえて英語で書くなら『イングリッシュ』」
「は? 英語はイングリッシュに決まってるじゃーん」
両手をピストルみたいな形にして私に向ける。その仕草と顔はさすがにイラっとくるものがあるぞ。
「いや、そうじゃなくてさ。『英語』じゃなくて『イギリス風の』を意味する方の『イングリッシュ』ね。ほら、イングリッシュマフィンとか言うでしょ。だから『魚のアングレーズ』は日本語訳するなら『イギリス風の魚料理』……ちょっと書くね」
明らかに伝わってなさそうだったので書いてみせることにした。
テーブルに置かれていた紙ナプキンを1枚広げてボールペンでそこにENGLISHと書き記す。
「『イギリス風の』を英語で書くとこうだけど、フランス語で『イギリス風の』を書くと……」
ENGLISHの横にANGLAISEと加える。
「なんか似てるでしょ? 語源が同じなんだけどラテン語だから読みはアングレーゼもしくはアンズレーズってなるわけよ」
「う、うん。それはいいんだけど、結局何が言いたいわけ?」
「片仮名になるのは英語だけじゃなくて他の外国語も然り、って話。外来語全般さね」
そう締めくくった私の言葉を困ったような笑顔で聞いていた沙耶が、箸を片手に持ったままパンッと手を打ち合わせた。
「ね、そのお魚もらっていい?」
答えも待たずに繰り出されてきた沙耶の箸から慌てて皿を遠ざける。
「待て、意味が分からない。こんだけ付き合いのいい私に対する仕打ちがこれか!」
「付き合いの良さなら、ここまでそのくっだらない話を聞いてあげてた私だって相当でしょ!」
「聞いててあげたとはご挨拶な!」
「大体さ! 付き合いのいいってパソコン室で本読んでただけじゃん! ご飯もおごってくれないし!」
「なんで私が飯をおごらにゃならん!?」
この日、学食で私たちの言い争う様を見ていた友人の
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