第2-1話:ブラインドの話
パソコンの画面から顔を上げて大きく伸びをする。壁の時計を見るともうすぐ昼休みだった。昼からの約束を思い出す。そろそろ出かけたほうがいいな、と思い、画面に映し出されている表計算ソフトを上書き保存してパソコンを休止状態へと移行させた。
「
部屋の隅に位置するリーダー用のデスクに近づく。すぐ横の壁にはメンバーごとのスケジュール進捗が手書きされた紙が貼られている。21世紀になってもペーパーレス社会は遠い。そのスケジュール表をにらんでいた小山のような体格のリーダーがこっちを向いた。
「
少ない人員の割り振りに頭を悩ませている建井さんだ。ここ数ヶ月で随分とひげに白いものが増えた。短く刈った頭のほうは元々白髪交じりだったので変化があったのかどうか分からない。
「昼休みなんですが、大学の後輩が会社訪問に来るので、帰社が少々遅れるかもしれません」
「ああ、3時の会議には間に合えばいい」
「ありがとうございます」
建井さんはボールペンを置くと眼鏡を外した。その体にしてこの手と言いたくなるような大きな指で両目をぐいぐいと揉みほぐしている。
「しかしお前も律儀な奴だな。どうせ今晩も泊まりだろう。午後に数時間抜けたからって誰もなんも言わねえぞ」
「多忙の中、申し訳ないとは思ってます」
「ちげえよ、それは別にかまやしねえんだけどさ。ふふふ、いいや、行ってこい」
何かおかしかったのか、ふっふっふと巨体を揺らして笑っている。とりあえず、ありがとうございます、と軽く頭を下げてから自席に戻った。外は寒そうだからとりあえず上着を回収しないと。
椅子の背にかけておいた上着を手に取り、出かけようとして、また席に戻った。机の一番上の引き出しから、年に数回しか使わないネクタイを引っ張り出す。客先に出る仕事ではないため、こういった機会につけておかないとネクタイの締め方を忘れてしまいそうだった。
ビルの玄関から外に出ると、青空の下に3月初旬の薄冷たい空気が満ちていた。昼だからコートは必要ないと思っていたが、少々寒い。幸い、ネクタイをしてきたおかげで首元はそれほどでもない。運が良かった。ネクタイは防寒具にもなる。覚えておこう。
昼休みが始まる時間帯より少し早めに出てきたおかげで、駅前の喫茶店はまだそんなには混んでいなかった。もっとも昼食を自席以外で食べたことがないので、普段からガラガラだったとしても分からない。
約束の時間までまだ少しある。先に食事を済ませてしまおう。忙しげに早足で目の前を往復するウェイトレスさんをなんとか呼び止め、サンドイッチセットを注文した。コーヒーは食前に持ってきてもらうことにした。眠気覚ましがてらブラックで一気に飲み干す。幸い、ランチメニューセットのコーヒーはおかわり自由だ。
2杯目のコーヒーと一緒にサンドイッチが届いた。さらに同時に約束の人物が喫茶店に入ってくるのが見えた。思っていたより早い。スーツ姿だ。他社の説明会に出てきたあとなのかもしれない。
すでにそのスーツで何ヶ月も就職活動を行っているのだろう。随分と着こなされているのが分かる。相手のさっぱりと短めに刈られた髪の毛を見て、ふと、自分が最後に床屋に行ったのはいつだったろう、と考えた。
こっちを見つけたらしく、すたすたと一直線に向かってきた。足元に鞄を置き、立ったまま挨拶をしてくる。
「
久しぶりにビジネスライクな対応を目の当たりにした俺は、自分も立つべきなのかどうか迷ってしまった。
結局、座ったままで、ども、と軽く頭を下げただけで挨拶を終えてしまった。大丈夫かな。相手に非常識な人間だと思われなかっただろうか。
笹川健太。彼は大学の後輩だ。同じサークルのよしみで会社訪問の依頼を受けた。しかしそれだけの関係で、面識はまったくない。なにしろ彼の入学は卒業してから3年後のことだし、卒業してからも何度か文化祭やら卒業式やらには顔を出したが、そのとき彼がいたかどうかなんて覚えてやしない。
一応、知っている後輩を介しての依頼だったので簡単な説明は受けていた。曰く「几帳面で真面目だが少々思い込みが激しい」らしい。それを聞いたからといってすることが変わるわけでもないが。
一通り自分の会社についての簡単な説明を終えたところで、ひたすら何かを書きつけてたメモ帳から顔を上げた相手がまっすぐこちらを見ながら質問してきた。
「覚えておいたほうが就職に有利なことってありますか?」
「あるんじゃないかな」
沈黙が流れる。どうやら俺の言葉の続きを待っているらしいと気づく。
「いや、具体的な例は思いつかないけど」
相手はその言葉にも落胆した様子もなくカリカリとメモを取ってから、またあらためて顔を上げた。
「じゃあ、仕事についてから覚えておいたほうが便利なことはありますか? 神田さんご自身が会社に入ってから身に付けたスキルで特に役立っているものでも構いません」
仕事入ってから覚えたスキルなんてあっただろうか。出張精算のために領収書をもらう癖をつけた、とか、オフィスの椅子でも睡眠時間が確保できるようになった、とかそういった話を求めているわけではないだろう。困った。
「そうだね、まあ、どこの職場に行ったとしてもデスクワークである限りは毎日パソコンはを叩くことになるだろうからブラインドタッチできたほうが便利かな。あとは」
「タッチタイピング」
あとはマイクロソフト製品(例えばワードやエクセルなど)は一通り触っておいたほうがいいかもしれない、という話を続けようとしたところで不意に口を挟まれた。
「え?」
ノートをとりながら、顔も上げずに続けて言われた。
「ブラインドタッチって言わないほうがいいですよ。今はタッチタイピングって呼ばれてます」
「なんで?」
俺の不思議そうな声に、ノートから顔を上げて少し驚いたような表情をこちらに向けた。
「視覚障害者の方を気遣ってのはずです」
なるほど、と返そうと思った直後、実は説明になっていないことに気がついた。
「なんで?」
「ブラインドにそういった意味があるからって聞いた気がします」
確かにBlindには盲目という意味もある。別に英語で差別用語として用いられているという話は聞かないが、気を回しすぎる人というのはいつの時代もいるものだ。しかしもしそうだとすると、カーテンのかわりに使われる窓のブラインドは今ではなんと呼ばれているのだろう。気になったので聞いてみたところ、また驚いた顔をされた。
「どうしてそこにブラインドが出てくるんですか?」
「いや、どうしても何も同じ単語だし」
「そうなんですか」
「そもそもブラインドって視界をさえぎるとか死角とかそういう意味だったと思うんだけど」
「詳しいことは知りませんけど、やっぱり特定の障害者の方を指す言葉は控えたほうが無難じゃないでしょうか」
侮蔑的な言葉はそうだろうが、全部を禁止するのはおかしい気がする。
ふと思い出したことがあった。
「そういえば前にテレビアニメの中で『めくらましか』って台詞が伏字になったことがあったらしいね」
「いや、それはダメでしょう。テレビの話ですよね? 放送禁止用語です」
個人的には笑いを取りにいったところなのだが、素で怒られたので慌てて補足を入れる。
「ちゃうわ。目をくらませるから、目くらましだ。伏せなくていいはずなんだよ」
「ああ……ああ! なるほど」
「英語の Blind も目くらましって意味があるから思い出したんだけどね」
明らかに関係ない話にも関わらず律儀にノートへ書き込みを続けている相手を見て、ふと思ったことがあった。
「就職前に覚えといたほうがいいことあったわ」
「それはなんですか」
興味ありげにまっすぐこっちを見てきたのに対して、答える。
「日本語と英語。よく使うし」
なぜかこの言葉はノートにとってくれなかった。
あと1年後に彼が無事入社したのはいいが、教育係を担当する羽目になり色々と苦労するのだが、それは別の話だ。
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