ことのは万華鏡
ギア
第1-1話:ビコーンの話
大学の部室棟は3階建てだ。1階には管理人室以外にも売店やテレビの置かれたホールなどがある。ホールには丸テーブルが6つほど置かれていて売店で買ったものが飲み食いできるようになっている。
まだ午前の早い時間ということもあって人は少なく、俺はテーブルを1つ丸々占有させてもらいつつ、2時間後に提出期限が迫ったレポートをまとめていた。
丸テーブルの向かい側に人影が近寄ってきたことに気づいたが、座りたければ勝手に座るだろ、と顔を上げることもせずレポートを進める。
「いやいや、
内容は感心しているように聞こえるが、なぜか馬鹿にしたような響きを感じさせる声は聞き覚えのあるものだった。断りも無く向かいの席に座った女子は1つ下の学年の
「先輩だと思うならもう少し敬ってくれよ」
「敬語使ってるじゃないッスかー」
それは敬語じゃないし、ヘラヘラ笑いながら言われても敬われてる感はゼロだ。いや、そもそも先輩と後輩と言いつつ、俺たちは同い年で、さらに言うと高校の同級生だった。こいつが1浪することなければ、大学でも同級生だったはずだ。
なので、俺を今「先輩」と呼んでいるのはからかい半分に過ぎず、高校時代からずっとセージと呼び捨てにされている。ちなみにこれは本名じゃない。
「永久子は相変わらず不勉強熱心だな」
手ぶらの相手を見ながら嫌味っぽくそう返してみるが、俺の言葉を気にする様子はない。サンドイッチの包装をはがしつつ、俺の開いているテキストを覗きこんできた際に、1年に1回しか切らない永久子の黒髪がばさりと前に垂れる。散髪は年に1回、毎年夏の暑い盛りになる直前にばっさりと短くするというのが習慣のため、5月半ばの今頃が最も長い。
「Introduction to English? 何それ、授業の名前? つーか、英語を誘拐してどーすんのよー」
「いや、どうすんだろうな。ちなみに『Introduction』は『入門』だからな。『誘拐』は『Abduction』だ」
「ふーん。まあ、似たようなもんじゃない」
とんでもないことを平然と言い放ち、ズズーッ、と野菜ジュースをすする。似ているのと同じなのとは天と地ほども違う、と思ったが口には出さなかった。永久子のペースに巻き込まれて会話を始めてしまうと、気づかずに同じ場所をクルクル回っているような目にあうからだ。つまり疲れ果てた挙句に何も進んでいないことに後から気づくということだ。
「つーか、英語って面白いの? 中学も高校もやってたじゃん。どうせ大学まで来たんなら違うのやればいいのに。フランス語とかカッコいいじゃん。ほら、ボンジュールとか、ボンジュールとか。あと、ほら、ボンジュールとか」
無言のままの俺の様子を気にすることなく、永久子は1人で話し続けている。
「あ、ねえ、フランスと言えばさ、トリビアの泉で前にやってたらしいんだけど」
なんか懐かしい番組名だなあ、と思いつつも俺は反応せずにテキストの要点を書き写す作業を続ける。つうか、たった2切れのサンドイッチを食べるのにどれだけの時間をかけるつもりなんだ、こいつは。
「フランス人でナポレオンっているじゃん。あのナポレオンのかぶってるあの2本の角みたいな帽子あるじゃん。あれさ、ビコーンって名前なんだって! ビコーンよ、ビコーン! ビコーン、ビコーン! ぶはははは!」
自分で言って自分で笑っている。多分、周囲の学生から迷惑そうな視線を向けられてるだろうな。なんで俺まで居心地悪さを覚えなきゃいけないんだ。なんか納得いかないぞ。しかし、それはさておき、ふと俺はその名前の意味について考えていた。会話に付き合うつもりはなかったが、思わず言葉が漏れる。
「なるほど。分からんでもないな」
「ねー、変だよ……あ?」
俺の注意が引けたことがよほど嬉しかったのか、いつものように大して頭を使わずにまず返事をしたらしく、俺の言葉が脳に浸透したあと、不思議そうな目をあらためてこちらに向ける。
話すと長くなりそうだな、と不安が過ぎったが、つい説明を始めてしまう。
「いや、要は尖った場所が2つあるってことだろ」
「何に?」
自分が何の話をしてたのか忘れてるらしい。とんでもない奴だ。
「ナポレオンの帽子に」
「えー、うん、2箇所出っ張ってるけど」
自分の長い黒髪の前後を手でつかみ、前と後ろに持ち上げる。
「それが理由だと思うよ、多分だけどね」
「何が?」
あー、本当に前に進まないな、こいつとの会話は。
「いや、だから帽子の名前がビコーンなのは、尖ってる場所が2つあるからじゃないか、ってことだよ。言ってみればバイコーンってこと」
「ビコーンだよ?」
まるで俺がいきなりおかしいことを言い出したかのように心配げな表情を浮かべ、テーブルにへばりつくと上目遣いでこっちを見てくる。やばい。少しイラッときた。俺はゆっくりと息を吸い込み、目を閉じてじっくりと3秒数えてから息を吐いた。
「いや、それは分かってるよ。だから英語読みで、ってこと」
「フランス語だよ?」
よし。
俺はテキストを閉じて、鞄に放り込んだ。
言い聞かせるように同じ言葉を呟く。
「分かった、よし、分かった」
テキストの代わりに鞄から電子辞書を取り出す。和英・英和は言うにおよばず、広辞苑・百科事典・経営用語・株式用語などなどこれでもかと詰め込まれた代物だ。前時代的と言われると否定できないが、ネットで検索するとついつい関係ないことを調べ始めてしまうので、正直このほうが色々と捗るのだ。
「ちょっと調べてみようか」
カチカチと電子辞書を叩きながら、さっき思いついた推測を口に出す。
「多分だけど、尖ってるのが3箇所あるトリコーンって帽子もあるんじゃないかな」
「へー、
「え?」
電子辞書を叩く俺の手が止まる。
「ううん、なんでもないよ」
ひらひらと手を振る。妙に嬉しそうだが、今はどうでもいい。俺は電子辞書に向き直った。まずは和英辞書で「びこーん」をチェック。
該当なし。
次に広辞苑で「びこーん」をチェック。これまた該当なし。
百科事典にも該当なし。
「参ったな」
「お、参ったか」
いつの間にか向かい側からすぐ隣に移動していた永久子がくっつかんばかりの距離で画面を覗き込んでくる。だから何がそんなに嬉しいのか。
「あ、ちょっと待てよ」
メニューから英和辞書を選択し「bicorn」で検索してみる。
ビンゴ!
「よし、あった! 英語だと形容詞だ。『2つの角がある何か』を指す単語だな。あ、もしかしたら」
ここで思いついたことがあったのでさらに英和辞典で検索してみる。
「うん。やっぱりな。『tricorn』もある。こっちはまさに『三角帽子』って意味だな。今更だけど、1本だと『unicorn』なんだな。なるほどね」
ああ、すっきりした。
あらためて勉強に戻ることにしてテキストを取り出そうと鞄に手を突っ込んだ俺の隣で感心したように永久子が呟く。
「へー。なるほどね、ユニコーンね。1つだと馬なんだ。3つだと鳥なのに」
予想外の言葉に、テキストを取り出そうとした手が止まる。
「鳥?」
「トリコーンなんでしょ? 3つだと」
「違う違う違う違う。いや、合ってるけど、違う。なんで日本語なんだよ」
「まあまあ、落ち着きなされ」
村の古老みたいな語り口調で永久子が2つ目の紙パックのジュースを俺の前に置く。お前、それ今どこから取り出した?
100円を払うべきかちょっと迷ったが、迷惑料として頂くことにした。意外にまだ冷たい。半分ほど喉に流し込んだところで一息つく。
「接頭辞だよ。1つだとユニ、2つだとバイ、3つだとトライって頭につくでしょ、英語って」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
「例えば?」
「車輪は英語でサイクル。だから一輪車がユニとサイクルでユニサイクル、二輪車というか自転車がバイとサイクルでバイシクル。んで、三輪車がトライシクル」
俺が指を1本ずつ折り曲げつつ例をあげるのを、永久子は腕組みしつつ、うんうんとうなずいている。うなずいてはいるけれどなんとなく伝わっていないことは伝わってくる。付き合い長いからなあ。
「バイシクルは分かる。自転車でしょ」
そこだけかよ。まあ、とりあえずそこが分かればいいや。
「そうそう。だから『2つの』は『バイ』なわけだ。だけどアルファベットの『i』を『アイ』って発音するのはアルファベットを使う言葉の中でも特に英語だけで、ラテン語系はローマ字と同じで『イ行』になるから、2つを表す『Bi』は英語以外だと『バイ』じゃなくて『ビ』。3つを表す『tri』は『トライ』じゃなくて『トリ』」
「ごめん、よく分かんない」
両手を合わせてくる。ちなみにこいつがこうやって分からないことをちゃんと分からないと言ってくるときは本気で知りたいと思ってるときだ。
じゃあ説明するしかないな。
「例えば『キリスト』って呼称は、ヨーロッパでは一般的だけど、英語圏では通じないんだよ。英語だと『クライスト』って言うんだよね。ジーザス=クライスト。キリストの2文字目の『リィ』が『ラァィ』になる、つまり母音が『イ』から『アイ』に変化してる」
永久子は視線を斜め上に向けたまま足を組んで考え込んでいる。話が通じているのかいないのか、さっぱり分からない。
諦め気味に話をそこで終えようとしたところでいきなり永久子が口を開いた。
「でもそれだったら『1つの』を表す『uni』は英語で『ユニ』じゃなくて『ユナイ』になるんじゃないの? 一輪車はユニサイクルじゃなくてユナイサイクルじゃないの?」
うっわ。
「どしたの、セージ? 馬鹿みたいな顔してるよ?」
話が通じてたことに驚いてしまった。ある意味、とてつもなく失礼だな。そのちょっとした負い目があったので永久子の悪口すれすれの言葉は許すことにした。
「えー、あ、いや、まあその通りなんだ、規則性を考えるとね。ただ、まあ、その辺がいい加減なのが英語だからさ。それに1つにまとまるのは『ユナイテッド』でしょ。ユナイテッドステーツオブアメリカで『アメリカ合衆国』だからさ」
「なるほど」
「そうそう、統一されてない、というかいい加減というか、って意味だとトリプルとトライアングルが分かりやすいかも」
「アングルって角度だっけ」
「そうだよ」
即答した俺へ畳み掛けるように次の質問が投げつけられた。
「じゃあプルって何?」
「プ、プル?」
「トリプルのプル。3つのプル」
考えたこともなかった。え? 接尾辞なのか、プルって? 言われてみれば4連続はクアドリプルだ。
なんだ、プルって。
いかん、分からん。
「ほら、フランスの国旗みたいな3色国旗、あるじゃん」
仕方ないので答えるふりをして話をそらすことにした。
でもいつかプルについては調べてみよう。
「フランス国旗なら分かる。赤青白だよね。赤が動脈、青が静脈、白が博愛」
永久子は指を折りつつ3つの意味を挙げて、ふふん、と得意げにあごに拳を当てた。
どうしよう。
間違っていると指摘するべきなんだろうか。全部が間違いではないのが面倒くさい。ちなみに正しくは青が自由、白が平等、そして赤は博愛であり、永久子が言っているのは理髪店の前でクルクル回っている3色の看板の由来で、こっちは赤が動脈、青が静脈、そして白は包帯を表している。奇しくも同じフランス生まれだ。
とりあえずは今話したい内容とは関係ないので流すことにした。
「うん、意味はさておき、あれってトリコロールって言うだろ?」
「へー、言うんだ」
「言うんだよ。トリが『3』、コロールが英語で言う『カラー』。英語読みでトライカラーになる」
話しつつ、紙パックの容器の白い部分にボールペンで「Tri + Color」と書いて相手に見せた。
「なるほどね。3色ってことなんだ」
「そうそう。だから日本語で『トリコロールカラー』って言葉があるけど、あえて訳すなら『3
「ほうほう」
「まあ話が長くなったけど、尖った場所が2つ帽子だからビコーンなんだな、って納得した、って話をしたかったんだよ」
「ははっ、そういえばそんな話だった」
セージの話は相変わらず面白いね、と付け加えた永久子は立ち上がり、食べ終えたあとのゴミを手近にあったゴミ箱に放り込んだ。
「じゃねー」
ひらりと手を振り、ガラス戸から出ていった。
その背中が視界から消えたあと、俺は電子辞書とノートが置かれたテーブルを見つめた。開かれたままの電子辞書のディスプレイ端に表示された時計は、あいつと出会ってから1時間以上が経過したこと示していた。
同じ場所をクルクル回っていたような錯覚に陥った。
つまり疲れ果てた挙句に何も進んでいない、ということだ。
(次こそは絶対無視してやる!)
そんな守れない誓いを立てつつ、俺は慌ててテキストを鞄からつかみ出し、レポートの続きにとりかかった。
なおレポートはギリギリで間に合ったが、評価は散々だった。
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