ちょっとトイレ行ってくる

ギア

ちょっとトイレ行ってくる

 サークルの新年会はすでに宴もたけなわという感じで、もう誰が誰に話しているのかも良く分からないほどの喧騒の中にあった。


 俺はグラスの中のビールを空にするとトイレを探して席を立った。ここまで場が盛り上がってしまえば、数分席を外したからといって帰って来たときに話に入れずボッチになる心配もない。あれだけ飲んだのにこれだけ計算高く席を立てる自分に驚いた。思っていたよりも酒に強いらしい。


 店員にトイレの場所を聞くと怪訝な顔をされた。そしてすぐ右手を示される。見ると確かに「手洗い」と書かれた看板が天井からぶら下がっていた。なるほど。こんな自己主張激しいサインすら目に入らないほどには酔っているのか。転ぶほどに飲み過ぎている心配はしてなかったが、酔っているという事実を受け入れるべく俺は壁に手を当て、身を支えながらトイレを目指した。この冷静な判断力。酔ってはいても酔っぱらってはいない。いいことだ。


 廊下に並ぶ2つのドアの片方は「女性用」の赤い人型のマーク、もう片方は青と赤の人型のマークが2つ並んで描かれている。つまり「男女共用」を意味している。俺は男だから、女性用でないほうを選べばいい。つまり、えーと、なんだ。女性用でないほうを選べばいいんだ。青が含まれていれば男性用を含むわけだから、つまり「男女共用」のほうだ。よし。冷静だ。まだ酒に飲まれるほどには飲んでいないのことを確認した俺は、安堵のため息をもらしつつトイレの引き戸を開いてよろめくように中に体を入れた。


 狭い個室内で、下ろされていた便座を押し上げようとしたとき、便器と壁の狭い空間に怯えた表情の女性が縮こまっていた。髪が長い。黒と白のワンピースを着ている。女性だ。もちろん男性にも長髪はいるし、服装だって性別を判別する決定的要因にはならない。そのとおりだ。相手の目元や唇、胸元と腰つきを確認する。女性だ。俺と同じくらいか少し若いくらいの女性だ。よし、女性だな。間違いない。自分の理性的な判断にそれほどは酔っていないことを再確認し、少し落ち着く。


 幸い、彼女はトイレを使用しているわけではなく個室の狭いスペースの中で必死に邪魔にならないように縮こまっているだけだ。見覚えはなかったが、もちろん見覚えがあろうがなかろうが断りは入れるべきだ。失礼します、と右手を軽く振って俺は便座を引き上げて用を足そうとズボンに手をやり、ようやく気付いた。


 何かがおかしい。


 まず女性は口元に人差し指を当てている。その必死な目は俺をまっすぐ俺を見ている。この2つを合わせて考えれば、つまり彼女はここに隠れて誰かをやりすごそうとしているのだろう。なるほど。筋は通っている。何もおかしくない。その論理的な思考に自分が酔っていないことをあらためて確認できた俺は、自分の酒の強さに感謝しつつズボンに手をやり、あらためて気付いた。


 いや、おかしいだろ。


 もし彼女が誰かに見つかりたくなくてここに身を隠しているならカギをかけるべきだ。見つかりたくない相手が誰かは知らないが、その相手が人間であれば排泄行為をしないわけがない。入ってくる可能性を考えるならカギをかけたほうが見つからないはずだ。それはさておきそろそろ膀胱が限界なので一旦この謎解きは脇に置いて、用を足したほうがいいんじゃないか、俺よ。その通りだ。俺はこの異様な事態に動じず、沈着冷静に生理現象を把握している自分に安堵した。無意識のうちにも体のコントロールは利いているらしい。酔いは感じるが、思考に支障があるほどではない。自分で思っているよりも酒に強かったことに安心する。


 俺は、失礼します、と申し訳なさげに右手を軽くふって女性に断りを入れてから便座を引き上げようとして、すでに便座が上がっていることに気づく。気持ちが楽になった。自分でも気付かないうちに便座をちゃんと上げていたのか。焦っているつもりでもちゃんとすべきことを体は分かっていたらしい。意外と酔っていない自分に感心しつつ、ズボンのチャックを指先で探しているときにいきなり目の前が鮮明になった気がした。


 いや、待て。何かおかしいぞ。


 俺は、自分が見知らぬ女性の前で露出行為に及ぼうとしていたことに気付く。右手を胸に当てて一息つく。危ないところで自分を取り戻し、少なくとも自分が酔っていることを自覚する。それでも自分が酔っていることをうろたえずに把握できているということは、それほどひどくは酔っていないというわけだ。それはそれで安心できる話である。


 安心したところで自分がなぜ手洗いに来たのかを思い出させられた。せっかくトイレに来たというのに、このままではズボンの中に漏らしてしまいそうだ。気を抜けば今にも体が楽になろうと排出行為を敢行しかねない。漏らす前に我に返れるだけの思考力を残せる自分の酒の強さに感謝しつつ、俺はズボンのチャックを右手の人差し指で探り、ようやくそれを見つけた。勢いよく引き下げようとしたとき、トイレの中にいた女性と目が合った。


 いきなり現れた女性に危なく叫びそうになった俺の口を、素早く伸びた女性の両手が塞ぐ。


 口をふさがれながら、そうだ、と思いだした。何を思い出したのか最初は自分でもよく分からなかったが、彼女がいきなり現れたわけではなく、いきなり現れたように思われただけなことを思い出せた。危なく漏らしそうになった局部は俺の両手が力強く握りしめ、なんとか暴発を防いだ。女性の両手はなぜか焼き鳥の匂いがした。そういえばこの居酒屋は鳥料理が売りだった。取りとめのない思考に自分が酔っていることを痛感させられる。


 股間を両手で握りしめつつ、事態を把握しようと努める俺に対し、女性は俺の口を右手だけで塞ぎつつ、左手で一度その乱れた長い髪の毛をかきあげてから、静かにして、と言わんばかりに立てた人差し指をその唇に押しあてた。その目には怯えと怒りと、それ以外のぐちゃまぜな感情が見てとれた。


 多分この女性は誰かから隠れるためにここにいるのであって、カギがかかっていなかった理由は、カギがかかっていたら中に誰かいると外の誰かに教えてしまうわけであり、カギを開けておくことであえてその相手が便意を催さない限りはチェックしないはずという可能性にかけたのだろう。多分。


 そこまで考えて俺がうなずいたその瞬間、ノックもなく扉が開いた。俺より背が頭1つ半は高い強面の男性がそこにいた。あっけにとられた様子で俺を眺め、俺の口を押さえる手を眺め、その手から腕へと辿るように座り込む女性を見つけた。


 いきなり怒りに顔を歪めた男は大声でわめきだし、女性の髪の毛をつかんで外に引きずりだした。女性は叫びながら謝るという器用な真似をしながら俺の視界から姿を消した。


 もちろん俺は最優先すべき事項を間違えるほど酔っていたわけでもなく、大急ぎで扉を閉めカギをかけてズボンを一気に下ろしつつ、立ちながら用を足した。思わず漏れた溜息に脳内のもやがスーッと晴れる。ずっと目の前あったトイレがあらためて視界に入る。


 そして用を足しながら気付く。自分でも気付かないうちに便座をちゃんと上げていたらしい。焦っているつもりでもちゃんとすべきことを体は分かっていたらしい。意外と酔っていなかった自分に感心し、手と顔を洗ってから飲み会に戻った。顔を洗うとさらに酔いが冷めた。


 随分と長かったな、と隣に座っていたヤツに言われたが、きっと誰かと勘違いしているのだろう。何しろ俺は小用を足してきただけで、それを忘れてしまうほどに酔ってはいないのだから。


 なお帰り道で女性に乱暴している男がいたので仲間を呼んで追っ払ったところ、女性に感謝はされたのだが、手を差し伸べたときに「ちゃんと洗いました?」と心配げに手を見られたのが不思議だった。そんな汚く見えるのか?


 続けて、かなり酔っているようでしたので、とかなんとか良く分からないことも言われたが、とりあえず「ちゃんと洗いましたよ」と伝えたら安心した様子だった。

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