怯える心

 ワシントン州 ハリソン教授の自宅 二〇一四年三月二四日 午前八時〇〇分

 一晩明けてからトーマスがリビングに来て朝食を取っている間に、香澄たちは彼へ、“私たちが大学を卒業したら、息抜きもかねてどこか旅行へ行きましょう”と伝える。だが香澄たちへ不信感を抱いているためか、彼女たちが思っていたよりもトーマスの反応は今一つ。ハリソン夫妻も“旅行先について考えて欲しい”とだけ伝えると、空返事だけするトーマス。

 その後トーマスはそそくさと家を出て、遅刻しないように急いで学校へと向かう。だがトーマスの心の闇は想像以上に深く、“本当は学校へ行かず家で休みたい”という気分なのかもしれない。


 そんなトーマスの心情を知ることもなく、香澄たちはリビングでくつろいでいる。ハリソン夫妻は大学へ仕事に行ったが、今日は香澄だけでなくマーガレットとジェニファーもいる。彼女たちは午後から練習およびシフトを入れているので、二人は香澄と一緒につかの間の休息を満喫していた……

 せっかく三人一緒に集まったこともあり、ここでマーガレットが最近疑問に思っていることを香澄とジェニファーへ問いかける。

「ねぇ、香澄、ジェン。私ちょっと気になっていることがあるの……」

「何ですか、いきなり? もしかしてマギー、舞台のことですか?」

「いいえ、舞台の練習は順調よ。……私、何だかトムのことが心配なの」

香澄やジェニファーのような真面目な性格ならともかく、あまり細かいことにこだわらないマーガレットらしからぬ発言。その言葉に思わず耳を疑いつつも、マーガレットの額に手を当てる香澄。

「メグ、あなたどうしたの? もしかしてあなた、最近何か悪いものでも食べたの?」

「……熱はないようですね。マギー、ひょっとして舞台稽古の疲れが貯まっているのでは?」

 二人の答えはある意味マーガレットの予測通り。香澄は“頭でも打ったの?”と皮肉で返し、ジェニファーは“おそらく練習のしすぎですね、きっと”と冷やかに指摘する。“まったく、他にかける言葉はないのかしら?”と怒りを抑えつつも、

「もぅ、二人とも。私は真面目な話をしているんだよ!」

どこか不機嫌になりながらきっぱり否定する。


 そして自分がそのような話を切り出したかについて、先日のトーマスの言動を説明しながら語り始める。

「香澄にはこの間伝えたと思うけど……昨日の午後にトムから電話があったの」

「一応私たちはトムとしばらく一緒に暮らしているので、電話の一つや二つあっても特に不思議ではないと思いますが……」

家の固定電話機にスマホの連絡先も登録しているため、ジェニファーはそれを見て“自分たちの番号を知ったのでは?”と追加説明をする。

「ううん、それだけだったら何も思わないけど。実はね……」


 今まで以上にトーマスが積極的にアプローチしてきたことに対し、マーガレットは“あの子に何か不幸な出来事があったのでは?”と推測する。そんな彼女の話を聞いて、香澄とジェニファーはしばらく考え込む。

「今まで内気だったトムの性格が、ことへの不信感……か。確かにマギーの言うことにも一理あると思うけど……」


 トーマスが急に積極的になったことへの不信感はあるが、今一つ判断材料としてかけるものがあった。だが強い不安にかられたマーガレットは、さらにこんな話をする。

「心理学を専攻している二人なら知っていると思うけど――ある覚悟を決めた時や迷いが消えると……って、本で読んだことがあるよ」

 それを聞いたジェニファーは、何も言い返せなくなり黙ってしまう。一方で冷静で三人の中で一番頭の良い香澄は、マーガレットの指摘について淡々と説明する。

「確かに心理学にはそういう考え方もあるわ。……でもね、メグ。何でもかんでも心理学へ結び付けるのは、ちょっと早計そうけいすぎるわよ?」


 あえて遠まわしに伝えたマーガレットだが、彼女自身は“トムに自殺願望があるのかもしれないわ”と心のどこかで思っているようだ。本当はマーガレット自身もそんなネガティブなことは考えたくないのだが、ここ最近トーマスの言動や仕草がおかしいこともまた事実。そんなトーマスを思うマーガレットの優しさが一時暴走してしまい、こんなことを口走ってしまう。

「私たちの前では弱音を吐かないけど、本当はあの子んじゃないかしら? そうよ、きっとそうだわ。トムがその……じ、なんかしたら……」

「メグ!」

突拍子もないことを口走ったマーガレットに対し、香澄は大きな声で彼女を一喝いっかつする。


 隣にいたジェニファーも、冷静な香澄が突然大きな声を出したことに思わず驚愕きょうがくしてしまう。

「馬鹿なこと言わないで! 私たちはそうならないために、あの子の面倒を見ているのよ」

 香澄に軽く注意されることは過去に何度もあったが、本気で彼女に怒られてしまったことで、子供のように委縮してしまうマーガレット。

「ご、ごめんなさい。き、急に変なこと言って……」

だが突然声を荒げてしまったことに対して、香澄も二人に謝る。

「……いいえ、私の方こそ大きな声を出してごめんなさい。……大丈夫よ、メグ。あなたは卒業公演を数ヶ月後に控えているから、そのストレスやプレッシャーで疲れているのよ」

「う、うん。……そ、そうだよね。きっとそうよね」


 極度の緊張に襲われてしまうことで、冷静な判断が出来なくなっている状態だと香澄はマーガレットを優しく説得した。一方でジェニファーも、

「わ、私もそう思います。ほ、ほら……急にトムが明るくなったのも、“私たちともっと仲良くしたい”と純粋に思っただけですよ」

“マギーの迷いはただの気のせいですよ”と励ますジェニファー。そんな二人に説得されたマーガレットは、

「うん、そうだね。……ありがとう、香澄、ジェン。そして……ごめんね、突然変なこと言って」

軽率な発言を後悔しつつも、香澄とジェニファーの優しさと温もり……そして親友の偉大さを改めて実感していた。

「気にしないで、メグ。トムとは今まで通り接する……という形でいい?」

 今まで通りトーマスの様子をそっと見守る決心を、再度誓い合う三人。マーガレットとジェニファーは何も言わずにただ頷き、香澄も無言の笑みを返す……

 

 その後香澄とジェニファーは“稽古を休んだ方が良いのでは?”と指摘するが、マーガレットは“いいえ、私なら大丈夫よ。ありがとう”と返す。そして何事もなかったかのようにワシントン大学へ向かい、卒業公演に向けて練習に励む……

 一方のジェニファーは午後からシフトが入っていたが、書店へ電話して“体調が優れないので今日は休ませて欲しい”と店長に電話した。普段真面目に勤務しているだけに、急なお願いではあったものの店長も彼女の提案を快く承諾してくれた。

 そして香澄も今日はレポートやファイル作成をする気分にはなれず、ジェニファーと二人で静かに時を過ごしていた……


 そんな彼女たちの気持ちを知るよしもなく、一人自分の部屋で苦悩するトーマス。一度は生きる意志を取り戻し、自分の道を歩んでいこうと心に決める。だが香澄たちをはじめ、フローラ夫妻が自分に対しかまってくれなくなったことに強い不安と恐怖を覚えるトーマス。

『せっかく香澄たちともと思っていたのに、どうして僕に構ってくれないの? ケビンやフローラたちも、お仕事で忙しいみたいだし……』

 同時に彼の心の中では忘れかけていた亡き両親の面影が強く、かつ鮮明に写りはじめる。

『お仕事や将来のことなどで頭が一杯の香澄へ、本当のことなんて言えるわけないし。僕は一体どうすればいいの? 助けてよ……パパ……ママ……』


 数年前にトーマスは、香澄たちとレイクビュー墓地である約束を交わす。その約束とは、“悩み事がある時には、いつでも遠慮しないで相談して”というもの。

 だが今のトーマスにとって、“香澄たちは僕とどこか距離を取っている”という状態になっている。

 そのため今のトーマスの心理状態として、香澄たちと出会う前と同じくらいに症状が悪化している。いや、むしろ心の闇が広がってしまったかもしれない。

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