間に合うよ、思い出せたなら ①

 昇った朝日がビルの群れを照らし、複雑に装飾された壁や柱は内部からの発光で陰影を揺らめかせる。息を呑む美しさ。

 その向こうから迫るバベルの塔の上空には、回転する巨大な歯車が姿を現そうとしている。


「さあ久凪くなぎくん……いよいよだね」


 走り続ける列車の屋根に立って、弥鳥みとりさんが笑っている。


「この世界のあらゆる法則ルール束縛しばり宿命さだめ……それを壊してくれる救済がある。あれが、ボク達がこの世界から出て行く扉だよ」

「弥鳥さん俺……忘れてて……弥鳥さんなんていなかったんやって……」

「あはは、大丈夫だよ久凪くん」


 後ろ髪をくくる赤いリボンをはためかせながら、弥鳥さんが胸を躍らせるような笑顔を向ける。


「言ったでしょ、純粋な……心の底からの声があれば、ボクはいつだってキミを助けに来る。その声だけが、ボクが世界山メールと呼ばれるあの場所からこの世界へやってくる扉になるんだから」


 どんなに荒唐無稽な話だろうと、それが真実たりえる世界がある。あやのはそれを夢だと言った。そう、夢だろうと構うもんか。もうめたいとは思わない。


「心の準備はいい? まだなら……いましてね」

「大丈夫、弥鳥さんに会う前からできてるわ」


 そう言って空の歯車を眺めたとき、同時に6年前の神社にいる自分を感じた。異世界への扉を、俺達はまさにいま開こうとしていた。右隣にはあやのがいる。左に立つ彼方かなたの言葉が聞こえる。


――本気で思てたら行けるやろ?


 そうやな。俺は彼方に肯き返し、暴風を巻き起こしている上空の渦へ視線を戻す。いまがそのときなんだ。俺はこれから“向こう側”へ行く。


「……本当に捨てちゃうの?」


 あどけなさの残る声が背後から聞こえた。

 振り返ると、同じ車両の屋根に小さな女の子が立っている。

 紺のブレザーにチェックのスカート。頭の先にちょこんと逆立つ髪の毛が風圧で揺れている。


「クク……!」

「やあ勒郎ろくろう、思い出してくれたんだね」

「……ありがとうクク……あのとき、お前が助けてくれて……」

「忘れてても良かったんだよ勒郎。そうやって、夢だ、妄想だって割り切って、誰もが生きてるんだから。君にはその先の未来があるんだよ」


 ククはどうしてあんなに寂しそうなんだろう。その視線が俺の隣に立つ弥鳥さんに向けられる。


「戻ってこれたんだねマイトリー」

「うん。カルナー、苦労かけちゃったね」

「ううん、それが僕の役目だから……ここで君達を止めなきゃいけないのもね」


 何気ないそぶりでククが上げた手の平に、銀色の光が複雑な紋様を描いて踊っていた。


「そうだね、カルナーならそうするよね」


 微笑む弥鳥さんの胸元に同じような紋様が浮かび、その銀色の光が身体の自由を奪うように制服の上をおおっていく。

 ククの泣きそうな顔に、俺は初めて神社で会ったときのあいつを思い出した。


「ごめんねマイトリー、君の出番はまだ先だから、印章は僕の手にある。世界山メールへ戻ってもらうよ」

「クク? 一体……」


 不穏な様子にククへ駆け寄ろうとしたとき、背後から巨大な車輪がきしりをあげるような轟音が響いた。

 その恐ろしげな渦は、まるで空そのものを吸い込みながら叫んでいるようだった。

 樹々をなぎ倒すような突風が列車をで、俺は立っていられずに車両の屋根に手を突いた。


「……冥界の力の流入が止まらないんだ。このままじゃジャガナートの力は際限なく大きくなっちゃう」


 ククが右手をかざすと、俺の首元から銀色の光が溢れる。瓔珞ようらく……俺を表層に縛り付けるかせ


「僕は何度でもそうするよ勒郎。あっちへ行っちゃいけない……戻ってよ!」

「クク、待ってくれ!」


 世界がぼやけて、咄嗟とっさつかんだ弥鳥さんの手がみるみる透けていく。だめだ、俺は醒めたくないのに……!


「久凪くん……キミの見てる世界はほんの一部なんだよ」


 弥鳥さんの声が聞こえる。


「……ほんの少し視野をあげて……見通せるんだ。それがボクたちの視界……」


 世界から吹き飛ばされる強烈な圧力を感じる中で、その声が鐘の音のように響いていた。






 狭苦しいアパートのくすんだ緑色の壁紙がぼんやり照らされていた。

 締め切ったカーテンと、積み重なるマンガやゲームソフトが、外の世界から隔絶した静かな空間を守っている。

 大学時代から安アパートを転々としてきたけど、この部屋での独り暮らしはそれなりに長くなる。


【過去、現在、そして未来の間の区別はただの幻想に過ぎない。たとえそれが極めて強い幻想だとしても】


 無意識にネット上のリンクを辿っていると、ふと引っ掛かるフレーズがある。

 俺は手元に置いた2リットルのペットボトルに直接口をつけてスポーツドリンクを飲み、薄暗い部屋を青く染めるモニタに向きなおった。


【アインシュタインが書簡に記したこの言葉はよく知られています。彼の相対性理論によれば、時間は空間と同じように対称性を持ち、過去が未来を規定するなら未来も過去を規定し得るといいます。この理論に基づくなら、私達は時間の中を一方向にだけ進み、過ぎた過去は決して変えられないという、一般的な時間に対する理解は誤りとなります。現在はもはや、絶対的な意味を持たなくなるのです。例えば、ある座標系から観測すると同時に起きたように見える2つの事象も、他の座標系から観測すれば時間を前後して生じたものとして見えることがあり得ます。すべては相対的なものといえるでしょう。現在が絶対的なものではない――それはこのようなイメージで理解できるかも知れません。私達が過去、現在、未来として把握しているものはすべて、同時に存在しているのです。私達が、そのほんの一部分にしか意識の焦点を当てられないために、いまここには現在しか存在しないと錯覚してしまう。その意識の焦点が次々と移っていくことで、まるで時間が過ぎていくように感じられるのです。ですが実際には、時間は流れてはいません。過去も現在も未来も、すべては同時に存在しているのですから】


 大乗仏教の教典、インドの思想家の言葉、西洋哲学から最新の科学理論まで、つまみ食いしてオカルティックに味付ける、ネットにありふれたそのページをいま目にした意味を俺は考える。いや、そこに意味が生じる気配を捉えようとする。

 あれはついこの間だった。勤務先の古書店で棚出しをしていたとき、ふと中学時代を思い出した。あのことが関係している? あれは新しい季節を伝える風の匂いのように、生々しく懐かしい記憶だった……。


――ただ、誰か俺をここから連れてってくれって、そう願ってた……。


 それは中学生のときの言葉だ。あれは誰に言ったんだろう?

 苦しい、苦しい、俺はずっとそう思い続けて、その苦しさから逃げ続けて生きてきた気がする。だけどあの時期だけは、俺は何かと……戦っていた。






 休日だった。俺は駅前の商店街の雑踏をふらついていた。

 今日は古書店のシフトに入っていないのに、何となくここまで来てしまった。

 自分が恐ろしく狭い空間に閉じ込められているような、激しい発作のようないつもの感覚。パニックになりそうだった。朦朧もうろうと歩いていると、勤務先にほど近い見慣れた通りがやけに奥行があるように見えてくる。

 ビルの隙間、裏路地の影に、蒼黒いものがうごめいている。

 電信柱を這い登るムカデのような影を目で追うと、電線を伝っていく軟体動物や、建物の屋上を渡る手足の多いトカゲが見えた。


――魄魔体ヴァーサナー


 懐かしいその名が記憶から浮かぶ。

 そう、あれは人の心のよどみが凝り固まったもの。

 目に見える世界はほんの一部……現実の層レイヤーをほんの少し移るだけで、街に息づく無数の影が知覚できるんだ。

 魄魔体ヴァーサナー達が目指す方向へ、何となく足が向く。

 その先から、甲高い鐘の音がした。低く唸るような太鼓が空気を震わせている。

 いまは祭りの季節だったっけ……。


「久凪くん!?」


 いきなりかけられた声が、俺を表層へ引き戻す。

 混み合う通りの中に、阿佐ヶ谷さんの笑顔があった。思わぬ出会いに子供っぽくはしゃぐその屈託のなさが何だかまぶしい。


「阿佐ヶ谷さん? あれ、何持ってんすかそれ?」

「それがな、猫飼うことになってん。これ猫用のキャリーバッグ? ていうん? ここに入れてもらうねん」


 手に抱えた緑色の大きなカゴを揺らしながら話す阿佐ヶ谷さんはやけに楽しそうだった。

 何で猫を?

 捨て猫の貰い手を探してるって話があってね。

 行き交う人々の賑わいの中で立ち話をすることが、現実離れした出来事のようだった。この世界に俺に話しかけてくれるひとがまだいたなんて。


――そう、君は大丈夫だよ勒郎。


 ククの声に、俺は心の中で答える。

 これが俺の未来なんか?

 こうやってオトナになるって?

 そう、苦しさを背負いながら、それでも生きていける。あんなこともあったねって、振り返って笑えるようになる。

 でも……だとしたら……この気持ちは何のためにあるんや?

 俺のすぐ隣で、中学生の俺が、いまも何かと必死に戦ってる。この戦いは意味がないんか?


「久凪くんはどこ行くん?」


 阿佐ヶ谷さんがすましたような表情で尋ねる。その目が、少し不思議そうに俺を見つめていた。


「いやちょっと散歩で」

「ええそうなん。暇やったら猫もらいに一緒に行かへん?」

「今から!?」


 会話に心が弾むなんて久しぶりだ。

 ククの笑顔が目に浮かんだ。そう言えばあいつは、俺があやのと屋上で話した後もやけに機嫌が良さそうだった。まるで友達の少ない子供を心配する母親の目だ。


――居場所なんて、行き先なんて、君が目を向けたところにあるんだよ。“向こう側”なんてなくても生きていける。


 クク、そうやな。

 そういうものかも知れない。

 まだ子猫なんだけどね、全然人間になつかないみたいでね。ワクワクする気持ちを隠さず、阿佐ヶ谷さんが笑っている。

 きっとこの先が……光の射す方向なんだ。


 なあぁう……


 そのとき黒猫が鳴いた。

 阿佐ヶ谷さんの後ろ、その黒い影が路地裏へ消えるのが一瞬見えた。

 いや、あれは魄魔体ヴァーサナー……?


――暗いことばかり考えてないで前を向いて歩きなさいって……。


 誰かがそう言っていた。


――でもそっちには道がないんです……私の道は暗闇こっちに続いてる……私に分かるのはそのことだけ。


 俺は阿佐ヶ谷さんと話しながらも、その路地から目が離せない。影から心が離れない。

 これは逃げなんだろうか。子供がねてるだけのことなんだろうか。


――きっと光は、この暗闇の向こう側にあるの。


「……なんや、ヒマそうなくせにぃ」


 阿佐ヶ谷さんが不満げに口を尖らせる。


「ああでも、今度その猫絶対見せてくださいよ」

「ふーん、まあ考えとくけどお……」


 それでも最後は笑いながら、阿佐ヶ谷さんがじゃあねと声をかけて歩いていく。

 その後ろ姿が人混みに消えるのを眺めながら、俺はククの声を聞いていた。勒郎、勒郎……。うん、大丈夫だよ。これは逃げじゃないから。

 俺はようやく、色んなことが見えるようになってきた。

 祭りの音が近付いてくる。甲高い鐘と地響きのようなドラムが聞こえる。

 そして大地を踏みしめる、巨大な車輪の軋み……。

 その恐ろしげな音に向かって、俺は街中の影達と一緒に通りを歩いていく。

 奇妙にゆがんだワニのような影が、無数の足で蠢くカラスのような影が――街中の魄魔体ヴァーサナーが俺を先導するように歩いていく。


――あたしは……じゃがなーと……。


 少女の声が聞こえた。

 向こうの十字路から、祇園祭の山鉾やまぼこのような巨大な山車だしが姿を現した。

 その高みにある台座に、伸び放題の黒髪を貴金属で飾り付けた幼い少女の姿があった。


――あなたの苦しみ……あたしに……捧げることを許してあげる。


 その髪の間から、彩色で強調された大きな目が俺を無感動に見下ろしていた。

 そうだ、俺はすでに出会っていたんだ。この救済に。


「うん。ありがとうジャガナート」


 少女の浮かべる獰猛な笑みが俺の心を満たす。影達が歓喜の叫びを上げる。この世界すべてを天秤にかけても揺るぐことのない、純粋で強烈な感情。

 ここから救い出して・・・・・・・・・……!

 俺はすでにあのとき、ジャガナートへ身を投げ出していたんだ。

 あれは遥か未来のこと。だけど、すべての瞬間は同時にここにある。






 走り続ける列車の屋根の上、叩き付けられる強烈な風の中で俺は意識を取り戻した。

 粉々に砕けた瓔珞ようらくが周囲に飛び散って銀色の光をまたたかせている。


「勒郎……!? あり得ないよ……!」

「クク、おかげで思い出せた……。この世界には価値があるって……こんな俺に手を差し伸べてくれるひともいるってこと。それから……俺が何を選んだかってことを」


 全身から光が湧き出していた。

 真夜マーヤー……強く思えばそれは現実となる。


「俺は……救って欲しかったんやな」


 隣に立つ弥鳥さんは、銀色の文様に全身を覆われて微動だにしない……ククの封印か何かか? でもその輝きの向こうから、あの微笑みが俺を見つめている。

 うん、弥鳥さん、俺は君と行くよ。


「勒郎……君だって誰かに手を伸ばせるのに……」


 車両の振動に身体を震わせながら、ククが呆然とつぶやいている。


「それでも……君はマイトリーを選ぶの?」

「クク……俺は……」


 真夜マーヤーが身体を光で覆っていた。弥鳥さんの装身具……あれはこういうことか。堰を切ったように力の使い方が分かる。


「俺は……弥鳥さんと一緒にこの世界を出て行くよ」

「……分かったよ。勒郎、君がそこまで……」


 吹き荒れる嵐、列車のスピードが作る風圧、その中でククも俺も身じろぎひとつせず立っていた。


「君がそこまで影と分かちがたくなっているなら……いっそ」


 ククの全身が銀色の閃光を発した。

 眩しさに薄目で見つめる中で、ククの姿が膨れ上がるのが分かる。白く大きな獣の姿……。


『いっそ……その影を食べてあげる!』


 頭に直接その言葉が伝わる。

 魔法少女のマスコットめいた小動物だったククが、いまや俺の背丈の数倍はある、妖怪めいた巨大な姿へ変貌を遂げていた。

 白い毛並みは硬質な輝きを照り返し、背中には呪術的な赤い模様がびっしり連なっている。

 低く身構えるその獣がアーモンドのような目を大きく見開くと、美しく光る黒い瞳が俺を見つめていた。


『勒郎……君のその影、抱え続ける意味なんてないんだよ……さあ!』


 尖った口元がすっと裂けると、鋭い牙が威嚇するように光った。


「クク……!」


 光輝く勇者のつるぎ……俺はそれを両手で構える。

 走り続ける列車の先頭車両の上で、いまにも飛びかかろうとする白く美しい獣と俺は向き合っていた。



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