誰にも理解できないよ ②

 少女の言葉は薄氷を砕くように、俺の足元にあるもろい現実を壊し始める。

 混乱の海に溺れながら、わらだろうとくじらだろうとつかもうとする俺の手に触れたのは、あの日平沢先生が置いていったあやののノートだった。例の冒険マンガの続き。俺は帰宅するとすぐ、熱心な信者のようにそれを読み返した。


「あんた達も好きなようにやればいいよ……でも……あたしも負けない!」


 その描きかけの物語は、主人公の少女・ミツキが読者へ燃えるような視線を向けるシーンで終わっていた。

 荒涼とした赤い砂漠世界へ学校ごと転移した少女達は、3年間のサバイバルの果てにふたつのグループに分かれていた。“元の現実”への帰還を目指すミツキやカナメ達と、その世界に順応しようとするツカサ達とに。

 サバイバルには衣食住に加えて大きな問題があった。その世界には敵意を抱く支配者達がいたからだ。その節くれだった手足を持つ背の高い生き物を「闇人間」と、あるいはただ「怪物」と少女達は呼んだ。マントのように暗闇をまとうその闇人間達は、暗闇から暗闇へ時や場所を超えて移動し、その能力はミツキ達の転移とも深く関わりがあるようだった。

 ミツキはいくつもの冒険を経て、転移の原因や闇人間の能力を解明する手がかりとなる手帳を発見する。それはミツキ以前にこの世界を彷徨さまよった人間の手記だったが、ミツキ達の冒険が進むごとに内容が変化する奇妙な特性があった。


「読んだ瞬間を基点に、最も蓋然性の高い過去-未来に準じた手記が現れる」


 作中のある人物はそう推測していたが、このあたりは正直よく分からない。

 やがて手帳は、闇人間に占拠された校舎の中に、時空間が“元の現実”と結節するポイントが現れることを示す。そしてミツキ達は最後の戦いに挑む。闇人間の力すら及ばない、不思議な交感力をもって砂漠に君臨する香砂蟲すなむしと呼ばれる巨大なワームの出現がその戦いをかき乱す。

 俺はその戦いにツカサ達が合流し、なんだかんだで協力して闇人間を撃退し、元の世界へ戻るんだろうと予想していた。ご都合主義とかそういうことじゃない。マンガはそれ・・を描くためにあるからだ。

 だけどその未完のノートにツカサは現れなかった。


「ミツキは全部ひとりで抱え込むキャラやったからな。あやの本人と同じや」


 彼方かなたが電話口で懐かしがるように話す。

 2学期から転校した彼方に電話するのは初めてだった。結局俺の話し相手は彼方とあやのしかいなかったのかも。

 彼方も読んでいたあやのの物語の最新のあらすじを、電話口で説明する。ミツキが手帳を託したカナメちゃんが、闇人間のひとりに呑み込まれたこと。ミツキは同行した数人の仲間全員を失い、最後にひとり闇人間に囲まれていたこと。そして、そこで笑みすら浮かべながらあの啖呵たんかを切る。負けない、という言葉は俺にもあやの本人の言葉に聞こえた。


「普通なら、次の瞬間救いの手が現れるところやけど」


 そうかも。それとも物語はさらに過酷な展開を迎えるのか。あやの本人も迷ってるのかも知れない。


「でもあやのの話やからな。現実にはそういいタイミングで救いなんかないからな」


 そうなんだ。

 これはリアリティの追及という話ではなくて、あやのがこの世界リアルをどう捉えているかという問題だ。物語は現実を超えようとするが、本質的に現実に縛られてもいる。

 ふと、俺はもっと早くあいつの世界へ手を伸ばすべきだったんだと思う。


「でもお前が……あやのの家まで行ったって聞いて嬉しかったわ」


 彼方が唐突に俺の話をするので戸惑う。言った通りやろ。お前は世界に対してちゃんと行動できるんや。そうだろうか? 学校をサボるのも、幼馴染みの家にいきなり押し掛けるのも、駄々っ子のワガママだ。


「それで後悔してるんか?」


 いや。何度繰り返しても俺はああしかできなかっただろうから。

 彼方はそんな俺を大人になったとか言うので、茶化しているのは分かるがなぜか少し寂しくなる。

 そして俺は、その寂しさを過去の記憶として抱えていることに気付く。

 彼方……お前は仕事のできる大人だった。少なくとも俺と違って、新卒で名の知れた企業に入り、キャリアを積んで真っ当な人生を歩いていた。


「お前もあやのも戦ってるやん。子供のワガママか何か知らんけど、戦ってるのは間違いないやろ」


 彼方に励まされた気になりながらも、その言葉は心に届く前に虚空へ消えていった。電話を切ったときしみじみ実感したのは懐かしさだった。






 古くなったインクと油が混じったような新古書店特有の匂い。

 俺は入荷した本を並べていた。

 大学を出て、バイトを転々とした末にこうして何となく契約社員をしていると、ふと不思議に感じる。

 俺はもう大人になったのか?


「ねえ久凪くなぎくん、これ! この本すごくない!?」


 ぼんやりしてると、後ろからバイトの阿佐ヶ谷さんの興奮した声が降ってくる。


「え……うわ。呪術の使い方? 陰陽師ですか」

「どこの棚に並べるんかなあ?」

「まあ……実用のとこですかね」

「えー、呪術使いたい人が実用本コーナー探してくれるかなあ?」


 呑気そうにつぶやきながら、目だけ悪戯っぽく輝かせる阿佐ヶ谷さんの気さくな態度が心地よくて、俺は彼女と同じシフトになるのをこっそり楽しみにしてる。俺とタメ歳にしては子供っぽい人だ。まあ人のことは言えないが。

 今日みたいに雨の日は客も少ないからふざけた会話も弾む。


「久凪くんさ、なんか今日ぼーっとしてへん?」


 阿佐ヶ谷さんが隣で棚を整理しながらしつこく話しかけてくる。独り暮らしをしてると誰かに声をかけられるのがくすぐったい。


「そうかなあ?」

「せやでー? なんかノスタルジックな感じ」

「え、大人っぽい雰囲気出てるってこと?」

「そやなあ、縁側に座ったおじいちゃんみたいかなあ」

「大人過ぎるっ!」


 人とスムーズに会話できることに俺は驚く。

 いつの間にか適度な距離の取り方を覚え、会話の弾む当たり障りのない返事を覚える。野垂れ死にしない程度には働けて、ひとりでも何とか生きていける。


「子供の頃って世界の終末とか憧れませんでした?」

「あー分かる分かる。中二病ね。そういや久凪くん中学生っぽい」

「えらい若返ったっ!」


 憧れてたって?

 思い出すのも忘れるくらいほったらかして、たまにあの頃は痛かっただなんて笑い飛ばすような、そんな記憶に過ぎないって?

 この苦しさが?


「あ、ほらまたぼーっとして。久凪くんまじでちょっと休んだ方がええよ?」


 そうすね阿佐ヶ谷さん。

 確かに妙な気分だ。

 夢の中で夢を見てるって半分自覚してるような。

 そうだ、俺はいつか大人になる。そんな未来もある。

 ……もしも中学2年生のあのとき、世界が壊れることがなかったなら。


――キミを救うために来たんだよ。


 なんて透き通った声。つい最近聞いた気がする。

 あれは誰の声だったろう。






 目が覚めたら涙があふれていた。

 いつものマンションの一室。子供の頃から過ごした部屋――その真ん中にある学習机をベッドからぼんやり眺めつつ、俺は混乱の波にバラバラになった記憶がゆっくりあるべきところへ戻るのを感じた。

 時計に目の焦点が合って、夕食後にうたた寝をしたんだと理解する。

 未来の夢とはレアな体験だ。

 だけど何だかつい最近まで、そんな不思議を当然のように受け入れていた気がする。


――お前は14歳の中学生なんかじゃないだろう? 生きることに絶望した貧弱なオトナの魂だ。


 誰に言われた言葉だったか。

 窓の外でゴウゴウと風がうねる。異常な低気圧がどうとかニュースが言っていた。

 さっきの夢が大人になった俺だったとして、あれで生きることに絶望してるんだろうか? たとえそうでも、それなりにオトナをやって生きていきそうじゃないか?


勒郎ろくろう、いいかい?」


 父親が部屋へ入ってくる。最近何となく、家にいても会話が増えた気がする。

 風の音が少し小さくなったようだ。


「ああ、この本……」

「お母さんの本棚整理したときに取ってあったみたいでね。居間の段ボールにあったよ」


 わざわざ探してくれたのか?

 お母さんが生前俺に見せてくれた本の話をしたところだった。


「……ありがと」

「何やかやとあるけど、勒郎が俺の子供にしては真っ当に育ってくれて良かったよ」

「何やそれ」


 去り際に父親がらしくないことを呟くので気持ちが悪い。

 いまの俺を肯定されることが腹立たしい。

 学校へちゃんと通ってるからか? それだけで真っ当に育ったと思われるなら、その単純さは残酷過ぎる。

 部屋にひとりでいると、外の風がやけにうるさく聞こえる。


――ジャガナートは始まったよ。


 少女の言葉が木霊こだましていた。






 目が覚めたとき、カーテンの向こうの闇がほんの微かに薄れていて、夜明けが近いと分かった。

 風になぶられる街路樹がざあざあ音を立てている。雨は降っていないようで、かえって激しい風の力がくっきりと感じられた。

 この時間に起きているのが懐かしい。


 ガ……チャリ。


 重く冷たい玄関ドアが背後で閉まる。

 冷たく暗い街は嵐の気配に満ちていて、気圧の低さに身体ごと空へ吹き飛ばされそうだった。

 誰もいない世界。

 何だって起こり得る時間。

 そう言えば少し前まで、こうして早朝に出歩いていた。


――キミはこう思ってる。なぜこの世界は息苦しいのか。いつまで耐えれば解放されるのか。……どうすれば“向こう側”へ行けるのかってね。


 その声が本当に聞こえるようだ。

 俺を冒険へといざなう声。

 白み始めた夜空を見上げると、蒼黒い雲の切れ端が猛烈なスピードで横切っていく。その雲の輪郭を、着色された宇宙写真のように鮮やかな青や紫の光がチカチカと走る。

 住宅街はゆっくりと古代遺跡めいた荘厳な姿へ変容する。

 ここがすでに冒険の舞台なんだ。


――現実に向き合えない、弱く、怠惰で、甘えた人間だけが立ち止まる。ただ生ぬるい悩みをつつきながら、閉じた場所に引き込もって……。


 いや、ぜんぶ錯覚だ。

 何もかも俺の妄想なんだ。

 それじゃ……何で俺はいま走ってるんだ。

 あの高層ビルの上に何かがある。それが俺を呼んでいる。

 これが最後だ。今日が大人になる前の最後の遊び。この嵐が終われば、中学2年生の頃はと振り返る当たり障りのない記憶になる。


――その考え……キミは心の底からその通りだと思う? その考えの通りに生きた人生を終えるとき、心から納得できる?


 この時間すでに駅は動いていた。始発はもう走っている。

 俺は衝動のままに、市の中心へ高架線路を伸ばす環状線のプラットホームに立っていた。

 人気はない。

 ホームの屋根と屋根の隙間から、吹き荒れる風に切り刻まれる雲がオレンジ色に照らされるのが見えた。もうすぐ夜が明ける。子供時代の終わりの空だ。


「オトナになったの?」


 はっきりと声が聞こえた。

 向かい側のホームの正面に、彼女が立っていた。


「近しい人達にそう言われると、そういうものかと思うかも知れないね」


 構内放送がこのホームに電車が来ると告げている。

 右手に疾走する車両の光と音を感じながら、それでも俺はじっと正面を見すえる。

 白を基調にした見慣れない制服姿の少女。

 これは妄想……。


「でも、どれほど周りが当たり前のことだと言っても、消えることのない違和感があるんだね? 彼らの世界すべてを天秤にかけてもなお、キミだけの世界を捨てられないんだね?」


 ホームの柱や看板の輪郭が奇妙な緑色に光る。風が発光するもやを飛ばす。現実の層レイヤーがずれているんだ。

 断崖のように2つのホームを裂く線路の向こうで、彼女が手を差し伸べている。

 後ろ髪を赤いリボンで結い上げ、華奢きゃしゃな手足を凛と伸ばした少女。


「それならボクがキミを……“向こう側”へ連れてってあげる。その意思があるなら……」


 警笛が鳴り響く。薄闇を貫く電車のライトが俺の右頬を眩しく照らす。


「飛んで……この手を取ればいいんだよ」


 彼女が微笑んでいる。


――重要なのは、その瞬間お前が手を伸ばせるかどうかなんだよ。

 

 身体が動いていた。

 足がホームの端を蹴った。

 目の前に俺のために差し出された手があるのなら、それ以外に欲しいものはない。

 暴風に吹き飛ばされるように身体が舞い上がった。


真夜マーヤー……」


 ホームに停車する列車の屋根の上で、俺は両手を突いていた。

 冷たい金属の感触。

 それが振動し、電車は次の駅へ走り始める。ホームが後ろへ流れ、視界の左右を街のビルが通り過ぎていく。

 高架を疾走する8輌編成の列車の上で、俺はさっき浮かんだ言葉を反芻はんすうしていた。

 お前が手を伸ばせるかどうか……。飛べると信じて飛び降りろ、とでも言うような危険な言葉。


――お前が為すべきことから目をらさせる、この世のあらゆる欺瞞ぎまんは破壊しろ。


 ワタリガラスの言葉だった。俺はあの黒衣の女と戦い、共に黒い翼に乗った。

 早朝の冷気がうずくまる俺の身体を叩く。

 脳裡に、あいつらの姿が鮮やかに現れる。ミーアクラアと来子。クク。そして――。


「……キミはやっぱり来たね」


 列車のたてる轟音の中でも、彼女の透き通った声は聞こえる。

 見上げればそこに、夜明け前の蒼い空を背景に弥鳥みとりさんが立っていた。列車の先頭に背を向け、揺れも意に介さず俺を見下ろしている。

 風がその白い制服を乱暴にはためかせるのに、彼女のか細い身体は揺らぎもしない。


「キミがあの人たちに話しても、誰にも理解できないよ」


 列車の先、遥か遠くから密集する高層ビル群が近付いてくる。

 ビルの上空には、天地創造以前の混沌もかくやと思える暴力的な力が巨大な渦をなし、ダークブルーの雲を引き千切っては呑み込んでいる。

 ジャガナートは始まったんだ。

 

「でも、ボクには分かる」


 やや吊り上がった大きな瞳が真っ直ぐ俺を見つめる。

 震えるほどの生命力に満ちたその瞳を、何度見つめただろう。俺を冒険へといざなう別世界からの扉。

 薄闇の中で、瞳は金色に光る。あの光が象徴する恐ろしい戦いの記憶が、昨夜の夢の欠片のようによみがえる。それは、お前のいるべき場所はここなんだと宣告していた。

 そのとき真横から日の光が射し、風圧にはためく赤いリボンがきらめいた。


「……だから、ボクはここへ来たんだよ」


 弥鳥さんが微笑んでいる。その虚無の優しさをたたえる微笑の前で、ようやく俺は理解した。また会えるよ――あのときの言葉がいま現実になったことを。


「さあ行こう、ボク達ふたりで」


 弥鳥さんが右手を差し伸べる。その誘いの意味することを、俺はもう知っている。

 少しの躊躇ためらいの後、しかし決意を込めて俺はその手をつかむ。

 走り続ける列車の上で、足元の感覚がふわりと軽くなる。

 そして俺は、俺の物語と再会する。



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