Ⅲ 失われた終焉/キミが世界を救いたいなら

誰にも理解できないよ ①

 暗黒の宇宙を浮遊する小惑星の表層に高層マンションの最上部が顔を覗かせていて、遠目には小さな建物に見えるが、その根は深く巨大な地下都市へとつながっている。

 人も物も密集する息苦しい穴ぐらの世界から、こうして灰色の表層を歩くとき、たとえ薄く冷たい空気の中でも俺は本当の意味で呼吸ができた。


勒郎ろくろう、そろそろ戻ろうぜ」


 涼しげに声をかける彼方かなたのおかげで、俺は自分の身体が凍えかけてることに気付ける。

 さすがにそろそろ戻らないと、この前のように凍傷騒ぎだ。

 しかし今日はいつもと違う。

 この胸騒ぎは、地下へ帰る拒否反応のせいだけじゃない。まるで足元が崩れ落ちるような、寄る辺のない不安感。


「何だこの揺れ……?」


 彼方がそう言うならこの揺れは錯覚じゃないってことだ。まるで……旧世紀にあったという「地震」じゃないか?

 そのときいびつな地平線の向こうが光ったかと思うと、巨大な炎の柱が大地を赤く照らした。

 言葉を失くす俺達を、数秒遅れて巨大な轟音と暴風が襲う。


「嘘だろ……」


 それ以上声が出なかった。

 いや、激しい揺れと音に声が用を成さなくなった。

 いつか起こると、オカルトまがいの娯楽としてメディアが語ってきた世界の終わり。俺達の生活を成り立たせる小惑星内部の核反応がほんの少しバランスを崩せば、連鎖的に地下都市群は壊滅する――。

 人工的に作り出した重力も空気もこれでおしまい。冗談のように危うくもろい世界だ。

 身体がゆっくり星々の世界へ浮き上がる。しがみつくものがなにもない、それ以上の恐怖がこの世にあるだろうか。






 目が覚めたとき、その恐ろしさがまだ背中に張り付いていた。この手の夢は久しぶりだ。

 ぱりっとノリの効いた白いシーツの感触。つるりとした見知らぬ壁を、俺はぼんやり見つめていた。


「あぁ悪いな、起こしたか?」


 聞き慣れた声に俺は少し安心した。

 ボサボサの髪を無造作にくくった化粧っ気のない平沢先生が、赤い眼鏡越しにやけに優しい視線を向けていた。ちょうどベッド横の台にノートを置いたところらしい。


「いえ……。何……ですかそれ?」


 声がかすれて上手く話せない。

 昨日の夜、気付けば市立病院に寝かされていて、念のため一日検査入院という流れだったのを思い出した。窓の日差しはもう午後のようだから随分眠ったらしい。


「あやのちゃんのノートがあってなぁ。これだけ渡しそびれたんだよ」


 この前借りたノートの続きか? 異世界に飛ばされたミツキ達の物語――。


「お祖父さんのところへ行くってのも、こう急だとなぁ。とりあえずお前に渡しとこうと思うんだ」

「先生……昨日、大丈夫でした?」

「ん? 地震のことか?」

「いや(地震?)……あいつらが襲ってきて……」

「……何だ? 夢の話かぁ?」


 何だこれ。

 あのとき、図書室に魄魔体ヴァーサナーがやって来て……先生は魔法使いで……。

 俺はもごもごと何をどこまで口走ったのか。

 平沢先生は現実の層レイヤーを越えて仮名見かなみ来子くるこから俺を救ってくれて、図書室に襲来したヤモリ人間と派手な魔法戦を繰り広げて……。

 妄想というなら確かにそうだ。窓が割れたのも騒ぎが起こったのも、怪物の襲来より地震というのが分かりやすい説明だ。


「お前はさぁ久凪くなぎ……奈落に落ちても聖杯をつかもうとするタイプだよなぁ」


 入院ボケの戯言ざれごとだと思ってくれたのか、フォローするように話題を変えてくれる。

 この前の映画の話だ。インディ・ジョーンズ/最後の聖戦。そう、俺はあの映画を観たことがある。いまではその記憶を思い出せる。

 映画の終盤……皆が追い求めた聖杯が地割れに転がり落ち、そこへ手を伸ばそうとした人物はそのまま地の底へ消える宿命だった。


「人生を賭けて聖杯を手に入れたかったんでしょ……じゃあ死ぬ直前の一瞬でもそれを掴めたなら勝ちじゃないですか」

「お前のそういうところ、ええと思うけどなぁ」


 苦笑する先生の顔に、夢幻少女のメイクアップが重なる。あれが夢だって?


「それは夢を掴みたかったのか……現実に帰りたくなかったのか、どっちかなぁ?」


 俺は何も言えない。

 心から信頼する誰かが声をかけてさえくれれば、俺は奈落の底だろうとどこへでも踏み出すのに。先生にだって、そう言ってもらえれば……。


「お前に、こっち側へ戻れって言ってくれる人がいたらなぁ」


 先生が帰った後も、その言葉が病室に留まっていた。











【Ⅲ章】   失われた終焉/君が世界を救いたいなら











 父親が迎えに来て、俺はその日のうちに帰宅した。

 あやのは弟と一緒に、隣県に住む祖父に引き取られた。昨日、酔った父親がアパートで暴れてあやのに怪我を負わせた。母親の入院理由も父親の暴行ということだからそのままあそこに住む訳にはいかないのだろうけど、あまりに急で俺にはうまく飲み込めない。

 そして俺も無関係じゃなかった。騒ぎに隣人が様子を見に来たとき、部屋に俺も倒れていたからだ。警察に話も聞かれ、おとがめはなかったが、俺がどうしてそこに居合わせたのか色々と取り沙汰されているようだ。そりゃそうだろうが。

 黒い翼に乗ってあの蒼白い巨大な姿を目指した感覚はいまでも生々しい。天をおおう鮮やかな紫色、廃墟の広がる灰色の大地、心のよどみが具現化した影達――。


「そもそも、他人ひとが理解してくれることなんてほとんどないだろう」


 慰めのつもりか、その日自宅で夕食をとりながら父親はそんなことを言った。

 なぜ俺があやののアパートにいたのか、警察の前で通り一遍のことを聞いた後はまるで口にしないのは、いつものようにややこしいことに捕らわれたくないからだろう。こっちも煩わしくないから楽だ。


「……お母さんのことも?」


 こんなことを言うのは初めてだ。いつものように黙っていればいいのに、俺はなぜこんなことを聞いたんだろう。

 そうかもね、とか適当な返事があった。

 つけっぱなしのテレビは、地震と異常気象のニュースばかりを騒ぎ立てていた。昨日の地震はかなり大きく、あちこちで建物が傾いたらしい。しかし俺にはどれも呑気な話に聞こえる。昨日俺は、天を裂く雷光や、傾くどころか崩壊する建物をいくらでも目の当たりにしたんだから。






 平日、登校時間を過ぎれば、住宅街は妙に殺風景になる。

 あの廃屋のビルもこの時間には、夜明けの頃にまとっていた魔法を失くして素っ気ない姿をさらしている。

 学校をサボった気だるい感覚をもてあましながら、俺はビルの屋上に出る扉を開ける。そこで扉の下から差し込まれたらしい封筒に気付いた。

 無味乾燥な事務封筒……だがそこに入っていた手紙には馴染みの文字が並んでいた。


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 あたしはしばらくここから離れるから、一応あいさつ程度に書いとく。色々急やし、あんたがどこにいるかも知らんけど、あんたはよくここに来てるからな。どうせいまもひとりですねてるんやろ。


 昨日のことはよく憶えてないけど、父がやったことならだいたい分かる。だけど周りの人は、あんたのことも好き勝手に言ってて、それが嫌やった。あんたが助けに来てくれたのは分かる。あんたにしてはがんばったな。いや、昔からあんたはがんばってくれてた気もする。


 この何年か夢の中にいて、久しぶりに目が覚めたような感じがしてる。あんたに偉そうなこといろいろ言ってたけど、やっぱりあたしも逃げまわってた。あんたのしてくれたこと、いま素直にありがとうって言えないけど、今度会うときはあたしも少しは変わってると思うし、まあ呆れずにいてください。


 あんたもがんばれ。あたしもがんばる。


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 宛名も書き手の名前もない手紙だったが、届いて当然と言わんばかりの迷いのない書きっぷりだった。






 2日ぶりに学校へ行くと教室の空気が変わっていた。

 俺はこれまでのように日常に溶けた大勢のひとりじゃなく、事件の当事者になっていた。

 ぽかんと空いたあやのの席が、無視できない欠落として教室に影を落としている。これまで俺にかけられていた他愛のない挨拶も、その影に呑まれて声にならなかった。


「お前ちょっと変わったな」


 授業が終わった直後のざわつきで、誰から声をかけられたのか一瞬分からなかった。

 派手なピンクのヘアゴムで髪を留めた高嶋小鳥……よくあやのとぶつかっていたこいつが俺に話しかけるなんて初めてだ。


「何したか知らんけど……まあがんばりや」


 顔も合わせず、すれ違いざまに言葉をぽんと置いて高嶋が歩いていった。周りの誰も気付かないさりげなさ。何だその戦友をねぎらう兵士みたいなノリは?

 ぼんやり高嶋を見送る俺の耳に、帰り支度をするクラスメートの会話が飛び込んでくる。


「……復帰したんやって」

「転校してすぐ休んでたもんなあ」


 転校生……そうだった。

 弥鳥みとりさん。

 あの廃墟の世界で別れてから、もちろん学校で彼女と会うことはなかった。病欠という話だったが、俺は別段気にならなかった。弥鳥さんは俺にとって、この現実ならざるレイヤーで会うひとだったから。

 だけどいま……吸い込む息すら消えてしまいそうな空虚を抱えるいま、それはすがり付きたくなる幻だった。

 ふらふらと教室を出た俺は、そのふたつ隣のクラスへ向かう。

 復帰した?

 彼女がそこにいる?

 まるで現実感のないまま、その教室を俺は眺める。

 別のクラスの男子生徒をいぶかしむようないくつもの視線……その先に彼女がいた。

 あの赤いリボンはしていない。見慣れない他校の制服も、いまではこの十月とおつき中学のものになっている。


「みと……」


 呼びかけた声が消えてしまう。

 ぞっとする違和感だった。

 違う。

 あれは彼女じゃない。

 華奢な手足、凛とした立ち姿……だけどあれは弥鳥さんじゃない。

 確かにあの夏の日、俺は廊下を歩く彼女を見かけた。弥鳥さんにそっくりの顔……だけどいま話しかけても返事が返ってくるとは思えない。

 いや、違うんだ。

 弥鳥さんがあの転校生・・・・・・・・・・に似てるんだ・・・・・・






 日々が過ぎる。

 教室にあった影は存在感をなくしていく。

 多少の陰口めいた言葉を背中に聞いたにせよ、俺も無慈悲に当たり障りのない日常へ取り込まれていく。日常というものの強靭さに俺は感じ入る。凄いもんだ。

 ちょくちょく図書室に寄れば、カウンターの奥で忙しそうにしている平沢先生が声をかけてくれる。魔法使いの女の子である平沢久遠くおんはそこにいるけれど、それはもう俺にしか分からない。

 そうして俺も色んなことを忘れる。

 きっと夢を見ていたんだ。何年も前からの長い夢を。

 風の匂いが秋から冬へ変わりかけた頃、俺はそのビル倒壊のニュースを聞いた。






 その建物は、高層ビルの乱立する街の中心部にほど近い一画にあったので、大きな騒ぎになった。折しも日曜日で多くの野次馬が集まり、それは俺にとっても退屈な日常を忘れるイベントだった。

 手抜き工事だとか、9月の地震の影響だとか言われているようだったが、隣の壁に寄りかかるように半ば崩れたそのビルを眺めたとき、俺には別の原因が分かった気がした。


「この……眺めって……」


 人混みの中、思わず言葉が漏れる。

 心が激しく波打つ。

 その崩れた建物の背景に、高層ビルが建ち並んでいた。まるで天を突くバベルの塔だ。

 俺はこの場所を知っている……?

 記憶の中で、俺は崩れ落ちる建物からそびえる塔を見上げていた。黒い雷光が破壊する建物群。空から光を降り注がせる船団。あれはいつ見た夢だったろう?


 まだ憶えてる……?


 建物を見上げる人々のざわめきの中、誰かの声が聞こえた気がした。

 見物人から少し離れて、青と白の制服姿の少女が立っていた。生徒会……とか何とか書かれた腕章。

 10月も末の冷たい風が吹いて、少女の長いストレートの黒髪を揺らす。

 その子が何かを推し測るように俺をじっと見るので当惑する。どこかで会ったか?


「……すごいよね、これ」


 話しかけられたとき、驚くよりも、どこで会ったかを思い出すのに必死だった。


「こんなビルそう簡単に壊れないよね。何があったと思う? まるでさ……」

「……何かに撃ち抜かれたみたいですよね」

「ふふ、そうそう!」


 少女が瞳を輝かせて笑う。期待通りの言葉を返せたみたいでなぜかほっとした。


「何に撃たれたらこうなるのかな?」

「いやまあ……レーザー光線みたいなアレですかね」

「へえ?」

「ほら、あの高層ビルの方からこっちへ撃ったら」

「見てきたみたいだね」

「……そうなんすかね」


 何で敬語使ってるんだろう俺は。確かにその子は年上のように思えるが。


「あのさ、もしかすると本当にそんな冒険してたのかも、とか思うことない?」


 名も知れない少女が俺の隣に立って、倒壊したビルを眺めている。片手を腰に当てて挑戦するように見上げる彼女の姿こそ、冒険マンガの主人公みたいだ。


「ただ忘れてるだけで?」

「そう。例えばさ、こことは少しずれた現実で、自分は剣と魔法で怪物達と戦ってたのかも、とかね。それこそビルが崩れ落ちるくらいの派手な冒険の中でさ、誰かを助けたり、仲間に助けられたり……」

「完全に妄想ですよね」

「うん、じゃあさ、妄想が覚めた後は、その世界はどうなるのかな? その冒険の中で出会った人達は、その瞬間に消えちゃう?」

「消えないと怖いじゃないですか」


 相手の饒舌じょうぜつさに当惑しながら、俺は何かに苛立っていた。この子は何を言ってるんだ?

 会話が途切れ、少女は黙って崩れた建物を見上げていた。いや、その向こうの高層ビルをだろうか。


「……語られなくても物語は存在するんだよ。でも、誰かがそれを語らなきゃ、世界は閉じたまま……」


 空を眺めながら少女は唐突にそう言って、ふっと顔を隣の俺へ向ける。

 長い黒髪がひるがえる。挑むような笑みが俺の目を見据えていた。


「君の物語はもうおしまい?」


 少女は何かを期待して俺を見つめている。奈落へ続く地割れの向こうから、さあこっちへ飛び越えてと誘うように。

 いや、みんな妄想だ。俺が勝手に思い込んでるだけ。

 もうあやのもいない。弥鳥さんはいなかったんだ。なのに……何度繰り返すんだろう。

 俺は何も言わずにそこから離れる。

 早足で歩きながら、振り向きたい気持ちを必死に抑える。振り返ったときそこに少女がいてもいなくても、自分の正気を疑いそうだ。

 背後から最後に聞こえた言葉……あれも幻聴だったのか。その聞き慣れない言葉はなぜか恐ろしく、ぞくりと心臓をかすめた。


「ジャガナートは始まったよ、勒郎くん」



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