0章 よるのばけもの
1 火の民
1-1 秋
いつもは弓のように反っている耳を、弦のようにピンッと張り詰め、おっとりとした瞳を持つ火馬のトロは、一音一音ゆっくりと奏でる少年の古い竪琴の音に耳を傾けていた。
その賢い馬のトロは、ちょうどこの位置が竪琴の音色が一番よく聴こえることを知っていた。少年は時折顔をしかめながら、その音に耳を傾け、また眉をひそめた。
どうやら彼は、心の中にある音を再現するのに苦戦しているようだ。無理もない、何せ竪琴は先日貰ったばっかりなのだ。少年が今求めている音は、昼間に見た枯葉が舞う風景であった。
彼は竪琴の音を音そのものではなく、感じた心地として捉える。その時々の肌で、目で、耳で、全身で感じた心地を音で再現する。思い通りの音を奏でられた時、少年は春の日差しのように、ぱぁぁと頬を染め笑顔を輝かせる。隣の少年は、疲れたのか半分夢に誘われながら、それに抗い目を見開らこうとしては、まぶたが落ちての繰り返しをしていた。
すぐそこにある、満天の星が見守る中、身に染みる秋の夜風が少年とトロの頬を撫でた。
少年の名はヘキといった。秋のイチョウの葉のような黄金色の髪に、晴れ渡った夜空のような碧い瞳をしていたからだ。
少年は、北の大山脈で放浪生活をおくる《火の民》という少数民族の長に拾われ、育てられた。
火の民は本名を隠し、日が昇る間は仮面を被り、仮面の名でお互いを呼び合う。族長は獅子を模した仮面を被っていたため、獅子王という意味の《レグルス》と呼ばれた。
少年は火の民の血を引いていない。そのため一族の風習に縛られることはなかったが、名前を持っていなかったので瞳の色からヘキと呼ばれた。
火の民は少数民族と言っても、少年の知る限りレグルスしかおらず、少年はレグルスと二人で山を放浪する生活をしていた。
しかし数年前、イルという旅人の男がそこに加わった。まだ10にも満たない少年と齢が高齢の長だけでの山の暮らしは、大変厳しいものであったので、男手が増えたことにより二人の生活は以前よりも、少しばかり豊かになった。
イルの白樺の仮面には、二匹の鷲が円を描くように飛翔している彫刻が施されていた。その質素な仮面でイルは常に、顔の半分を隠していた。火の民であるイグルスは夜になると仮面を外すが、イルは少年の前では決して素顔を見せなかった。
本人は頑として認めないが、長のイグルスが足腰が弱ってきたので、イルが来てからはヘキとイルで冬支度を備えるようになった。
ヘキが一生懸命奏でているこの古い竪琴を渡したのはイルである。この竪琴にはイルの仮面と同じ、二匹の鷲の見事な彫刻が施されていた。実はそれは木の細工師であるイルが彫った装飾である。その鷲の装飾は、彼の忍耐と繊細さを顕著に表していた。
ヘキは、長の逸話を聞く事と木の細工が大好きだった。そのためにヘキは、見事な細工を生み出すイルの技を、なんとか真似できないか山での暮らしの仕事を放り出してはイルの手付きを目に焼き付けた。
夜になるとこっそり夜具から抜け出して、イルの道具を内緒で持ち出し昼間の記憶を苦労しながら捻りだした。頑張って作ったものを捨てるのは嫌だったけど、イルに見つかって、木をいじれなくなる事の方がもっと嫌だったのか。そこで少年は、トロの馬小屋にこれらを隠す事にした。
この時の少年は、素顔のわからないイルが何となく怖かったので、いつも距離を置いていた。
「お前らそろって無言だなぁ。初恋の前の相手じゃないんだからそんなに緊張しなくてもいいだろう。」
とからかわれる程だった。イルも少年に関わらなかったのでそのような無言の間柄がしばらく続いた。
しかしある日、手が悴んだヘキは誤って指を切ってしまった。放っておけば治るだろうと思いそのままにしていたら、
「お前何やっってんだ!!怪我ほっといて大変なとこになったらどうする!!」はじめて聞いた言葉は、これだった。この事があってからイルは少年に自分がそばにいない間は木の細工をする事を禁止されてしまった。
だがへキにとってそれは、大変うれしいことであった。何せこれまでは遠くから盗み見ていたイルの技を間近で見て、さらに教えて貰えるようになったからだ。
仕事が終わると、イルはヘキに理解しやすいようにいつもよりもゆっくり作業をするようになり、その技をヘキにわざと見せるようになった。手先が器用だったヘキはみるみる飲み込んでいき、ヘキは上手くできるとイルに褒めてもらえるたびにヘキはイルを慕うようになった。
イルはヘキに古い竪琴と彼が大事にしていた道具を渡した。
「俺はこれを奏でられない。奏で方は彼ら、
イルはゴツゴツとした硬い手で、少年の秋のイチョウ葉の色をした髪をくしゃくしゃと撫でながら、そっと呟いた。彼は懐かしそうに、一度も見せたことがない仮面の下で、ふっと微笑んだ。少年はくしゃくしゃの髪を気にしながら、碧い瞳をパチリとさせその男を見上げ、首を斜め傾けた。
「ヘキ、お前は笑うと春の日差しみたいだなぁ。あいつにそっくりだ。」
その言葉は、風に攫われてしまったのか、少年は思い出すことができなかった。
トロはその男が前の竪琴の持ち主を思い浮かべ、彼の心に沸き起こった目の前の少年に対する感情を悟り、二人のそばへ寄った。
夜風でハッと目を覚ました少年は、一度背中を伸ばして、肩の力を抜いて再び暖かいトロに体重を預けてきた。彼はふと空を見上げた。満点の星空が、息をのむほど近くにあった。手を伸ばせば、掴めそうなほど。
ーこれが少年にとっての当たり前だった。
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