テレビを抱いて杜へ逝け

楓 双葉

テレビを抱いて杜へ逝け



 電源スイッチを押すと、ボン、と宇宙を想わせる音がして、真っ黒い画面の中心から光の円が広がり、赤青緑の三原色が鮮やかに発光する。

 右肩についている持ち手を回すとチャンネルが変わる。ガチャ、ガチャ、と大げさに音を立てながら。画面を覆っているのは木製の枠。左側にはスピーカーが内蔵されていて、格子状の木枠の隙間に指を入れると、スピーカーの布に触れることが出来る。

 幼少期の僕は、 宇宙って何だろうと考えると眠れなくなる事がよくあった。そんなときは、あの三色に信号を送っているのは誰だろうという考えることにした。もしかしたら宇宙から、地球外生命体が信号を送っているんじゃないかと想像した。そのほうが、恐怖感や喪失感も無く、どちらかというとワクワクさえし、決まって眠りに落ちることができたのだ。

 母がいなくなってから、仕事の後ほとんど毎日のように飲みに行き、夜中に帰る父と二人暮らしの家のテレビは、ある意味僕専用だった。ファミリーコンピューターなんて買ってもらう余裕はなかったし、ニンテンドーDSのようなしゃれたゲーム機も当時はなかったから、僕にとっては一方通行のテレビが一番の友人であり味方なのだった。

 僕がテレビと別れる時が来たら、きっとそれはとても悲しいけれど、テレビよりも大切な何かが見つかるのは僕の人生に於いて素晴らしいことなんだろう。

 僕が考えていたのはつまりそういうことで、彼女の言う廃棄物としてのテレビの行方など考えたこともない。僕は家を出てから、あのテレビが機能していたのかも知らない。もしかしたら故障して新しいテレビと引き換えに業者に連れ去られたかもしれない。これは一番望んでいる仮定だけど、もしかしてもしかすると、富士の樹海で父と共に眠っているかもしれない。



「寒い」

 助手席でパワーウィンドウを上げながら、彼女は言う。

「吸わなきゃいいのに」

 消し切れていなかった煙草の燻る煙が漂い視界に入る。

 しばらく信号はなさそうなので、慎重にハンドルを右手だけで握り、左手で灰皿を開け、僕は自分のコーヒーを灰皿に向けて少し垂らした。

 ラジオから懐かしい曲が流れ、音量を上げるボタンを押す。

 遠い昔見てた神様はどこにかくれてるの、と甘えた声のボーカルが歌う。

「今何時?」

 延々と続く道路は、車のヘッドライトが照らす部分だけが存在しているかのように道以外真っ暗だ。

「自分で見ろよ」言ってダッシュボードの電光時計を見ると、緑色に23:50と光っている。

「もう少し時間つぶせばよかった」

「どこで?」

「どこかで」

 真っ暗な国道を、後部座席にグレーのアナログテレビを積んだ僕の軽自動車が、このまま光の無い闇へ走り去って僕たちもろとも飲みこんでしまうんじゃないかと思えたりもする。

「ラーメン食べたい」

 僕は言い、バックミラー越しにテレビの姿を確認する。

「ちょっと黙ってて」

「なんだよ」

 腹でも痛いのか、両腕を胸の前できつく絡めて身を縮める彼女が、ラジオが聴こえてくる方を睨みつける。

「せっかく長年の疑問が解消しそうだったのに」

「ぁ? なんて?」

「間奏の部分の早口の英語、いま説明してたのよ、ばか」

 僕は口をとがらせ、言い返したいのを我慢しながらライトが照らす道のその奥の暗闇に目を凝らす。

 助手席に座る彼女の名は、二度ほど確認したけれど、アミだったかユミだったかはっきりしないので呼ばずにいる。

 何もかも、嫌になっていた。ような気がする。でなければ、プロとしか性交したことがない僕が、酒の力も借りずに女をナンパするなど考えられない。

 女の子と付き合ったことは一度も無い。だからかどうかはわからないが、金が貯まった。

 その金を、何に使うかはまだ考えていなかった。むしろ使う事そのものよりも、何に使うかを思案している事が僕にとっての幸せだった。



 博多に住むニイナは、今時珍しい親思いの良い子で、ブランド物は嫌いだし酒もたばこも飲まない。僕の職業を他の人みたいに馬鹿にしたりしなかった。

 送ってくれた写真に写っていたニイナは、思っていた通りの人懐こい顔立ちだった。年齢よりも幼く見えて、でもメールのやり取りから、芯のあるしっかりした女の子なんだろうと思った。

 ニイナが困っているというから、僕は最初三十万を振り込んだ。元彼が、手切れ金をよこせと毎日のように家や会社にくるというのだ。

 僕はすぐに博多に飛んで行きたかったが、やはり始めて会う時はお互いの会いたい気持ちが高まってからの方が良いと思ったので我慢した。

 ニイナの元彼はしつこかった。結局僕は、ニイナと元彼の手切れ金百二十万円を肩代わりした。

 それくらい容易かった。すっかり僕を信用し、心を開いてくれたニイナが次に送ってくれたのは、肌の露出の多い写真だった。恥ずかしいけれど僕は、その写真で毎日のように自慰をした。早くニイナに会いたかった。会って抱き締めたかった。ようやくその日が来た。ニイナが会いたいと言ってくれたのだ。

 僕は胸を躍らせながら博多行きの新幹線に乗った。車内では、緊張と期待で喉の奥が切れそうなほど乾燥していた。新幹線の中で、何度もニイナにメールを打った。

 ニイナもその都度返してくれて、唇のアップの写真も添付されていた。

 混んでいた車内で僕はすでに勃起していた。

 約束の博多駅で、携帯電話を握り、鞄で下半身を隠し、唇を何度も舐めながらニイナを探した。人ごみの中で何度も回転し、視線をぐるぐるとせわしなく動かしていたら酔ってしまい、大きな柱の前で座り込んだ。その時携帯電話がメールの受信を知らせ、ニイナから届いたメールの本文には「助けて」とだけ書いてあった。

 警察だ、と僕は思った。直感は別の意味で当たっていたのだけれど、その時の僕は頭の中も勃起していて、天地がさかさまになっていた。「ニイナが大変なんです」と博多駅の交番に駆け込んで、訛りのある警察官に不審がられ、ついには手荷物全てをチェックされ、やっと解放してもらったあと、見計らったように携帯が鳴り、着信のニイナの名前に飛び上りたいような気持で電話に出た僕にどすの効いた声で「金を用意しろ、でなければニイナは殺す」と言った男がつまり、僕がずっとメールのやり取りをしていたニイナつまり犯人だったわけだけども。


 その後僕は博多の銀行で百万、帰ってきてからも二十万を5回に分けて振り込んだ。おかしいと、思わなかったでもない。

 けれどそんな時いつも脳裏によぎるのは、上目使いでキャミソール姿のニイナの赤らんだ顔で。僕は裏切られることはあっても、この子を裏切るまいと、そのたびに強く思った。

「終わったら一緒にラーメンでも食べる?」

いつの間にかまた窓を開け、煙草を吸う彼女が言う。

「あれ、置いていっていいんじゃなかったっけ?」

「殺す気?」

ああそうか、置いて行くのはテレビか。

「どっちでもいい」

「あ、そう」

 県道の青い看板が暗い夜道にぽつんと浮かび上がり、分岐点を知らせる。

 山道に入り一気に視野が狭くなる。

 ヘッドライトが木々と岩壁を交互に照らし、助手席の彼女とこれから心中でもしにいくような、重苦しい雰囲気が車内を覆う。

 ラジオの電波は届かなくなり、霊の仕業かと思うような妙な雑音が聴こえ、僕は慌ててスイッチを切るよう彼女に命じる。

「どこよ」

「だから左上のポッチだよ」

「なにそのポッチって言い方」

「何でもいいからとにかくはやく消せよ」

「なんで怒るの気持ち悪い」

 テレビを捨てたい。そうこの彼女が言わなければ、こんな夜更けに山道を走る必要もなかった。今頃自分の狭いアパートで布団にくるまっていびきでもかいていただろう。

 出発した時には抱いていなかった嫌悪感が、目的地に近付くにつれじわじわと沸いてくる。

 アミだかユミだかわからない彼女は、何度も足を組み換え、体をねじりながら遠心力に負けないよう踏ん張っている。

 そう飛ばしているつもりはなかったが、酔われてはいけないのでスピードを落とす。

「あなた名前なんだったっけ」

 彼女が言い、僕は内心ほっとする。

「失礼だな、きみ」

「あなたの方がよっぽど失礼」

 僕は一度でも間違った名前で呼んだのだろうかと記憶を遡る。

「ねぇ、おしっこしたい」

 少し遠慮がちに彼女が言う。

「嫌だね」

 カーブを曲がると一気に視界が開け、まばゆい光を放つ夜景が一望出来た。

「わお、すごいね」

「すごいな」

 僕は駐車できそうな山側の路肩で車を止め、エンジンを切り、鍵を抜いて外に出る。

 澄んだ夜風に漂う、青臭さが一瞬にして鼻腔を充満させる。

 初夏とはいえ夜中の山は肌寒い。

「用心深いのね」

 車を降りた彼女が後ろから近づいてくる。

 僕は他の車が来ていないか確認し、彼女の手を掴み夜景がよく見える山の斜面と反対側のガードレール際まで駆け寄った。

 夜景を見て目を細めると、涙に滲んだように光が溶け合う。

「おしっこ」

 彼女が言い、僕は繋いでいた手をほどく。

「その辺でしなよ」

 鼻でフンと息を吐いた後、彼女は一人でいま横断した車道をかけぬけ、山側に停めた車の陰で腰を下ろす。

 あのきついジーパンを下ろし、排泄しているのかと思うと覗いてみたい気持ちも無いではなかったが、僕は夜景に視線を戻す。

 ニイナ。

 小さく呼んでみる。

 僕が愛したニイナは、やはりこの夜景の中に身を潜めているのではないか。

 元彼にいたぶられながら、僕の助けを求めているのではないか。

 ニイナ。もう一度呼ぶと、色とりどりの光が川のように思える。そうだ僕らは年に一度しか会えない、ニイナと僕はそういう運命のもとに生まれたんだ、7月の、七夕のあの二人の名は……と思いだしかけた時、テレビのニュースを読む女性キャスターの声が蘇る。報道されていた詐欺事件の手口は、まるで自分がニイナに恋に落ち破局するまでを全て見ていたかのように、出会いから金を振り込むまでの出来事がそっくりで、どこかのモデル事務所の写真を無断転載したものが使われていましたと映された女性の写真は、そのまんまニイナだった。尚、このモデル事務所はホームページで、今回の事件とは無関係であることを発表し、この写真を無断で使用した詐欺団を告訴する方針を固めました。

「湯気がでたよ」

 いつの間にか彼女が後ろに立っている。

「嘘だけど。綺麗だね」

「不潔だよ」

「はぁ?なによそれ」

「こんなとこで小便なんかして、手も洗わずに」

「仕方ないでしょう、だったらトイレのあるところに案内してよ! デリカシーないんだから」

「知らない男と寝る女が何を今さらデリカシーなんて」

「それって、あんたのことよね、知らない男って」

 しね、と小さく言い、僕は車に戻る。

 ニイナはきっと、こんな山中で平気で小便なんかしない。始めて会った男と寝たりなんかしない。

「誘ったのあんたでしょうに」

 彼女が僕の後を追ってすぐに車に戻り、煙草臭い息で深く空気を漏らしながら言う。

 エンジンを掛けたが、随分向こうからハイビームでやってくる車が通り過ぎるのを待つことにした。同い年くらいか、僕より若いかと思っていたが、ハイビームに照らされた彼女の横顔を見るとさっきより老けたように思える。

「どこで捨てるんだよ」

「もっとひと気のないとこよ」

「不法投棄だぞ」

「いまさら」

 車を発進させ、山道を深く進み、あえて舗装されていない獣道を選んでみた。

なんとか進めるくらいの幅の道をゆく僕の軽自動車は、ガタンガタンと派手に揺れる。左右からヤリでもついてくるかのような、鋭い角度の枝が邪魔をする。ピシッ、ピシッと枝が折れる音と、ジャリが跳ね返り車体に当たる音が激しくなる。

 灯りも全く無くなって、車のライトだけになる。

「ここでいい」

 彼女が言う。

 サイドブレーキを引き、ハンドルから手を離すが、僕はライトを切る気になれない。

「消してよ」

「真っ暗になるぞ」

「ならないわよ、月が出てるもん」

 僕は仕方なく、ライトを消す。暗黒の闇。何にも見えない。目を開けているのに閉じているようだ。目をこする。開けているよな? うん、開いている。でも真っ暗だ。そんな自問自答をしていると、彼女ががさごそと動く。

「なにしてんだよ」

「降りるのよ。あなたも降りてよ。テレビ、降ろすの手伝って」

「なんにも見えないじゃないか」

「目が慣れるわよ、すぐに」

 呆れた様子で彼女が言い、葉や枝を踏みつける音がしたと思ったらすぐにドアが閉まる。気配は無いので降りたようだ。すぐに後ろのドアをゴンゴンと叩くので、僕は慌てて後部ドアのロックを解除するボタンを探す。

「一人で降ろせないからはやく」

 苛立つ彼女の声が聴こえ、少しずつ物の輪郭が見えるようになったのでしぶしぶ外に出る。

 彼女が言うように月の明かりで、車内よりも外の方がずっと明るい。すぐに彼女の表情がぼんやりとわかる程度に目は慣れ、テレビを車から降ろすのを手伝った。

「冷たい」

 テレビを支える時に彼女の手に触れると驚いたように言う。

「寒いんだよさっきから」

 彼女が真っ直ぐ押してくるので、僕は必然的に後ろ向きに歩く格好になり、振り返り足元を確認しながら進む。

「よく見えないからあんまり押さないで」

 僕が言うと彼女は歩くスピードを緩めた。

 突然、頭上でバサッと何かが羽ばたく音がし、テレビから手を離しそうになる。

「くっくっく……」

「笑うなよ」

「なに怯えてんのさっきから。怖いの?」

 舌打ちしても彼女は笑い続け、暗闇に笑い声が不気味に響き渡る。

彼女が笑い終わると、遠くからせせらぎが聴こえるような気がした。

「いったんおろして」

 彼女が言い、ゆっくりとテレビを下ろす。

「川か?」

「滝があるのよ、奥に」

「知ってんのか、この辺」

「あそこでいいわ」

 指さした先には、木々に挟まれるように大きな岩がどかりと腰を据えていた。

「あの岩の上?」

「そうよ」

「駄目だろ、バランス悪い」

「どうしてわかるの、やってもないのに。見て。星」

 今度は空を指さす。

 空中を木々が覆っていたかのように思っていたが、頭上にはぽっかりと枝の隙間があり、真っ黒の空に白と黄色とオレンジの点が飛び散らかっている。

 口を開けてしばらく空を見たが、彼女も動く気配が無いので、僕は一か八か、名前を読んでみる。

「ユミ」

「琴でしょう。一等星のあれ。違うの? さ、いこ」

 ちんぷんかんぷんだけれど、とにかくユミではなさそうだ。僕は納得し、テレビを持ち上げようとする彼女の元へ近づく。

「何の話? 今の」

「星座。あなた何の話してたの」

「きみの名前。せーの」

 キィー、と叫び声のような鳴き声がしたが、僕はもうさっきみたいにおびえたりしなかった。

「そっとよ、そっと」

 14型のアナログテレビは、大きな岩の上に鏡餅のミカンのようにちょこんと載った。

 角を押してみたが安定感は予想以上に良かった。

 せせらぎが相変わらず遠くから鼓膜を優しく震わせ、水分を含んだ土の匂いと、若葉の香りが肺深くまで染み込んでくる。全く灯りが無いのに、テレビの画面は月の明かりを吸い込み、うっすらと光っているように見えた。

「どうしてこんなとこに捨てるの」

 言いながら、なぜかこのテレビが可哀そうになる。

「バチが当たるかもしれないよ」

「供養しているのよ」

 彼女はジャンパーのポケットから小さな瓶を出す。

 さっきコンビニで買った酒だ。

 彼女はおもむろに酒の蓋を開け、テレビにかけ始める。

 アルコールの臭いを吸い込むと、やけに空腹を感じる。

 グレーのテレビは濡れた部分の色が濃くなる。泣いているみたいだ。

「親父がさ」

 なぜ僕がこんな話をし始めたのか自分でも理解しがたいが、彼女がテレビに最後の一滴まで酒をかけ、ハンカチで丁寧に拭き、時折姿がみえなくなるくらい時間をかけて野草や小さな花を摘んでまわり、テレビに手向けるあいだ、僕は親父の話を休みなくした。

 親父はテレビが大好きで、新聞はテレビ欄しかほとんど読まず、頼んでもいないのに僕の好きそうな番組は片っぱしから録画して、毎週山のようにVHSテープをくれた。

 観たら返して、そしたらまた上から録画して、親父のミミズが這ったような文字で録画した番組のタイトルが書かれた紙を添えて僕に渡してくる。口をきく事がなくなっても、それは永遠の交換日記のように僕と親父の間で続いた。

「富士の樹海でテレビと一緒に死ぬのが親父の夢だったんだ」

 最後に彼女は静かに手を合わせる。僕も一緒にテレビに向かって手を合わせた。

 合掌し終えると彼女は、今話した僕の話になんの反応もしないまま、背を向け歩きだす。

「ちょっと待てよ」

 僕は彼女の後を追い、すぐ後ろを歩いた。

 もはや灯りなど必要なかった。 

 来た道は木々の枝ぶりや転がっている石ころまでくっきりと見えるほど鮮やかだった。

 朝が来ているのかもしれない。

 車のところまで来て、彼女が振り返り、泣いている事に気付く。

「殺してもいいよ」

 ぎゅう、と心が痛む。

「なに言ってんの?意味わかんないんだけど」

 足がすくんで尿意が襲う。

「死にたかったんじゃないのあんた」

 鼓動がどんどん速くなる。

「死にたかったんでしょう。ついでに誰か殺したかったんじゃないの」

「いやいやいや、なにを」

「あたし死んでも良いって思ってたけど、やっぱやめるから」

 そう言ってからの彼女の動きは実に素早かった。目前にある僕の車の運転席に乗り込み、指したままのキーを回してエンジンをかけ、ヘッドライトが点いたかと思うと土ぼこりを上げながら急アクセルでこちらめがけて発進し、明王を想わせるような見開いた目でこちらを見、ギアをバックに入れる引きつったような音を奏でた後、フロントガラスをこちらに向けたまま走り去った。最後に見えた彼女の首筋だけが僕の目に残像として映る。

 走ることもできなかった。笑いが腹の底から沸いてくる。信じがたい状況に出くわすと人は笑ってしまうのか。恐怖よりも尿意。いや喪意。

 そうかこのまま死んでしまえば。僕はこのまま死んでしまえば、もうニイナの幻の影を追って苦しむこともない。

 母だって、きっとあの世で待っている。

 親父だって、もうあっちの世界にいるのかもしれない。

 僕は、生きていたって一人だ。

 死んだ方が。

 ゆっくりと、無意識に、僕は祀られたテレビの方へ戻っていた。

 僕の憧れを映したテレビ。親父の大好きだった、テレビ。

 始めてチャンネルを回したのは、あれはいつだったろう。ガチャ、ガチャ、と、しっかりと手ごたえのあるチャンネルを捻り、好きな局を選ぶと画面いっぱいに広がる世界は、僕をいつだって遠くのどこかに運んでくれた。寂しい気持ちも悔しい気持ちも、どこかにふっ飛ばしてくれた。僕のテストの点がどんなに悪くても、僕がどんないじめを受けようとも、志望していた高校に入れずとも、就職先が見つからなくても、黒い窓から手招きして僕を癒してくれた。にぎやかな笑い声、澄んだ歌声、何かの宣伝。低音で響く効果音。楽器の音。実際に触れたことのないものや、見たことのない景色。小さな、それでいてその中に秘めているものは想像するのも恐ろしい位広大な、世界のような、宇宙のような、僕の存在を容易く飲みこんでしまうほどの母体が収まっている箱。テレビ。

 だけど僕はあるときから、テレビよりもパソコンの画面の誘惑に勝てなくなった。

 ネットは一方通行なんかじゃない。僕を誘惑する手が画面から何本も伸びてきて、僕の日常生活を腐食していった。僕だけじゃ飽き足らず、僕の全財産まで。

 親父のせいだ。親父が、家を出たからだ。

 親父はいつか、猫みたいに死にたいとも言っていた。猫は死ぬ時、誰にも見られない場所で死ぬんだと。

 親父は親父であり僕の親父ではなかった。

 つまり僕は母の連れ子で、親父とは血縁関係どころか戸籍上なんの関係もなかった。住民票を後日取りに行くと、僕が世帯主になっていた。親父の痕跡はなんにも無かった。

 テレビは先ほどと同じように、岩の上で凛と佇んでいる。

 清められ、祀られて、なんだか神々しいような気もする。

 緩やかな丸みを帯びた画面はやはりうっすらと光っているように思える。

 見上げると星が、地球の周りをぐるりと取り囲んでいた。真っ暗闇にぽっかりと浮かぶ地球。僕が見ているのはその地球を取り囲む、得体の知らない石の塊なのだ。そう思うと急に怖くなる。見上げるのをやめ、テレビに寄りそう。酒の香りがする。このテレビとは、今日始めて会ったのに、他人の気がしない。

 君も一人なんだ、これからずっと。こうして森の中、息をひそめて、時代を眺めるのかい。アナログテレビという存在は、7月24日でゴミになる。けれど彼女は(なぜかこのテレビは女性の気がする)、そんなことちらりとも気にしていない。気高く、生きている。

「なにやってんの人のテレビに」

 僕はテレビを岩ごと抱きしめる。泣きたいなら泣けばいいさ僕の胸で。

「ちょっと、やめてよっ」

 僕の腕をテレビから剥がし、いつの間にか戻ってきていた彼女がテレビを両腕で守ろうとする。

「捨てたくせに」僕は言う。

「はぁ?」

「捨てたくせに」

 戻ってきた彼女を青い月明かりが照らす。目が合った瞬間から、ずっと彼女に親近感があった。誰かに似ているのかも知れないと思いながら居酒屋で飲み、いややっぱり知らないと思いながらホテルに誘い、粘膜をこすりあううちにどうでもよくなっていたけれど、彼女はやっぱり似ていた。

 実家の、テレビの上に、ちょこんと一つだけ載っていた装飾品。親父がどこかの誰かから貰って来た、こけしだ。

 丸い顔を包むおかっぱ頭に寸胴の体。ひと筆書きの目に一滴の口。

 そうだ、君はこけしだよ。

「祀ったんだって、さっき言ったでしょう」

 こけしの彼女は呆れた顔で見ている。

「もうどうでもいいんだ」

「何が」

「死にたい」

「死ねば」

「なんで戻ってきたんだよ」

 テレビに抱きつく僕を引きはがそうとする。爪を立てられて痛い。足元のじゃりがはしゃいだように鳴る。

「あんたの車。私犯罪者になる。盗むつもりないの、衝動的に運転したくなったのよ」

「バックで?」

「悪い?」

 彼女は傍らに腰かける。

 僕は震えている。やたら寒い。寒さで歯がカタカタと鳴る。

 さっきまで平気だったのに。

 テレビが暖かく感じる。

「車にもどろうよ」

 肩を包みこまれ、鼻の奥がぐっと熱くなる。

 静かに頷いてテレビから手を離す。


 資源には限りがあるんだ。

 アナログテレビが終わってしまうのも、つまりそう言うことなんだよ。

 電波の通り道が無くなってしまうから、だから地上波に切り替えた。違う道を歩むことにしたのさ。勇気があるよ、そうやって違う道を選べる人は。母さんもそうだ。

 母さんは新しい男と新しい道を歩むために、僕たちを捨てた。時代がアナログを捨てて、地デジに切り替えるように。

「あんたなんてちっとも可哀そうじゃないわ」

 車に戻り、エンジンをかけずに話す僕の言葉を彼女は遮る。

「同情の余地が無いわ。親に捨てられた? はぁ?って感じ。ちゅうちゅう吸うさ、あれ、なんだっけ、赤ちゃんが吸うやつ。乳首みたいなの。あれでもくわえとけば?」

 ははは、と乾いた笑い声をあげる。腕を伸ばして助手席からエンジンをかけようとする彼女の腕が僕の足に触れる。

「煙草吸いたいの。かけて、エンジン。窓開けずに吸うわよ」

 エンジンをかけ、白々と明け始めた朝のなか、僕はゆっくりと車を発進する。

 前しか今は見えないけれど、後ろには道がある。

 僕たちが選んだはずの道が、うしろへうしろへと伸びていく。

「死んだらどうなっちゃうんだろう」

 高速に乗り、体の震えもとうに収まり温まった手のひらで、ハンドルを握りながら訊く。

 彼女は返事をせず、見なくとも気配と寝息で寝ていることが分かり、諦める。

 死んでもきっと、同じ世界があるんじゃないかと僕は思う。

 水面に映る景色のように、すっぽりと同じような世界が反転して、あちらにある。

 その世界で母や、おそらく父や、葬られたテレビが、営みを続ける。

 生きてこちらで感じていた悩みや憂い、喜びまでもがおなじように訪れ、ああでもないこうでもないとあがいて。

「死んだら終わりよ。なあんにもない。なんにもなさ過ぎて、生きている私達には想像すらできないような世界」

 寝ていたと思っていた彼女が唐突に、擦れた声で言う。

 高速の分岐を示す看板が見える。

「どこへ帰ればいいんだっけ?」

 僕は訊く。

「どこへでも。どこへでも行けるわ。わたしたち、生きているんだから」

 答えにならない彼女の声を聞いて、僕はなぜだか笑えてくる。

 泣く時と同じように喉を振動させて、いまだ名前のはっきりしない彼女の台詞を笑ってやる。


 



※※※





テレビの中心に線が現れ、わたしひとりだけすべての世界との交信が途絶えたかのように、画面が真っ黒になった。

 数秒暗い画面に映る自分の姿を眺めていたけれど、テレビは無言のままだ。

 コンセントを挿し直し、側部を叩き、上部を殴り、灰皿を投げつけ、吸いがらが散らばり、灰の中で燻っている小さな火種が畳みを焦がすのを見て泣いた。

 新しいテレビを買おう。

 そう思って外へ出たはずなのに、わたしはなにも持っていなかった。

 携帯すら持たず、裸足に近いサンダルで夜の繁華街にいた。もう少し歩けば大きな電気量販店がある。

 けれど一銭も持たずに何を買おうというのだ。

 ぴったり肌に張り付いたTシャツから自分の汗の臭いがする。

 もう何も考えられない。

 交差点で車の流れを目で追っていたら、男が声を掛けてきた。

 青白い顔で、魂の抜けたような声で、飲みに行きませんかと言う。

 この人は、もうじき死ぬな。

 そう思った。

 近くのファーストフード店から揚げ物の匂いが流れてきて、急に空腹を感じた。

 わたしが誘いに応じたので男は驚いていた。

 地下にある居酒屋は冷房がやたらと効いていて、足の先が冷えた。

 注文以外はなにも話さず、男はうつむいている。

 だらしない着こなしだけれど生地は上質そうなシャツとスラックス。丁寧に刈り込まれた耳のまわりに汗が伝っている。

 飲みに行こうと言ったくせに、男は炭酸のソフトドリンクを飲み、煙草も吸わず、出てきた料理に手を出さない。

 わたしは一人ビールを飲み、チュウハイをおかわりし、串焼きの盛り合わせや刺身を一人平らげた。

 何のためにわたしに声を掛けたのかわからない。気味が悪い。

「なにか悩みごとでも?」

 わたしが訊くと、男は初めて顔を上げ、その体の中に溜めているすべての黒い塊を吐き出したくてたまらない顔をした。

「食べないの?」

男はまた黙って下を向く。

追加注文するために店員を探すふりをして男の尻を見る。

スラックスの後ろポケットには、黒い財布が入っている。大丈夫、金は持っていそうだ。そんなことを考えながら、わたしは梅酒サワーを注文する。


 ホテルへは、わたしが誘った。

 男はわたしが飲みに行く誘いに応じたときの何倍も驚いていたが、拒まなかった。

 男はこういったホテルには初めて入るようだった。

 わたしが先に入り、パネルのボタンを押し、キーを取りエレベーターのボタンを押し、部屋のドアを開けてやった。

 おそるおそるわたしの後をついてくる男は、わたしよりも背が高かった。背が高いくせに小動物のような動きをし、小さな目でキョロキョロと不安そうに部屋を見回す。

 部屋に入ってから、とうとう何も話さないまま黙ってベッドに二人で腰かけ、ついばむようなキスをし、互いに服を脱いだ。

男は初めてではなさそうだった。けれど慣れてはいない。

 慣れていない人とするのは新鮮だった。

 男は遠慮がちに、でも優しくわたしと交わった。

 終わってからも、男はあまり話さない。 

 ベッドに腰掛けて煙草を吸うわたしをちらちらと盗むように見ている。

「テレビを捨てたいの」

 わたしが言うと、男はシーツをくしゃっと胸元へ引き寄せて頷き、「いいよ」と答えた。

 わたしは処女を奪った男のような気持ちになった。

 男の車でわたしの自宅へ戻り、テレビを運ぶうち、少しずつ話すようになった。

 拗ねた子供のような話し方で、時々えらそうに口答えする。

 男の車に乗って山道を走っていても、何も怖くなかった。

 例えばこのまま殺されて、山の中に捨てられることだってあり得る。でもこの男は絶対にそんなことはしない。そんな確信があった。

 万一殺されたって構わない。

 怖いのは死より生だ。

 明日はわたしの誕生日である。

 明日といってももう、あと数分後。

 わたしはわたしが死ぬ代わりに、このテレビを葬ろうと思った。

 母が産んだわたしは、このテレビになりかわって死ぬ。

 そして新しいわたしになる。二度と母のものにはならない。

 そういえば、この男の名前を聞いていない。気になって訊いてみたが曖昧な返事しか返ってこなかった。ほんとは名前なんてどうでもいい。自分の名前だって。体すらも。

 信じられるものなんて、この世にはもうない。

 車を停め、怖がる男と共に木々の間をぬって山の奥にテレビを運ぶ。滑稽だ。笑えてくる。男は大人しくわたしの指示に従う。

 たまたま見つけた岩の上にテレビを置くと、無機質なものがすっと森に馴染んだように思えた。買ってきた酒をかけ、母が産んだ今までのわたしを弔う。

 このテレビはもう一人の母でもある。母がテレビに子守りをさせたからだ。わたしは幼かった頃、ずっとテレビと二人きりだった。朝起きてテレビを観て、学校から帰るとすぐテレビをつけ、一人で食事しながら観た。眠るときも、わたしはテレビを消さなかった。  

 大人になり、一人で暮くらすことになったとき母は、このテレビを譲ってくれた。テレビはわたしに色々な物を見せてはくれるが、わたしのことを見てはくれなかった。わたしが何を欲しがり、何を好きで、何に傷つくのか、知ろうともしてくれない。

 母はそれ以上に、わたしを知ろうとしなかった。

 若くしてわたしを産んだ母は、化粧品を扱う仕事柄、派手な身なりで、整形した目はくっきりとした二重で、わたしとは似ていない。

 わたしの付き合っていた彼が、母に興味を持つのにそう時間は掛からなかった。 三人で食事に行ったとき、彼が見せた母への甘えた態度を思い出す。わたしが幼児の時に吸っていた母の乳房に彼が吸いついたのだと思うと狂いそうになる。

 何を思ったのか、花をつんで岩の上のテレビに手向けるわたしに向かって男が、自分の父の話をし始める。

 愛されていたらしい過去を、延々と。

 わたしは無視してテレビを丁寧に拭いた。


 母と彼との関係が分かり、わたしは土下座する彼に「死んでくれ」と包丁を渡した。

 彼は死になどしなかった。代わりに警察に電話をしようとした。

 付き合っている女の母親と寝ることは犯罪ではないのに、彼を母に寝とられたわたしのやることは犯罪だと彼は言った。

 何かあったら一緒に死ねると彼は常々言っていたのに。

 弱虫ほど死を美化したがる。死を恐れているからだ。

 ほんとうは、死よりも生のほうが恐ろしいのに。

 生きるということは味わうということだ。あらゆる悲しみ、憎しみ、怒りを。ありのまま、拭うまもなく永遠に、この命が尽きるまで。


「僕も一緒に富士の樹海で眠れたらよかったのかもしれない」

 テレビに手を合わせ、歩きだすわたしに向かって男が言う。

 意気地もないくせに。実際に樹海なんかに行ったって、怖気づいて泣くしかできないくせに。髪を撫で、怖くないよママがいるからと乳房で顔を包んでほしいだけなのだ。甘えた声で、欲して、それは、わたしの、母なのに。

 わたしは無性に腹が立ち、無我夢中で男の車に乗り込んだ。男が首に筋を浮かべ全身を硬直させこちらを見た。

 一度前進し、その後バックで一気に加速した。

 後輪が轍にはまり、車が傾きブレーキを踏む。

 シーンと静まりかえり、ライトを消す。自分の鼓動だけ激しく打っている。泣きたいのに乾いた笑いが腹の底からお押し寄せる。

 あははは、わたしは寂しい。一人になどなりたくない。テレビのない部屋に戻るなんて考えられない。テレビが無いというのは、なんて心細いのだ。人の声が聴きたい。誰でもいい。誰かの声。わたしの気持ちなど無視してくれていい。わたしの姿など見なくても。わたしをこれっぽっちも知ってくれなくとも、傍にいていろんなものを見せてほしい。騒がしく、人の気配を流して欲しい。

 ギアをドライブに入れゆっくりとアクセルを踏むと車は前へ進んだ。元の場所までもどり車を停めると、男はいなくなっていた。

 テレビを祀った場所で、男は佇んでいた。わたしが捨てたテレビに抱きつき、母を求めるように、母体に帰りたがる胎児のように、テレビにすがりつき泣いている男を見ていると、哀れに思えた。あなたは本当は知っている。そこに神など宿らないことを。そこにあるのはテレビだ。ただの、他人のアナログテレビ。

 悲しみをただ、ここへ葬りたいだけなのだ。それはわたしも同じ。

 あなたはわたしの名前を知りたがった。知ろうとしてくれた。

 あなたは、わたしと交わることができたじゃないか。わたしの体を大切に扱い、慎重に、知ろうとした。

死にたかったのはわたしだった。なのにあなたと肌を合わせたら、死ぬ気が失せた。どうしてだろう。

 わたしは気がつくと男の肩を抱き、一緒に戻ろうと言っていた。

 暗闇の中、山道を下る。男の丁寧な運転で睡魔が襲う。

 この男といると不思議と安らぐ。横顔が、誰かに似ている。でも思い出せない。わたしがからかうと男はまた拗ねたように応じる。

 朝焼けに目を閉じると、死んだらどうなるんだろうと男が問う。

 あなたを死なせはしないと、なぜかわたしは思う。

「あなたの家に帰ろうか」

 寝言のように囁くと、男はいいよと答える。

「あなたの家、テレビある?」

「あるよ」

「地デジに対応している?」

 名も知らぬ男の返事を訊く前に、わたしは眠りに落ちる。


     







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テレビを抱いて杜へ逝け 楓 双葉 @kaede_futaba

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