第6話 文化の侵蝕

たった一杯の珈琲で人は打ち解けることもある。


沙希と長瀬は、珈琲メイクテーブルで豆の引き方からして話し合っている。


長瀬は、筋肉質で骨太の丸い大きな身体だ、それを折り曲げて小さくし、体も年齢も自分の半分程の沙希に教えを乞うている。


「女子力ですかね?」

と瀬下が笑った。


「そんなものじゃありません。彼女は立派な文化を身に付けています」

と伊藤老人は、言った。


確かに沙希の所作の美しさは、完璧な文化の習得に基づいている。

それが、人を引き付ける魅力である。


昨日知り合ったばかりの女性にこれだけの力が秘められていることを知らされても、瀬下に驚きは無かった。


「本題に入りましょうか」と伊藤老人は言った。


「エリック・サガンに付いて詳しく教えて頂けませんか。どんな些細なことでもお願いいたします。それと何故、あの本が禁書にされ社会から排他されたのかを」


伊藤老人は、淡々と話し始めた。


伊藤老人とサガンは、フランス国立大で同僚であった。


サガンは人文学者であり小説家でもあった。


サガンには、イレーヌいう二回りも年上の妻がいた。

イレーヌは、著名な画家でサガンに多大な影響を与えた。


「才能が有り人間的にも素晴らしい人だった」と伊藤老人は彼女を称賛した。

サガンの小説家としての成功は、エレーヌの貢献によるところが大きいと伊藤老人はは分析していた。


サガンは、非常にハンサムな男で背が高く女性に人気があった。

中年の男盛りのサガンと60を超えたイレーヌでは夫婦として違和感があったが、サガンは真面目で夫婦仲は良好に見えた。


「それがね・・・、」

伊藤老人の口調が変わった。


「突然、二人は別れましてね」

「そして、その頃からサガンが『不可解な違和感を社会に感じる』と言い始めたのですよ」

「些細な人の行動や社会から称賛される文学や芸術にイライラすると」


「サガンは学者でもありますが、本業は小説家ですからね、創作と離婚のストレスじゃないかと云ったんですが、『そうじゃない・・・頭の中で処理しきれない不快なものが存在している』と言っていました」


「・・・モヤモヤした感じ・・・ですかね?」と、瀬下は訊いた。


「・・・そんな感じだったのかもしれませんね・・・、そう、モヤモヤと定義しましょうか、今の私にもその感情がありますから」


「綺麗な水に墨汁を一滴ずつ垂らしてゆくと、最初は変化が見られないのですが、ある境目の一滴で黒く変色する、そうなるときれいな水でしか生きられない魚は死に、それに耐えうる魚だけが残るります。」


「その水質の異変を、魚、サガンが感じたのですか?」


「そう、サガンは、自分と周りとの社会的価値観の相違に気付き、それがモヤモヤの原因と判断したのです」


「魚にとっての水は、人間とっての文化ともいえます。文化に馴染めなければ人は社会生活ができません」


「サガンは、何者かに人類の文化が改竄、捏造されるといった侵蝕が行われていると主張していました」


「つまり、何者かが文化という池に墨を垂らしている?いち早く異変を感じた魚がモヤモヤとしている」


「そう、人の価値感を変える墨が文化を塗りつぶしている警告していたのです」


「そして、その警鐘として『宇宙から来た獣人』を執筆したのです」


「その文化を歪曲する何者かを宇宙人に見立てたのですね?」


「・・・」

伊藤老人は目線を逸らして沈黙した。


「違うのか」

と瀬下は思った。


「サガンが映画や小説で描きたかったのは何か、ご自分で解明してください」


伊藤老人は長瀬を呼び、「あれを」と云った。

長瀬は一瞬戸惑ったが、一礼して指示に従った。


暫らくして、『宇宙から来た獣人』の原稿と映画のビデオを持ってきた。


「これは、翻訳を依頼された時の原稿、そしてビデオは日本公開版です」

「本は禁書、映画は上映禁止にされ本もビデオも警察に没収されました。残っているのはこれだけです。貴方にこれをお預けしましょう。どう使おうと貴方の自由です」


「サガンが命を賭して訴えたかった、警鐘を鳴らしたことの真実が貴方に判るなら、託したいことがあります」


「禁書にされ、サガンが社会から疎外された理由がこれらの中に有るというのですか?」


「答えを焦らずに、また、来てください。その時に貴方が映画の新実に辿り着いているなら総てをお話ししましょう」



サガンは、瀬下と同じモヤモヤを抱えていた。


何者かに文化は、改竄、歪曲、捏造されている。

それ故、一部の人間に不可解なモヤモヤが発生している。


サガンが宇宙人で比喩した文化を浸蝕するものの正体、それを突き止めなければならないと瀬下は思った。


一頻りの瀬下と伊藤老人の要件が済んだ。


沙希はその時を待っていたのか

「長瀬さん、こんなに大きな段ボール箱、何処から入れたのですか?」

と訊いた。


長瀬は突拍子もない質問にビックリした顔をしたが、直ぐに笑い顔に成った。


「秘密の扉が有るのですよ、今度、教えてあげますね」


「入室した時から気になって、探していたんですよ」


瀬下は、沙希の無邪気さに呆れたが、伊藤老人と長瀬は笑っていた。



瀬下と沙希は、欧文学史書店を後にした。


長瀬がぽつりと言った。


「可愛いお嬢さんですね、できればあの子を巻き込みたくないのですが・・・」


「もう、全ての人類が巻き込前ている、だが何も知らずに一生を送った方があのは幸せかもしれないね」


長瀬は静かに頷いた。


伊藤老人は心の中で思った。

セトには悪いが爆弾として使わせてもらうよ、我々の力だけでは、サガン資料を守ることすら危うくなった。新たな力が必要だ』



帰り道、沙希は車を飛ばしていた。


瀬下が早く帰りたがっているのを察しているのだろう。


長瀬は、買って貰ったプレゼントを早く開けたくてウズウズしている子供の様だ。


「沙希、ホントに秘密扉があると信じているの?」


「あの部屋の何処かにあるんでしょ、本棚の後ろとかに・・・、本を倒すとガ―と開いたりする・・・」


「それで、本を落としたの」


「あっ、はい、・・・」


「早希、段ボール箱て、折り畳めること知ってる」


「・・・はい」


流石に沙希も気づいた。

「まさか、中で組み立てて、後で荷物を入れたの?」


「そうに、決まってるじゃん」


「酷い、それで、長瀬のオジサンは笑っていたのね」


少々膨れている沙希の横顔を見て瀬下はふと気づいた。


彫の深い顔、白い肌


「早希、君、ひょっとしてハーフ?」


沙希は真顔で振り向いた。


「今頃気付いたの」




 

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