第4話 欧文学史書店

沙希の車は、左ハンドル、マニュアルシフトである。

普通の女性ならこんな面倒な車は乗らない。


「何故、マニュアルシフトを?」と訊くまでも無い、沙希はギヤチェンジからの加速音を楽しんでいる。


シトロエン・マスタードイエローのコンパクトカーは、沙希にお似合いである。


日曜で道路も空いてた。

1時間と掛からず、神保町に着いた。



神保町靖国通り裏、古びた二階建ての小さなビルに目的の「欧文学史書店」があった。


神保町の通いは専らの瀬下でも、この店は初めてだった。


表にこれといった看板もない。

小さな表札がドアの横に掛けられているだけだった。


通りからは、とても本屋だとは思えない。


カラン、カランとウェルカムチャイムを鳴らして中に入った。


古い洋書の臭いが充満している。

小さな古本屋だが、西洋文学書が充実しているように思えた。

綺麗に本の仕分けができている、瀬下は好い印象を持った。


ガタイの良い中年男が待ち構えていた。

白いワイシャツの袖を肘まで捲り上げ、丸い大きな目で瀬下を見据えて会釈した。


「瀬下先生でいらっしゃいますか?」


「はい」


「お待ちしておりました」


男は、天井まで届く大きな本棚の後ろに隠れているドアから二人を裏部屋に案内した。


裏部屋にもドアの前に大きな本棚があった。


入って直ぐには部屋の全貌が見えない仕組みにしているのだろう。


部屋は意外に広かった。


書籍の数は店舗よりも多い。


どうやって運び込んだか分からないが、ドアよりも幅が広い大きな段ボール箱が幾つも積み重ねられている。


倉庫兼事務室なのかもしれない、でも書籍の並べ方や資料らしきものの納め方は研究室である。


多少乱雑な面もあるが知的な空間である、ここの住人の知性をうかがい知ることが出来ると瀬下は思った。


窓辺の応接セットに老人が静かに座っていた。


「先生、瀬下先生がお見えに成りました」

と案内してきた男が言った。


老人は杖を突いて立ち上がり、頭を下げた。


ようこそ、こちらへどうぞ、と長椅子を勧める仕草をした。


老人は、伊藤悠吾イトウユウゴ、案内してきた男は、長瀬義也ナガセヨシナリと名乗った。


初対面の形式的な挨拶を済ませた後、瀬下は老人に問うた。


「仏文学者の伊藤先生でいらっしゃいますよね?」

老人は、静かに頷いた。


伊藤悠吾は、仏文学及び欧州歴史学者で著書も多数ある。


「著書は幾つか読ませていただきました。まさか先生にお会いできるとは思ってもいませんでした。

先生があの『宇宙から来た獣人』を配給なさっておられたのですね」


老人は、また静かに頷いた。


瀬下はバックパックから「宇宙から来た獣人」の翻訳本を取り出した。


「先生が翻訳なさったこの本を昨日購入しました。此処に記載されている出版社も先生にも連絡先が取れずに困っておりました」


「大学は疾うに退職したし、その出版社は廃業したからね、…無理もないですよ、20年ほど前の本ですから」


瀬下は「宇宙から来た獣人」が何故社会から排斥されたか、その疑問を説く為にここへ来たことを伊藤に説明した。


伊藤老人は黙って聞いていた。


長瀬義也は伊藤老人の隣に座り、瀬下を警戒していた。


沙希は、自由に部屋の中をうろつき回り、書物を物色していた。


長瀬は時折、沙希の行動が気になるらしく、瀬下を監視する注意を削がれることに苛立っていた。


「何か、見つかると不味い物でもあるのか?」と瀬下は思った。


伊藤老人は、質問に短く答えるが自分から語ろうとはしなかった。


バタンと大きな音がした。


沙希が本を落とした。


「ごめんなさい」

沙希が本棚の所で恐縮していた。

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