5-10 帰還

 二月二日(木曜日)大安————。


 遂に、待ちに待った日が来た。


 工業団地運営事務局の手で真水で徹底的に洗い流され、消毒薬が散布された工業団地内は、被災前の姿に戻っていた。

 完全に、ではないことは致し方ないであろう。所々にまだの来襲の傷跡は残っていた。


 工場建屋の前面壁にはくっきりと冠水の跡が残っていた。今月中に再塗装すると彼らは約束しているが、しばらくそのまま残しておいてくれても、とも思った。


 工場建屋内はパーテーションも全て再施行しているので、傷跡はどこにも見当たらないが、今後も、同じような規模の洪水に見舞われることがあると想定して、電気コンセントや配電盤の位置を地面から1.5mほどの高さに再施行させた。強いて言えばその「1.5m」が傷跡と言えるかもしれない


 午前中で機械の移設全てが終わり、昼からは各々のセクションに分かれて清掃と備品整備に掛かった。

 現場では機械の結線と微調整が進み、夕方には全機の稼働が確認出来た。自家発電機の轟音が一日中鳴り響いていたあの現場と違い、なんとも静かで、エアコンが効いている室内は快適そのものだった。

 従業員も皆嬉しそうであった。

 自分の担当する機械を念入りに磨き上げるもの、エアコンの前で涼みながら談笑するもの、自分のデスクの上を綺麗に雑巾掛けし国王陛下の写真を飾るもの——みんな、ここに帰ってこれたことを喜んでいた。


 昼過ぎに「マテックス」社の小林MDがドーナツの差し入れを持ってやって来てくれた。


 ——やっと……ですね

 ——ええ、やっと、です。やっと帰ってこれました


 平田は小林とがっちり握手をして感慨に耽った。


 この日は夕方四時で作業を終え、明日から本格的に生産を再開することにした。

 、コックリートブロックを積み上げた入り口シャッターの前で平田は西の地平線に沈む南国の太陽を眺めていた。


 平田は、此処タイで見る夕陽が好きだ——。


 夕暮れ時は物悲しいもので、いっそのこと早く夜の帳を降ろせばいいのにと、よく日本に居た時は思った。人々を照らす陽の光は強ければ強いほど、嬉しく気分が塞ぐこともない。だから、平田は秋や冬の季節が嫌いであった。

 タイに赴任することに抵抗がなかったのは、そのことが少なからぬ理由の一つだったかもしれないと、威勢衰えぬ、濃橙色の夕陽を眺めながら思った。


 

 いつしか、前原と大代も平田の横に立って、それを眺めていた。


 ——二人とも、ほんとうにご苦労さんっ。君らが居てくれたからこそ、今こうして此処に帰ってこれたようなもんだ

 ——いえいえ、社長の判断と決断にただ後ろから、ひょこひょこと付いて行っただけです


 前原も大代も、心なしか面構えが逞しくなっていた。


 ——大代くんは、今回の経験をどう思う?

 ——あぁ……、自分は、タイ人の嫁をもらってただ日々、淡々とここタイで生きて来た気がします。ですが、この数ヶ月の間で私の中で何かが蘇った気がするんですよね

 ——ほぉー、なにか、ってなんだろう?

 ——ん……はっきり、これだとは言えないのですが、俺ってやっぱり日本人だったんだ……ですかね

 ——ああ、あるある、それは僕も同感ですよ!


 前原が大代に賛同してみせた。

 ——なんていうのか、ご先祖さまから受け継いだ日本人のDNAが活性化された感じで、苦しかったんですが、確かに生きている実感がしました。H社の惨状を見たときは、さすがに泣けましたね……。

 ですから、自分の会社はなんとしても、生き残って、復活させてやるぞ、って思いました

 

 ——私もですよ、ほんとうに、いろんなことがありましたけど、いまこうして振り返ってみるとすっごく貴重な経験をさせてもらったって感じです。それにこの大洪水が無ければ、ミズキと結婚していたかどうかも、わかりませんし……、なんか、目に見えない運命みたいな力が働いたような気がします


 ——そうだな。大代くんが言うように、あっちこっちで日本人魂と根性を見せつけられたよ。

 終戦のあの日から見事復活して、今俺たちの様に世界のいたる所で「日の丸」を打ち立てていられるのも、先人の力だよな。

——タイ人の前では言えないですけど、やっぱり日本人は凄いなって思いました


——ん。それと、前原くんが言うように、俺も言葉では言い尽くせない“見えざる力”の存在を感じずにはおれんかったな。人の個の力なんてほんとうに、ちっぽけなもんだとも思い知らされたし


 ——“見えざる力” ですか……

 ——うん。例えば、絶対的な力を持つ“神”の存在かな。神は克服できない試練を人には与えない、とかって言うけど、あれは嘘だな。俺はいま、そう思うよ。神はまったくもって冷酷な天地創造のあるじだよ


 ——えっ!? けど、社長は見事に克服されたじゃないですか?


 前原のその問いに、大代も大きく頷いている。

 平田は、ゆっくり首を振って、それを否定した。


 ——確かに、俺たちは生き残った。しかし、試練を与えられる前に命を奪われた人たちは、どう説明すりゃいいんだ? この大洪水で亡くなった人はすでに数百人に上るって言うじゃないか。神は等しく人に克服できる試練を与えるんじゃないのか? 神は全くもって不平等じゃないか! 試練を与える前に殺してどうすんだよ!


 平田はつい熱くなってしまった自分を鎮めるように、煙草を一本咥えた。

 ——それは……、にしか、試練を与えないんじゃないんでしょうか、等しくじゃなく、神様は選んでるんですよ

 ——うん、だとすれば、神は弱者をむざむざと切り捨てるんだな? 強いものだけが生き残れと


 静かに冷たく言い放つ平田のその言葉に、二人は二の句を継げられずにいた。

 平田は、ふぅーっと大きく紫煙を吐き出すと、意図したように相好をくずして二人に向き直った。


 ——ああ、すまんすまん。せっかく首尾よく此処に帰ってこれた目出度い日に水を差すようなこと言ってしまったな。この話は、また時間が経てば答えが見つかるかもしれん、俺なりにゆっくり考えるよ


 ——でも……、今の社長のお話、帰ってミズキにもしてみます。考える意味っていうか、考えなきゃいけないことだと思うんです

 日本でも、昨年、大震災で沢山の命が奪われてますからね。


 ——ええ、私もタイ人の考え方を嫁に尋ねてみます。信心深いタイ人には、そういう運命めいたことをどう捉えてるんだろ、って。輪廻転生で救われるだよ、って言うかもしれませんけどね あはははっ


 

 ——うん。さってと、また明日から忙しい日常が始まるなっ。頼むぞっ、二人ともっ!


 被災の日以来、剃ることのなかった無精髭が、平田を屈強な武士もののふに変えていたが、決してそれだけの理由ではない。


一つえたことで得たもが、人を変えるということはきっとあるに違いない———。


 南国の太陽は、その半身を地平線に隠そうとしている。

 三人のの影は長い尾を引いて、タイの大地に伸びていた。




 こうして、彼らの戦いは、終わった————。





            最終章「克て! 最後の試練」  了


 


 

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