5-8 除夜

 それから二、三日が経った、十二月の初頭—————。


 平田の携帯電話に日本から国際電話が入った。


 ——もしもし、平田ですが

 ——おお、平田さん? 俺だ、影山だ

 ——あっ、影山重役っ! この度は……


 平田が日本本社の失態を詫びようとするのを制するように影山は言葉を繋いだ。

 ——いやぁ、参ったよ、あれは君の差し金だろ?

 ——えっ?


 影山が言うには、名古屋市内の割烹で業界人の懇親会があって、ほろ酔い気分で家に帰ったら家の前で熊田と飯山が待ち受けていて、いきなり玄関前で土下座された——、ということだった。


 ——あ、いや、私は……

 ——飯山くんはよくやって呉れるが、まだ社長を担ぎ出して土下座させるような胆力も根性もないだろう。そんなことを熊田社長にさせるのは君くらいなもんだからな、違うか?

 ——恐れ入ります、影山重役

 ——まっ、今回は熊田社長の顔、いや土下座に免じて、目を瞑るが、もう次はないぞ、と飯山くんには脅しをかけておいたがな、がははははっ


 平田は、久しぶりに影山の豪胆な笑い声を聞いた。


 ——重役、どうか飯山を鍛えてやってください。彼は私の後を継ぐ人材なんです

 ——ん、まぁー、彼も君の後任というのはたいへんだろうけどな。ところで、正月は帰れるのかね?

 ——いや、今年は帰れそうにありません……


 影山は、平田の工場が大洪水に被災した話を鈴木MDから聞いていたらしく、親身に心配してくれた。


 ——まっ、来年の春にはまたゴルフしに帰ってこいよ

 ——はい、ありがとうございます。必ず春にはご挨拶に伺いますので


 影山はビジネスには厳しい男であったが、「誠意」というものが分かる男であった。土下座することが「誠意」なのかは別として、真摯に相手に向き合う姿勢を大事にする男で、平田は長い付き合いの中で何度もそのことの大切さを影山から教え込まれていたのだった。


 人と人が「信頼」で繋がるには、常に真摯な態度で向き合わねばいかん——、というのが影山の口癖であった。


 平田は、携帯電話のディスプレイに向かって黙礼をし、通話を切った。


 それから、嘘のように日々が続いた。

 従業員を送迎するマイクロバスも必要がなくなった。皆、元居たアパートに戻りたがったので全て引き払うことにしたのだ。やっと普通の生産活動ができる環境になった。


 元の工場の水も十二月の半ばですべて引けて、工業団地の事務局が主導する団地の「復興計画」も提示され、早ければ来年の一月の末には戻れそうであった。

 それに合わせて、冠水した工場建屋内の補修と配電盤の再整備など手を加えねばならない工事の打ち合わせに時間が過ぎていった。


 やがてバンコクの街並みからクリスマスソングも聞かれなくなって、年の瀬も押し詰まった十二月二十九日——、前原がミズキを伴って日本に一時帰国する日が来た。


 ——社長、少し留守にしますが、後、よろしくお願いします。四日には帰ってきますんで

 ——ん、さほどゆっくりもできんだろうが良い正月をな。それよりも、“失敗”するんじゃないぞっ! 君がミズキさんを連れてこっちに戻るのを期待してるよ

 ——はい、必ずOKもらってきますからっ!

 ——ミズキさん、本当にありがとう、貴女が来てくれて、どんなに助かったことか……

 ——いえ、そんなー、また来年からよろしくお願いします。きっと健二さんと一緒に戻ってきますから


「スワンナプーム」国際空港で二人を見送ったその帰路、平田は、五十年以上の人生で、初めて正月を日本以外の地で迎えることの違和感と望郷の念に襲われていた。


 年越し蕎麦と、雑煮くらいは作るか——。


 夜空に消えていくジェット機の機影を車窓越しに見送りながら、南国で食う正月の雑煮の味はどんなものかと思いつつ、シートに背を付け眠りについた。


 大晦日はNHKの海外衛星放送版の「紅白歌合戦」を見ながら、一人“年越しそば”を啜った。

 やはり、熱い蕎麦も雑煮も寒い冬に食うもんだと思った。


 日本とタイには二時間の時差がある。

 やがて、「ゆく年、来る年」に画面が変わり、東北地方のどこかの寺が雪に埋もれた映像が映し出され、しばしして「除夜の鐘」が突かれはじめた。


 その梵鐘の音を聴くうちに、この二ヶ月の間に自分の身に降りかかった「試練」の数々が色のない写真となって去来スライドしていた。


 テレビ画面の右隅のデジタル時計が【0:00】に変わった。ここタイではまだ午後十時だが、平田は一人呟いた。


 あけまして、おめでとう————。


 ——(もう、今年は勘弁してくださいよ、神様……)


 数々の「試練」を乗り越えてきた平田であったが、不思議と何の感慨も湧いて来なかった。

 ——過ぎ去ってみれば……か


 ふーっと、煙草の紫煙を吐いて、シンハービールを一口煽った。

 誰におめでとう、と言えるわけでもなく、空になったアルミ缶が三つになった頃、酔いで薄っすら遠のく意識の端で、NEW YEARを祝う花火がバンコクの夜空を華やかに染め弾ける音が聴えた。


 激動の2011年が終わった————。


 

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