ゼリーを泳ぐ魚

@hayamiyaa

人もいない海

これじゃあわたし、まるで滅びに向かっているみたいよ。


いつからこんなことになったのでしょうか? わたしの人生、どこで躓いたのでしょうか。むしろ、はじめからなにもかもダメだったのでしょうか。間違いはあの会社に就職したこと? それとも、そこであの人と知り合って結婚したこと? 結婚してすぐに子どもを授かったこと? いや、違う。あの人はなにも悪くない。子どもだって。でも、わたし、気づいたら彼のことを殺していたんです。


赤ちゃんが泣いていたの。

苦しそうに泣いていたから泣き止ませなきゃ、って思ったの。わたし、髪もろくにとかさずに起き上がって、夜の三時に赤ちゃんをあやしていた。夜泣きのせいで毎日ほとんど寝れていなくて、明日も仕事に行かなきゃいけないのにと思うと本当につらかった。おっぱいがほしいのかなと思って、作り置きしておいたミルクをとりにいって口まで持って行ってあげたけどぜんぜん飲もうとしない。むしろ泣くばかりで。じゃあおむつ? と脱がしても、おしっこひとつしていない。どこか体が悪いのかな、熱があるのかな、と不安になってわたしはおろおろ泣きそうになりながらひたすらその子を抱きつづけていました。

その人はわたしのとなりで平気な顔をして笑っていました。あやし方が悪いんじゃないの。ほら、母親がそんな顔であやしてたらさ、怖いでしょ。もっと肩の力を抜いてさ。かしてごらん。

彼はわたしから赤ちゃんを離すと、自分のおおきな腕に包み込み、鼻歌を唄いはじめました。彼の歌を聴くうちに、おぎゃあという声はぴたり泣き止んで、しばらくすると、すううという寝息すら立てはじめた。な?こうしてやれば泣き止むだろ? といって得意げにわたしを見上げて笑うのが見えました。彼に悪気はないのです。


「育児ってさあ、そんなに必死にやるもんか? ちょっとは自分の姿、見てみたら。ひどい姿だぜ」


彼が最後にいった言葉は、よく覚えています。しかし、そのあとのことはよく覚えていません。気づいたら、わたしはあの人の首をタオルで絞めて殺していました。


大声を上げてだれかに助けを求められる人は孤独ではありません。ほんとうに孤独の沼で苦しんでいる人は、その一歩が踏み出せません。声を出すこともできず、自分がつくったアリ地獄に足をとられてどんどん下へ、下へと頭の先まで沈んでいきます。息ができなくなります。苦しい。苦しくて苦しくて、でもどうすることもできず、ただ飲み込まれるままになって涙をながしています。だから、私がほんとうに孤独な人たちと言葉を交わすことは、不可能なのです。この世界にはどうしようもない悲しみに暮れている人たちで溢れているのに、私を理解するひとは誰もいませんし、私が誰かを理解することも不可能なんです


あれから十年経った今もわたしはまだ生きていました。

罪は償わないと決めていました。今は小さな港町に住んでいます。港から運ばれてくる海産物を仕分けする仕事に就き、貧しくはありますが、娘とふたり平穏に暮らしています。

人のいない海は静かでうつくしい。人がいない場所は、それだけで価値があるように思えます。娘は今年11歳。涼しい目元が少しあの人に似ていました。


「お母さんっていっつも海を見てるよね」

「ちっちゃい頃に住んでいたところが港町だったの。だから、たまに海がみたくなるの。東京では一回も海を見なかったから、ここでは毎日海が見れて贅沢ね」

「えー。わたし、東京がよかったな。海なんて、潮がべたべたして、嫌い」

「いつか好きになるわ」

「お父さんも海の事故で死んじゃったんでしょ。わたし、やっぱり海って嫌い」

「確かにお父さんは不幸な事故だったけど、今もこの海からあなたを見守ってくれているのよ」


そう、あの人はまだここにいる。

この海の奥底に、あなたのお父さんは今もいるの。

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