第5話

 ニコールの社員に案内された応接室の前。


 漂う社畜臭のひどさに思わず鼻を覆う。

 この悪臭……そして。


「いやだっ! ゃだっ! もうタチカワに置いてがれくないっ! やらせでっ! しごっ――もどじでっ!」


 聞こえてくる男性の声……ろれつの回っていない言葉が彼の症状のひどさを物語る。


「これ、間違いなくお仲間ですね」


 真白の言葉に俺は無言で頷いた。


「発症濃度、安全域まで戻れますかね?」

「さて、どうだろうなぁ」


 彼女の質問にぼやかして答える。

 すると、真白は俺を見つめながら口を開き、面倒だと言うように声に倦怠感をのせた。


「先輩。また、突入前に受診勧告するんですか?」


 言葉の節々に『あんなの、やっても無駄じゃないですか?』という本音が見える。

 俺は真白の頭に手を添えた。

 彼女をなだめるように、ボサボサの髪をぽんぽんと鼓を打つように撫でる。


「ま、一応するだろう。規則だしな」


 その後、俺はその決定権を持つ、武藤監督官へと目線を向けた。


「では、後は我々が対処いたしますので。職員の皆様は安全のためにマスクをつけて離れて別の階に待機してください」


 図体に似合わない丁寧な口調。

 武藤監督官の話を聴くと、職員たちはものの数分でこのフロアから退去した。


「だぜぇええっ! 仕事させでぇ!」


 聞こえてくるのは応接室に閉じ込められた男の叫び声だけ……。

 実に静かな空間だ。


「さて。じゃあ、仕事に取り掛かるとするか」


 武藤監督官が感染予防用のマスクをつける。

 彼が応接室のドアへと向き直ると、それは自然と俺達への合図になった。

 俺と真白は、各々監督官の傍へと付き従う。

 俺達は揃って腰元の装備品へと手を伸ばし、次の指示を待った。

 武藤監督官の咳払い。

 乾いた声がこぼれた後、受診勧告が始まった。


「こちらは労働局社畜監督部、監督官の武藤だ! アタラシスグルっ。あんたに過重労働感染症発症の疑いアリとの通報を受けてきた。だが、安心してほしい。発症の初期段階ならば専門の医療機関で治療を受ければ社会復帰の可能性は高い。抵抗せず、同行を願えないだろうか?」


 形式的な通告。

 おそらく、無駄とわかっているのだろうそれを、武藤監督官は告げた。

 後は、発症者の返答を待つのだが……。


「しゃ、社畜監督部っ? ひぃっ――やあめてくで! 僕は大丈夫なん! 必要なィ!」


 十中八九、相手は応じない。

 まあ、こちらとしても、発症者が勧告に応じないことなど端から織り込み済みだ。


「ま、こうなるな」


 武藤監督官は肩をすくめた後、俺達へとハンドサインを飛ばした。

 直後――。

 俺と真白は鎮静剤の入った無針注射器を手にし、拳銃のように構える。

 そして、訓練で体に叩き込まれた手順に従った。

 真白が応接室のドアへと張り付き、片手をノブに添える。

 俺は真白のすぐ隣で待機し、彼女の突入に合わせて援護できる態勢をとった。


「よし……――」


 突入の直前。

 背筋をカッターの刃でなぞられるような、一瞬の緊張。

 だが!


「……――行けっ!」


 監督官の号令が下れば、緊張感は瞬間的に高揚感へと姿を変えた。


 バンッ!


 乱暴にドアが開け放たれる。

 猫のように素早く、真白が応接室へと進入した。

 当然、俺も後に続こうと試みる。

 しかしっ。


「社畜監督部です! おとなしく同行――あれ?」


 俺達の視界には……誰の姿も映らなかった。

 いるべきはずの発症者が、室内にいなかったのだ。


「うそ? 発症者……消えちゃったんですけど」


 だが、いない筈はない!


「よこえぇっ!」


 次の瞬間、ドアの影から男が姿を現したっ!


「なっ?」


 男は真白に体当たりをするように突進し、彼女を轢くような形で部屋の奥まで猛進する。


「真白っ!」

「何があった!」

「発症者に不意打ちもらったんですっ。真白が今揉み合いになってますよっ!」


 声をぶつけるように報告を済ませ、応接室へと踏み入った。

 その時、どんっ! と、応接室の壁に真白が背をぶつけられる。


「うっ」


 鈍い痛みが走ったか、真白の表情は曇り、ほんの一瞬、彼女に隙が生じた。

 すると、それを好機とばかりに男の手が真白の持つ無針注射器へと伸びる。

 しかし、真白はここで無抵抗でいるほど淑やかな娘ではない。


「こんのっ! ずるい奴っ!」


 彼女は無理やりに目を見開き、注射器に向かって伸びた男の腕をがっちりと掴んだ。

 直後、二人は互いに相手の腕を握り潰さんとばかりに取っ組み合う。

 腕力にものを言わせた刹那の攻防。

 だが、それは真白にとって分のいい勝負とは言えなかった。


「ぐっ――くぅっ!」


 歯を食いしばる真白の表情に瞬く間に疲労が滲む。

 しかし。


「痛っ――」


 突然、彼女は短い悲鳴をあげた。

 痛みに表情を歪め、視線を移ろわせる。

 どうも、相手の男が爪を肉に食い込ませたようだ。

 すると。


「くっそぉっ――」


 途端に、真白の目付きがキッと鋭くなった。

 彼女の瞳に、明確な闘志が燃え上がる。


「このっ、女の子相手に爪たてるとかっ! ありえないんですけどっ」


 だが。


「な……に?」


 敵意をむき出しにした真白とは対極的に、男は間の抜けた声を漏らした。


「おまぇ……女?」

「だったら、何っ」


 と、真白が男を睨みつけた次の瞬間――。


「――お、お客様あっ」

「えっ? なにっ? わぁっ」


 今の今まで、おぼろげに無針注射器へと向けられていた男の目。

 焦点を失っていた奴の両目が、今はっきりと真白を見据えていた。

 奴は狙いを、無針注射器から真白へと変更したのだ。

 しかし、直前まで注射器を取られないことに注力していた真白は咄嗟の判断が遅れる。

 彼女はなす術もなく態勢を崩され、倒れる拍子に無針注射器をも手放してしまった。


「ひっ――」


 真白は男に覆いかぶさられる形でマウントを取られる。

 自身の不利を理解した彼女の口からは、千切ったような悲鳴がこぼれた。


「真白っ!」


 床を蹴って走り、男との距離を詰める。

 俺は奴が着るスーツの襟首を掴むなり、力任せに思い切り引っ張った。

 なのにっ!


「ぐっ――馬鹿なっ」


 奴をっ! 

 どうやっても奴を、真白から引き剥がすことができないっ!


「せ、先輩っ! はやく! はやく助けてほしいんですけどっ」

「くそっ! やってるよっ! こいつ、離れないんだっ!」


 終いには男のスーツがぶちぶちと音を立てて裂けた。

 だが、奴が真白から離れることはない。

 まるでしっかりとはめ込んだプラモデルのパーツみたいだ。

 壊すつもりで引き剥そうとしても、少しの隙間もできずぴったりとくっついている。

 この男は、真白に対して恐ろしい程の執着を見せていた。


「離れねぇかっ! このっ!」


 もう一度、男の首を引っこ抜くつもりで引っ張る。

 その時――。


「ひぃっ」


 再び、真白の口から悲鳴があがった。

 見ると、男が真白の胸を服の上からべたべたと触っている。

 何とも堂々とした痴漢行為だ。


「こんのっ――くそ野郎があぁっ」


 しかし。

 このくそ野郎は、欲情してそんな行動に出た訳ではなかった。


「お、お客様! こちら、当店の新商品となっておひます! ぜひ、是非おためしくらはい!」

「えっ? はっ? えっ? な、なにっ?」


 混乱する真白の声。

 知らん男にマウントとられて胸を触られ、不意に脈絡のない言葉を浴びせられたんだ。

 無理もない。

 だが、俺は奴の脈絡のない発言で理解した。

 同じ社畜――過重労働感染症の発症者として、奴の行動、その意味を理解できた。

 この発症者は今、その手にありもしない自社の商品を、真白に薦めてやがるのだ!


「こちは! 当社自慢の妖精のブラとなっておひまふ! 胸部の無駄なお肉を寄せへ上げることで、胸のかたひを美しくみへ、さらにお客はまのような胸のちさい方でも谷間を作ることができまひへっ」


 しかし、男の熱烈なプレゼンが真白に通じない


「どういうことですかこれ? なんなんですかこの状況! 先輩っ、意味わかんないんですけど! 胸がなにっ?」


 男が商品の素晴らしさをアピールするたび、どんどん真白がてんぱっていく。

 それでも、彼女は断片的に言葉を受け取ったのだろう。

 奴が自分にブラジャーをすすめていることを半周遅れで理解したようだ。


「いやっ! あの! 無理です! いりませんっ! あたしノーブラですし! 女捨ててますから! 社畜ですから! 寄せてあげるとかいらないんでっ! あと、すっごい余計なお世話なんですけどおっ!」


「そうおっしゃず! 当社の商品はお客様満足ほは――」

「バカ真白っ! 社畜相手に言葉が通じるかあっ!」


 じたばたともがきながら発症者に口を利いた真白を怒鳴った直後!


「八代っ!」


 計測器を手にした武藤さんが、男の手首を思いっきり掴んだ。


「いでえっ」


 苦痛を訴える男の声。

 骨の軋むような音。

 短く響いた電子音!


「発症濃度オーバー190! フェーズ3直前だ! やれっ!」


 武藤さんからの指示が下った。

 発症者に対しての鎮静剤投射の合図!


「了解!」


 間髪入れずに返答し、俺は無針注射器を男の首にあてがう。

 そして、迷うことなく引く、即座にトリガーを引いた。

 空気を吐き出すような軽い発射音。


「あっ……うお……」


 鎮静剤を打ち込まれた男は、すぐに空気を吐き漏らしながら脱力した。

 俺は泥のように崩れ落ちる男を退け、真白に声を飛ばす。


「真白! 無事かっ」


 彼女の体を抱き起すと、その衣服の乱れが目に入った。

 社畜らしく、きっちりと着こなしていたスーツが、男のせいでぐしゃぐしゃになっている。

 ほつれた胸元のボタンが、乱暴の痕跡のようで胸に堪えた……のだが。


「無事なわけないじゃないですかっ! すっごい触られ損っ! もうひどい事故ですよ! せっかく先輩に操を立ててたのに」


 真白の反応に心配は消え失せ、安心を通り越して呆れてしまった。


「お前……それでいいのか?」

「へ? なにがですか?」

「いや……女性の反応として」

「先輩……女にどんな夢見てるんですか?」

「……少なくとも、夢見がちな反応を期待してたつもりはないが」

「?」


 真白は一瞬、本気でわからないという顔をした後。


「あっ!」


 と、声を漏らしてから俺に詰め寄った。


「もしかして先輩、ショックでしおらしくなっちゃうあたしを期待しましたっ? 遊園地でお化け屋敷に入ったはいいけど、彼女が怖がってくれなくて残念! みたいな心境ですねっ」


 止めようもなくため息がこぼれる……。


「はぁ……」

「先輩?」

「いや、お前の言うとおりだ。社畜に真っ当な反応を期待した俺が青かった。だがな、真白」

「なんでしょう?」


 だが、せめて。


「流石に、ブラくらいつけろ」


 先輩として、これくらいの常識は押し付けても良いだろう。


「うっ……あ、明日からは、ちゃんとつけます」

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社畜列島~ワーカー・オブ・ザ・デッド~ 奈名瀬 @nanase-tomoya

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