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「げっ」
声が聞こえて振り返れば、そこにあるのは、おおよそ元令嬢らしからぬ、引き攣った口元である。
「……知り合いか?」
「する予定だったのよ、この人とね」
「……結婚?」
ずんずん向かってくる美しい顔、微笑む口元。
「そう――」
「エルマリア! ウィクトールの邸宅へ伺ったら、セレイネ様が其方は不在だとおっしゃったものでな、おそらくここであろうと思ったのだ……これを携えて参った、受け取ってはくれぬか、間違いなく其方に似合う」
厨房だとかそういうことは全く気にしないのだろうか、若者は凛々とよく響く濁りのない声を張り上げながら座っているマリア嬢の所まで真っ直ぐ歩いてきて、膝丈の胴着が床に擦れるのも気にせず膝をつき、携えていたらしい包みを両手で彼女に向かって恭しく差し出す。しかし、随分古風というか、格式張ったような喋り方だ。貴族とか諸侯とかいうのは、本当はこういう種類の連中なのかもしれない、と俺は思った。
「そういうの、いいわよ……もう、そんな関係じゃないでしょう、私達」
「だから呼び方も変えたではないか、エルマリア……よいから開けてみよ、其方の為に存在するようなものを見付けられたことが私は嬉しいのだ、この喜びを分かち合ってはくれぬか?」
すげなく断られても全く折れない、この若者。素晴らしい笑顔を全く曇らせることなく相手にグイグイ迫っていくその根性を俺も見習いたいとぼんやり思う……仕入れやら売値交渉方面の、営業的な意味で。しかし、誰かに似ているような気がするのだが、何処かで同じような顔を見ただろうか?
その時に彼女の口から飛び出た囁きは、俺にしか聞こえなかった。
「……呼び方だけしか変えてくれないのね、ユーリウス」
「何だって、何か私に言ったかい?」
「いいえ、何も」
マリア嬢はユーリウスと呼んだ相手からふっと視線を逸らす。俺はどうしていいかわからなくて、褐色の長髪を結んだ若者がナグラスに向かって色々と料理の注文をしているのをぼんやりと聞いていた。
「ヨウスケ!」
と、突如料理長は大声で俺を呼ぶ。
「はい!」
「ちょっと量が多い! 厨房を手伝ってくれ、お前でも簡単に出来るぞ! さあ、マリア嬢、お客人、向こうの机の方でなら幾らでもゆっくり続きをやってくれ、じきに美味しいものを持って行くからな!」
ナグラスが調理台の上に小さな走り書きを置き、マリア嬢とユーリウスの腕をぐいっと掴んで立たせ、扉のない厨房の出口へ、剛力で、しかし優しく押し出した。
それを横目に走り書きを見れば、少しずつ文字を習い始めた俺にもわかるように、作る料理の名前と食材の名前が整列している。注文だ。
ずらっと並ぶ肉の部位の名前。尾が再生しなくなった竜を一頭分首尾よく手に入れ、そのおまけで竜角羊を付けて貰って、他ならぬ女主人に褒められたのは、昨日の朝の俺だ。
「ヨウスケ! 竜肩ロース肉の油茹でと、竜スネ肉の煮込みと、竜角羊モモ肉の米粉パン包み焼きと、アスヴォン産豚挽肉の米粉皮包み揚げだ! 肉だ、やるぞ!」
「わかりました!」
何と、裏方の俺が、厨房で料理の時間だ。
二ヶ月くらいナグラスと一緒にいて気付いたことだけれど、彼は商談の時や仕入れの時に約束の時間に遅れたことはないし、かといって早すぎるなどということもない。その時の相手にとって丁度気持ちの良いと思える人それぞれの時間を熟知しており、今いる場所からそこに至るまでの時間を上手く計算して、それに組み込んでいく。それは時間についてだけでなく、料理長自身が人と向き合っている時の言動についても同じだ。声がでかくても、動作が大味でも、心遣いと手先と味覚はとても繊細な人なのだ。俺が女だったら惚れていた……とか思ったりもしたけれど、心の中に浮かんだそんな気持ちなんてすぐに打ち消してしまうくらい、男でも何でも関係なく、人として、とても尊敬する。
料理に対してもそれは同じだ。
肉の部位や野菜の種類によって刃を変え、堅い芯や筋、関節などを鮮やかに切り開き、無駄を出すことなく食材へと変化させる。その包丁捌きは、横で見ているだけでも見事だ。それだけではない、この料理人は料理によって鍋や深鍋、プレート、オーブン、グリル、術式の埋め込まれた板、蒸し器など、挙げればキリのない調理器具を目まぐるしく変えたし、時間も正確に計っている。その為、この厨房には様々な色に塗られた時間計測器が十個も二十個も壁に貼り付けられていて、鳴る音も全て違っていた。どれが鳴ったかで何の料理が出来上がったかわかるらしい。聴き分けるのが大変というよりも、非常に忙しいことこの上ない。
下拵えを手伝う俺は、水色の計測器がキンキンした音で妙なメロディーをけたたましく繰り返す中、大声で訊くのだ。
「料理人をやって何年くらいになるんだ、ナグラス?」
「俺か! 俺はな、学舎を卒業したくらいからだ! 下等の方だぞ! その前から家でもやっていたけれどな! 中等学舎に行く奴らと同じくらいの頃から、本格的にやり始めた!」
下等学舎の卒業は十三歳ぐらいらしいから、相当だ。中坊から厨房である。
竜肩ロース肉の油茹でとか言っているけれど、揚げ物である。柔らかく叩いてスパイスで下味をつけた分厚い肉を覆う衣は、粗挽きの米粉だ。その香ばしさは植物の種から搾り取った油に浸されてすぐさま破壊力となって、炊き飯とスープであっさりめの賄いを食べた俺の胃で寝ようとしていた食欲を殴ってきた。
揚げ物の最中である浅めの鍋の傍らには大型の寸胴鍋があって、こっちは野菜や果実、スパイスをふんだんに叩き込んだ竜スネ肉のワイン煮込みだ。ああ、このソースを今揚げている竜カツにかけたらさぞかし美味いだろう。
裏方の不埒な妄想である。だけど声には出る。
「……ナグラス、この煮込みのソース、油茹でに掛けたこと、ある?」
「おっと、ねえな! 別物だと思っていた! 普段は塩だけだが、やってみるか! お前さんはいい趣味だな! 折角だ! 今のお客様にもちょっと出してみるぞ!」
なんの、俺は、カツにはソース派である。勿論、塩も美味しいけれど。採用されたのは嬉しいことだ。
米粉パン包み焼きに関しては、あれだ、サンドイッチと中華まんの相の子みたいな見た目である。このパンは中央行政区の店から少しだけ分けて貰っているらしい。俺も賄いで残り物を何回か食べたけれど、物凄くもっちり、それでいてふんわり、ついでに甘い、というよくわからない美味さの代物だった。近いのは中華まんの皮だけれど、もっと弾力があって、そして伸びる。某ドーナツチェーンの数珠繋ぎ風のアレが惣菜になったような。中に入る竜角羊もまた、それによく合う濃い味わいの部位で、それをパンの間に挟んで焼くのだ。それもまた堪らない。
作っては運び作っては運びを繰り返して客を唸らせていたナグラスが最後に調理したのは、豚肉の包み揚げ。これに関しては、揚げ焼売のことを考えてくれればそれに近いだろう。だけど、全然違う。俺が見ている前で、料理長はその中にキラキラした何かの粉を入れたのだ。
「ちょっと多めに仕込んだ! 出来上がったら食ってみろ、ヨウスケ! アスヴォン高原は巨大で人も多いからな! 育てる肉も多いし、何より美味くて安いぞ!」
日本食無双系のラノベも結構楽しく読んでいたけれど、そういえば、と思い出すのは、無双する相手の世界は食文化があまり発展していない場所だったことだ。
油から引き上げたばかりの包み揚げを一つ、小さな皿にぽいと入れて、ナグラスは渡してくれた。
「ほら、美味いぞ! 食え!」
「クレリア様に感謝!」
出来立てを前に、略式の聖句もばっちりである。
早速俺はそれを摘まんで頬張った。熱い、火傷した。だけど大丈夫だ、すぐそこにある香草を後で齧れば、あっという間に治る。シルディアナでの仕事ついでに香草を携帯するようになって一ヵ月、俺はどんな熱い食べものにも恐れることなくチャレンジ出来るようになっていた。サヨナラ猫舌、御機嫌よう熱々。
パリっとした香ばしい米粉の皮を歯で粉砕する。豚肉の甘みに混じるスパイス、そこから溢れ出る肉汁。うん、揚げ焼売、そう思った瞬間だ。
ぶわりと口腔内に拡がったのは、肉の臭みを上手い具合に消し、次の一つが欲しくなる清涼感、あっさりとしてはいるがしっかりと残る後味――これは植物性の何かだろうか?
「――ナグラス、これ」
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