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すると、俺のすぐ近くで大鍋を振るっているナグラスは大笑いするのだ。
「はっは、どさくさに紛れて、何食わぬ顔で復活しただけだ! こいつのおかげで床も綺麗になったしな!」
背中をバシバシ叩かれる。この人は力加減を知らないのだろうか、その弾みでスープが気管支に入って俺は噎せた。
「ナグラス、痛い、痛いって」
「おっと、ははは、すまんな!」
「あーら、見たことない顔ね、新入り? ナグラス、もう雇ったの?」
マリア嬢は自分もここの住人ですと言わんばかりの顔でずいずい厨房まで入ってきた、もしかして従業員候補だろうか、それにしては小綺麗すぎやしないか。昼の食事の時間帯も営業しているけれど、ここ、竜の角は一応酒場だ、年頃の女の子ばかり集めていると客からのオイタとかで色々と困るような気がするけれど、見た目からしてゴツいナグラスがいるし、大丈夫だろうな、なんて思い直したりもする。
「紹介するぜ、マリア嬢! ヨウスケだ! アンシーが拾った!」
「イェリ、ヨウスケです」
「イェリ、私はエルマリア・ウィクトール=アルカス……待って、アンシーが拾ったぁ?」
「二ヶ月前のサヴォラ事故の日だ!」
名前が結構長いから貴族か何かだろうかと思ったけれど、声はデカいし、言葉遣いも普通というかナグラスと同じくらい砕けているし、とても表情豊かだ。全くそれっぽくない。あと、思い出したのが、アンシール――二人ともアンシーって呼んでいるけれど愛称みたいなものだろうか――に教えて貰ったシルディアナの地図に、アルカスっていう地名があったけれど、何かあそこと関係があるのだろうか。
「……ええと、エルマリア・ウィクトール=アルカスさん?」
「あ、マリアでいいわよ、面倒臭いでしょ、“姫”とか嬢って付けられる立場でもなくなったし、ね」
「ヨウスケはな、“イェリアナトゥラレークス”の衝突に巻き込まれて、そこにいつの間にかいたらしいぞ!」
「待ってくれナグラス、サヴォラ事故? “イェリアナトゥラレークス”の衝突? それって一体何だ?」
「それより何を持っているの、それ、美味しそうじゃない、炊き飯? 私も欲しい!」
「“イェリアナトゥラレークス”の衝突は珍しいぞ! 生きているうちに見られるとは思っていなかったな! サヴォラ事故はちょっとヤバいやつだ!」
「サヴォラ事故ってヤバいけど、ちょっとどころじゃなくない? 四十メトラムに何もかも飛び散るって聞いているわよ? それもいいけどナグラス、炊き飯食べたい! 美味しそう! お腹空いた!」
嵐かよ。
あと、サヴォラ事故は何となくわかったけど、イェリアナトゥラレークスの衝突って何だ。単語が長すぎてわからない。
しかも、そこに俺がいた、って?
「あの、ナグラス、訊きたいことが幾つかあるのだけれど」
「おう、わかった! ちょっと待て!」
「ねえ早く炊き飯!」
「わーかったって、そう急かすな、嬢ちゃん!」
「っていうか、あんた、何処から来たの、ラライーナっぽいけど?」
「ラライーナ? 何だそれ?」
「あ、ヨウスケはラライーナじゃなかったのか? 竜の声は聞いたことないか?」
「え、ラライーナじゃないなんて有り得ない、髪は黒だし、目も濃い色なのに」
椀に炊き飯をよそうナグラス、俺が座っている椅子を二本脚状態にしてグイグイ揺らすマリア――俺の状態が不安定なだけだけれど結構腕の力が強くないか――に、飲み込みかけた炊き飯がまた気管支に入って噎せ返る俺。よくよく考えると変な構図である。
「ラライーナとかいうやつには、竜の声が聞こえる?」
咳をしながら半泣きで返したら、二人とも頷いた。マジか。
そういう癖があるのだろうか、マリア嬢が小首を傾げながら口を開く。
「うん、黒い髪に、“ミルウス”色の目の種族、人間とはちょっと違うの」
「“ミルウス”って何だ?」
「肉食の鳥よ、茶色だけど、ちょっと赤も混じっているわね」
「ほれ、受け取れ、マリア嬢! 匙はそこの棚から適当に取ってくれ!」
「……凄い接客ね、だけど、ありがとう、ナグラス!」
猛禽類の鳥の色みたいってことか。確かに日本人の特徴ってそんな感じだよな。
俺は、ここに来たばかりの頃に見た、竜の背に乗っていた黒髪の人のことを思い出す。あの人がラライーナだったのだろう、はっきりと覚えているけれど、顔は俺よりも彫りが深かったし、地球でいう所の西洋人みたいな感じだった。
しかし。俺は竜の鳴き声は聞いたけれども。
「……鳴き声しかわからなかったな? カカカカ、とか言っていたけれど」
「……じゃあ、あんた、何なのよ?」
「……それは俺が訊きたい」
マリア嬢は棚をガサガサ探って匙を取り出しながら言うのだ。俺はやっぱり異質な存在なのだろうか。だけど、俺の存在そのものがこの世界に影響を及ぼしているとかいう事象は全くなさそうだし、身の回りで不思議現象が起こっているなんてナグラスやアンシールから言われたこともない。
「ラライーナと違って細いしさ……でも、耳は開けているのね」
「これでも締まった方だぞ……ん、耳は開けている? あ、これか……開けられた、って言うべきかなあ」
「開けられた? シルディアナ人じゃないのね?」
客なのにそういうことは大して気にしないのか、立ったまま炊き飯を食べているマリア嬢の瞳は綺麗な青灰色だ。その視線は俺の両耳に注がれている。
スープの最後の一口を美味しく飲み干して食器を小さな机の上に置き、自分の手で耳朶に触れれば、そこにしっかり存在する、ピアス穴。これがシルディアナ人の印か何かなのだろうか、しかし。
「……俺は日本人だぞ?」
「ニホンジン?」
おっと。通じない単語を喋ってしまった。
「……とにかく、俺は別の所にいたけど、気付いたらここにいた、その……イェリアナ、何だっけ、それのせいか何かで」
「“イェリアナトゥラレークス”」
「そう、それ、それは何だ?」
「イェリ、こんにちは、の本当の意味は、わかる?」
「ええと、ちょっと待って」
俺はノートを取り出した。こっちのうねるような文字と一緒にアーフェルズに教えて貰ったことが大量に書かれているそれは、単語や熟語、例文で埋め尽くされていて、もう殆ど余白が残っていない。中央行政区のサーラさんの店で格好いいノートを買いたいなあ、と最近は思っている。それでも、こうやって読み返す時があるので、腰を縛ってズボンを安定させる為の鞄付きのベルトにいつも入れて持ち歩くことにしていた。
マリア嬢は物珍し気にそれを覗き込んで、引いた。
「うわ、何それ、凄いわね」
「言葉を覚える為に頑張った……イェリ、ちゃんと言ったら“精霊の加護が貴方にありますように”……長いな」
「そう、イェリ、っていう言葉は精霊から来ているのも誰かから習ったのね、“トゥラレークス”はそこに書いてあるかしら……ないか、これはね、“頂点に立つもの”っていう意味」
彼女は、見たことない文字ね、なんて合間に呟きながら、俺のノートを丁寧にめくって説明してくれた。プラチナブロンドが暑さに負けずふわりと揺れている。指の動かし方、視線の動かし方など、その所作には気品が滲み出ていて、やっぱり何処か良い所のお嬢さんなのではないかと俺には思えた。
「なるほど、そういう意味か……誰かっていうか、アーフェルズっていう人から教えて貰ったけれど、俺は」
ノートを区切った単語メモスペースに、漢字で“精霊王”と書いた時だ。
「……あ、アーフェルズ!?」
その大声に何事かと顔を上げれば、マリア嬢が仰け反っていた。
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