7

 悲鳴はすぐ下の階からのようだ。脱いでいたサンダルを所定の場所で履き直し、自分の部屋の扉を開ける。辺りを見回してから階段に近付いて階下を覗き込んだ瞬間だ。


「――イェルナ、ヴァグ!」


 大声が聞こえた。女の子だ、細い筒のようなものを構えている――視界の向こうでその先端に閃くのは炎の紅、それが何かを一瞬で焼き尽くしたのが見えた。


 銃かと思った。危険だ。


 俺が階下から誰か呼んでこようと階段に足を掛けた時、それを構えていた女の子が、それを取り落として、その場に崩れ落ちた。


 怪我かと思ったけど、違うらしい。すぐそこにもう一人いた。俺に何回か挨拶をしてくれた金髪で美形の男だ、その人は女の子の方へ這っていって、縋るようにぎゅっと抱き締めた。女の子は泣いていて、男の朗らかだった声も震えていて。


 見てはいけないものを見てしまったのかもしれない。


 俺は動けなかった。


 言葉が殆どわからない、というのは、本当に不便だ。二人分の声が微かに此方まで聞こえてくるけれど、何を言っているのかはっきりと聴き取ることは出来ない。ナグラス、という名前が聞こえたり、アーフェルズ、と女の子が叫んだり、男の方は乾いた笑いを漏らしたり項垂れたり。傍から見ていても何のことだかわからない。


 でも、二人の顔は真剣だった。


 階下からいい香りが漂ってくる。ナグラスと、名前は何だっただろうか、耳の尖った女の人の声が近くなって、また遠ざかっていく。真剣な目が二人分、お互いじゃなくて、遠くにある何かを見据えていた。


 ああ、これ、別に付き合っているとかいうわけじゃないな、っていうことだけ、俺にはわかった。


 そのまま、階段の傍に腰を下ろす。低い声が二人分、階をそっと上がってきて、何もわからない俺の耳を撫でていく。


 俺が能力を手に入れて、倒すべき魔王やら敵がいたのなら、その方が良かったのかもしれない。溢れ出る肉体的な強さなんかも、言葉を理解するチート能力とかでも、貰ったのが地味な魔法だったけれどそれをいい感じに改造して活躍するのも、何でも。出会うであろう誰もが俺を頼る状況、チートなんかじゃなくても、誰かと力を合わせて見事世界を救うことに成功するシナリオ。


 俺が触れてきた物語には、どれだけ娯楽であろうと、どれだけ暇潰し程度であろうと、新たな世界での絆や関係が描かれていた。そういう状況をやすやすと築いていた。


 だけど、俺は、何も知らない。


 親切にしてくれる人達がいる。だけど、その人達のことを、何も知らない。


 そんな華々しい物語の主人公なんかじゃなかった、っていうことだけが、冷え切って、心の底にすとんと落ちた。




 あまり寝つけなくて、気付いたら夜明けだった。


 少しはうとうとしたかもしれない。すっきりしないまま自分の部屋で顔を洗って、風呂場に入って、水を浴びた。


 暑いから気持ちいい。すぐ傍の金属製の棚に置いてある香油は泡立ちもいいので、髪だけでなく全身に使える。香りが強いからちょっと吃驚するけれど。こっちの人はアンダーヘアも剃るみたいで、カミソリにちょっと似た小刀みたいなものも貰ったけれど、まだ怖くて使っていない。シモに関する単語を何処かで習ったらナグラスあたりに相談するのがいいだろうか、と思っているけれど、ナグラスは大声なので、色々な所まで話している内容が響き渡るのが心配だ。


 発展した都市に来たなあ、と思ったのは、風呂場の天井にシャワーらしきものが付いていることに気付いた時だった。竜の角に来て、この部屋を使っていいよと言われた日だ。二つある壁のスイッチそれぞれを押したらお湯と水が出てくるのだ。因みに、何だこれ、と思ったのは、店舗部分の掃除をしていた時にナグラスが何かのスイッチを弄って、突然黒い板に貴族の邸宅みたいな場所の映像が流れ出した時だ。異世界にテレビ。訊けば、天井付近の壁から突き出た杭の上に、鳥の形をしたラジオらしき機械もあった。こういうのは、エレベーターを見た時に気付いていてもよかった、と、正直自分でも思う。


 下着は紐パン、いつ解けるかわからなくて最初は冷や冷やしたけれど、慣れるのはすぐだった。乾いた土みたいな色をしたズボンは履き心地の良い麻のような感触。栗色をした胴着は綿のような植物だろうか。勇者様と違って、全く目立たない格好である。


 ここに来た時に着ていたスーツのスラックスとジャケットは十字型のハンガーのようなものに吊るして壁にかけ、靴下とシャツは部屋の棚に仕舞い込んでいた。ボクサーパンツは最早まるごと使うあてもない俺の鞄の中、滅多に開かないポケットの中である。


「おう、おはよう、ヨウスケ!」


 階下、竜の角の奥にある厨房の方に降りて行くと、無精髭がつんつんと立っているナグラスが太陽みたいにニカっと笑って大声で挨拶してくれた。大鍋からはスパイスの効いた汁物のいい香りが漂っていて、空腹の胃袋を刺激してくる。


「おはよう、ナグラス」


「ん、お前、目元が酷くないか?」


 目元に隈があることに気付いたのだろう、彼は途端に心配そうな顔になって、俺の顔を覗き込んでくる。


「……眠れなかった」


 俺は目を擦りながら言った。冷水シャワーで多少すっきりしてはいたけれど、やっぱり頭の何処かが重い。そんな状態でも、助動詞だと断定出来るものまでなら何とか実践でも使えるようになったとわかる、英語様々だ。ちゃんとやっててよかった。


「そうか……わかった、今日は休みだ、ヨウスケ!」


 まあ昨晩はちょっと騒がしかったしなあ、という感じのことをナグラスは付け足すように言った。頬を何回か軽く叩かれたけど、何だかちょっと甘やかされているみたいで、それも心地いい。


「……ありがとう」


「五日働いたら、次の日は休み、これはシルディアナの決まり事だ!」


 ナグラスは簡単な言葉で色々教えてくれる。頭を撫でてくれるその手が優しい、可愛がられている犬か猫にでもなった気分だ。


「……でも、ナグラス、俺、何かやりたい」


「眠れていないだろう、無理をするな!」


「眠くなるまで、でいい、今は眠くない」


 世話になりっ放しだから、何か返したい、何か役に立ちたいとここ数日間ずっと思っていた。何より、冷水シャワーのせいで目が冴えてしまったのだ。俺が言うと、ナグラスが腕を組んでううむ、と唸った。


「あれしかねえな!」


「あるの?」


「単純だが、ちと面倒だ!」


 彼は近くにある棚から何か筒のようなものを二本取って、俺に渡してきた。受け取って見れば、昨日見たやつだ、炎を噴出する筒。


「トゥルナ・ヴァグ、持って、行け! ブラデアを燃やして、消す!」


「……ブラデア?」


「“虫”だ、二階の、階段に一番近い部屋に、二匹いるぞ! それが終わったら朝飯だ!」


 ナグラスは凄くいい笑顔で言った。




 結論から言おう。


 マジで地獄かと思った。これなら荷運びの方が数百倍マシだったかもしれない。


 ブラデアとかいう虫は棚の裏や暗いところにいる、そういうものを動かして見付けるのがいい、とナグラスは言っていたから、その通りにした。


 そしたら、そこで俺を真っ直ぐ見つめてくるのは、まごうことなきゴキブリである。


 ゴキブリ。


 ゴキブリと視線が合った。


 いや、俺自身は虫がそんなに苦手ではないし、日本にいるやつは足が速くてもせいぜい五センチが最高サイズだったけれど。ここにいるやつはヤバい。手の先から手首までの大きさのやつが、日本のゴキブリ並みの速度で走るのは、はっきり言ってナシだと思う。勘弁どころの騒ぎじゃない。


 取り敢えずもクソもない、俺は飛んでくる巨大ゴキブリを絶叫しながら避けたり、鬨の声を上げて追い回したりして、二時間ぐらいかけてやっと一匹葬った。眠気が何だって? そんなものはなかった、いいね。最初の村を出ようとしてスライムに苦戦する勇者よろしく、といった感じだが、やっていることは家の探索だし、別にゲット出来るのはアイテムじゃなくてゴキブリだし……これでレベルアップ出来るのかと言われれば、まあ、奴らの特性なんかは把握可能だから、対処スキルはつく筈である。


 だけど、ちょっと元気が出たような気もする。


 もしかしたら、昨日の夜に聞いた男の悲鳴はこれのせいだったのかもしれない。女の子が泣いていたのも、ゴキブリ退治のせいかもしれない。そう思うと、やっぱり皆同じなのかもしれない、と思って、一匹をわざわざ探し出して確実に葬った自分を勇者だと思ってもいいのではないか、という気分になったのだ。


 そして、今、俺は動かしたベッドの跡地に、震えるその姿を見付けるのだ。


 ブラデア。貴様を滅してやる。


「……逃がさねえぞ、貴様も灰燼に還るがいい!」

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