5

 俺は壁に近寄った。ランプの光が額に嵌め込まれている透明なガラスのようなものに反射して、きらりと輝く。


 海岸線が内陸に入り込んでいるところが左側にある、九州或いはアフリカ大陸の形にちょっと似ているだろうか。そこを左上と右下に分断するような形で、二本のうねる線が描かれている、川にしては巨大だから大河と称した方がいいだろう。左上には薄く緑に色付けられている木の模様が多く、その少し上や、紙の下の方にある山脈のような模様の上には、国境らしき実線。その中は点線で幾つにも分けられ、それぞれに文字らしきものが付け加えられている。


 中央には、城のようなマーク。アンシールが歩いていって、それを指した。


「シルディアナ」


 この街――いや、大都市と言った方がいいのかもしれない――の名前だろうか。それとも、国だろうか。


 シルディアナ。彼女が先程発した何かの言葉が作用したのだろうか、指先の向こうにあるマークに過ぎなかった城に翠の光が集まり始め、風と共にふわりと生まれ出るのは、人と何かの相の子のような小さな姿。ただの地図かと思ったけれど、そうではなかったらしい。だとしたら凄い技術だ。紙に超小型のLEDを埋め込んで音声認識で光るようにプログラミングするとか、日本でも普通に出来るかもしれないけどさ。


 そう思ったけれど。


 目の前まで来た綺麗な薄緑の光に手を伸ばしてみたら、風みたいな感触があった。


「これは、フェーレ」


 妙な焦燥感を覚えた。


 知り合ったばかりの相手――俺の状況など何も知らずに生活している人々――が、ひょっとしたら地球と同等か、それ以上に発達した技術の中で生きているであろうということ。その人々が住んでいるのが東京どころか地球ですらないこと。


 そして自分が何も知らないということ。


 現実。


 今まで暮らしていたところだったら有り得ないと一笑に付してしまいかねなかった現象が目の前で起きているという現実。夢だと思いたかった。さっき串焼きとかスープとか食べたじゃないか、って思うけれど、味覚を伴う夢だって、見たことがある。


 自分の頬をひっぱたきたくなったけれど、でも、我慢した。


 シルディアナ。俺は間違いなくここにいる。


 取り敢えず、俺はペンを三本と、紫色と藍色の中間みたいな色をしたインクを買って貰った。代金は有り難いことに老婆――サーラ、という名らしい――と知り合いらしいナグラス持ちだ、ついでに“インク”や“あげる”、“どうぞ”、“開ける”、“閉める”、“これは幾らだ?”など、沢山の言葉も手に入れた。


 インクの補充は万年筆に似ていた。その液体がまた不思議で、聴いたばかりの言葉を思い出せるだけ思い出して俺が書き留めていく端から、暗い色の生き物が文字の端からふわりと生まれ、こっちの顔を覗き込んで、霧散していくのだ。


「ラフィ」


 アンシールは生まれては消えていくそれをつんつんしながらそう言っていたけれど、何のことだかよくわからない。色によってその生き物の名前が違うのだろうか。俺は見た感じの色と一緒に、今まで聴いたその生き物の名前も書き留めた。ステーラは白っぽくて、セザーナは水のような色、フェーレは薄い緑、ラフィは黒に近かった。そういう感じの生き物は、まだ他にも色々な種類がいるのかもしれない。生まれた端からあっという間に消えていくってどんな生き物だよ、って感じだけれど。


 あれは、妖精というよりも精霊に近いのかもしれない。神様に該当するような言葉をまだ聴いていないから、まだ何とも言えないけれど。


 ありがとう、という言葉を何度も言って手に入れることが出来たペンの色は、白っぽいのと青っぽいのと緑っぽいのがそれぞれ一本ずつ。色の違いによって何か違いがあったりするのだろうか、螺旋の軸を慎重に引き抜いて白っぽい物の中を見てみたけれど、小さな金属片みたいなものがくっついているだけでよくわからなかった。それでも、インクと併せて何か仕掛けがありそうだ。もう少し言葉を覚えたら詳しく訊いてみたい。そう、ちょっと前も思ったことだけれど、必ず言葉を話せるようにならなければいけないのだ。


 地図を見た時と比べれば冷静になってきていた。アンシールは俺が色々と何かを考えていることに気付いたらしく、気遣わしげな表情で手を握ってくれたのだ。それでちょっと我に返った。


 彼女はとてもいい子だと思う。何歳だろう。配偶者にするならこんな子がいいなともしみじみ思う。だけど、俺は帰るつもりだから、気遣いだけを有り難く受け取っておくのだ。


 ――手段すら見つかっていないけれど。


 サーラさんにありがとうを言って、俺達は外に出た。起きてからそんなに時間は経っていないけれど、色々な情報に敏感にならざるを得なかったからか、結構疲れている。


 思わず、ふう、と息をつく。アンシールが振り返る。


「ヨウスケ?」


 疲れている、っていう単語を、まだ知らない。俺は笑顔を作った。


「俺は“行く”よ」


 自分で言っておいて思った、何処へ行くというのだろう。


「あっち、行くか、ヨウスケ!」


 ナグラスは笑っている。その陽気さは一体何処から来るのだろうと思った。


 彼には更なる目的地があるらしく、指差した方向へどんどん歩いていく。アンシールも何の疑いもなく歩いていくので、行くと言っておきながら俺はまた二人について行った。


 俺達は大通りに戻ってきた。道すがら“服屋”やら“食器屋”やら“家具屋”といった店に関する単語を習いながら眺め、行き交う人々の身に纏う色や身体の部位なんかも、自分の身体を動かしたり触ったりして、書き留めていく。


「ここだ」


 そう言ってナグラスが止まった場所は、扇形の広場をぐるりと弧を描いて取り囲むその隅っこにある、花を象った飾り枠がついた大きな標識の前である。何だろうと思った瞬間、さっきも見たものが、大きな音を立ててそこに停まった。


 此方を不思議そうに見ている巨大な爬虫類の視線と、目が合った。


「ヨウスケ、“乗る”ぞ!」


 竜車だ。




 シルディアナの街は広大だ。


 俺は今時計を持っていないから、何分経ったかわからないけれど、体感で大体一時間ぐらいだろうか。竜車は相当速くて、真っ直ぐな一本道を走っている時は通り過ぎる店に何が売っているのか確認出来ないくらいだった。


「ヨウスケ、“降りる”、行くぞ!」


 ナグラスは“降りる”と“行く”の違いがしっかりわかるように喋ってくれる。他の言葉についてもそうだ。とても親切であるついでに、言葉が分からない人としょっちゅう顔を合わせるのだろうか。アンシールもそうだ。客として迎えるような仕事でもしているのだろうか、と思ったりする。


 長いこと竜車に乗っていたけれど、降りた所の大通りにも複雑な動きを見せる噴水と整えられた広場があり、綺麗な石畳が敷かれていて、この国の強さを見せつけられたような気持ちになった。巨大な塔は殆ど見当たらないけれど、周囲の建築物は四階か五階建てで、摩耗した石造りのものや切り口がすっぱりとしている石造りのものが混在しているけれど、屋根の高さはぴったり揃える几帳面さも有しているらしい。


 さっきも見たような大きな標識が、竜車を降りた場所にも存在していた。何かの文字が書かれているようだが全く読めない、その前で俺が首を捻っていると、ナグラスの大きくて分厚い手が肩を叩いてくる。


「ヨウスケ、金だ! あの袋に“入れる”!」


「ナグラス、ありがとう!」


 竜の首に掛かっている袋を指差す彼から、幾らかの小銭を渡された。さっきからずっと払って貰いっ放しである、これは本当にしっかり返さないといけない。どうにかして役に立とうと心に決めながら、俺は竜の真正面まで行って、巨大なそれを見上げた。


 こっちの言葉ではドラコス。竜といったら、やっぱり雄々しくて鱗がトゲトゲしている感じだけれど、そういうわけではない。草食恐竜みたいな外見で、脚がしっかり発達している感じだ。立派な角が一対、額から後頭部までぐっと長く伸びている。


 目はとても優しい。俺が首を傾げると、竜も同じ方向に首を傾げる。ちょっと面白くて思わず笑ったら、その頬の筋肉が動いて、大きな口が開けられた。肉を引き裂く牙はなくて、何か固い繊維を磨り潰すような平たい歯が口腔内の奥の方に並んでいた。まるで笑うかのように上がり調子の打ち鳴らすような音を立てた。


 鳴き声だ。


 その背中には翼はないけれど、鞍があって、そこに座っている黒髪の人間が訝し気に俺を見ていた。


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