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「オワータ?」
雑踏の中で頭を抱える俺の口から日本語が飛び出たのを、アンシールが首を傾げながら拾っていく。俺の手元を覗き込んだ彼女は気付いたらしい、掠れる文字と紙に指で触れて、それから顔を上げた。
「ナグラス、“ペン”」
振り返ったナグラスは、一瞬で状況を理解したように頷き、何事かを早口で言って、安心しろという風に笑って向こうの方を指差すのだ。
「ヨウスケ! “行く”ぞ!」
「“行く”?」
「“ペン”!」
ペン、行く、ってどういう意味だ、と考えながら二人について行った先は、広場だった。
単に広いわけじゃなくて、妙に立体的だ。
手前の半円形の空間の中央には、それはもう見事なくらいリアルで巨大な竜の彫刻が居座っていて、何か機械のようなものが内蔵されているのがちらりと見える口を半開きにして、出てきた大通りのすぐ左脇にあるパン屋の棚を片目で凝視している。パン屋の扉は引き戸で、全開だった。何か札が看板に掛かっていて、模様なのか文字なのかよくわからない線か図形のようなものが描かれている。
俺には全くわからない。しかし、取り敢えずいい香りだ。
半円形の空間の向こうには、更に広大な円形の空間が広がっているようだ。そっちの方が凄い、単なる平面の広場ではなくて、立体的だ。
人工的に造られた噴水の周囲には太い柱が数本――これにも細かな装飾が施されているようで、壮麗だ――建てられていて、その上に美しい緑を抱いた庭園が存在している。空中庭園と称してもいいだろう。その下をよく見ると、噴水の中には立ち入ることが出来るらしい、何かをプログラムされたように複雑な踊りを披露している水の隙間に、階段がちらちら見える。
俺がぼんやり見ている先、その中央から、柵のついたすり鉢状の物体が、淡い緑色の光と一緒にすうっと上がって行った。エレベーターのようなものが存在しているのか、しかも、導線なんかは一切見えなかったようだけれど。
更にその奥は色々なものが手前にあるから見えなかったけれど、もっと巨大な建築物があるようだ。現に、空へ向かって巨大な塔が一本、天を貫けとばかりに伸びている。
凄い所に来たな、俺?
「ヨウスケ、これ“広場”!」
大きく腕を広げて、アンシールが元気に言った。ナグラスの指差す先を目で追うと、色々な名前が降ってくる。
「ヨウスケ! あれは“空中庭園”だ!」
……何か聞こえてきた単語が長かったからそういう風に言っているのだろう。
彼の声が大きくてよく響くから、何かあるのかという顔が幾つもちらちらとこっちを見て、ラライーナ、シヴォン、ということを呟き、納得したような表情で頷いてから通り過ぎていく。警戒心があまりないのか、それとも気にしない性質なのだろうか。皆一様に胴着と羽織にサンダルといった格好だが、それは色とりどりで、様々な模様と色の装飾が裾やら袖やら胴やら胸元に施されていたりした。胸に金属の飾りをつけている人もいる。耳にピアスをつけている人が多い。
華やかで美しい。全てが咲き誇る花のように。
見下ろすと、視界に飛び込んでくるのは黒のスラックスと黒の革靴、白いシャツ。ジャケットは手に、だけど黒。鞄も黒。
俺の服、浮いてないか?
いや、ネクタイは紺で、アンシールの首元に巻かれているけれどさ。彼女の服。異国の形のブラウス、コルセットスカートのようなものだけど、東京で見たことのあるようなものじゃない、って感じるのは、きっと材質が違うせいもあるだろうけれど。
俺のネクタイだけが、彼女の服装に溶け込んでいない。
普段使っているネクタイの色なんてあんまり気にしたことがなかったのに、どうしてだろう、今は異様に気になった。
夢から覚めたような気分になった。言葉も殆ど通じない、何処に来たのかわからない。こんなところを歩いていていいのだろうか、という不安が一気に襲ってきた。
何処に来てしまったのだろう?
「ヨウスケ」
手に触れるのは温かくて繊細な感触。視線を上げれば心配そうな顔のアンシール。俺は“大丈夫”という言葉を知らない。どう訊いていいのかもわからない。
でも、と俺は思った。
それでも、ちゃんと名前を呼んでくれるじゃないか。
「アンシール、俺、行く」
俺が笑えば彼女も笑うのだから、頑張らなきゃいけない。
何を、って、帰る手立てがないのなら、当分ここで何とか生きていかなきゃいけないのだから。
広場を真っ直ぐ行かずに左側に逸れて大通りから裏路地へ入ると、ぐっと人が少なくなった。閑静な住宅街といった様相だが、すぐそこには、雑貨屋のような店が一件だけ開いている。その隣も何だか隠れ家レストランのような風情を醸し出しているので、案外色々な店が並んでいるのかもしれない。相変わらず文字は読めないけれど。
開いている店の軒先では小柄な老婆がのんびりと石畳に何かを投げつけていて、周囲に水滴を飛び散らせていた。そこから魚の尾のようなものを持つ何かがぴょんぴょん飛び跳ねているけれど、魚を叩きつけているのだろうか?
「イェリ、サーラ!」
両手を挙げたナグラスの大声に、その老婆は顔を上げた。
「イェリ、ナグラス」
存外しっかりした声だ。二人はそのまま物凄い勢いで喋り始めた。イェリ、って何だろうか、隣にいるアンシールに俺はこっそり訊いた。
「イェリ、何?」
挨拶っぽい響きだけど。すると、彼女は目を閉じて寝るポーズをとった。
そして、目を開いて、両手を挙げる。
「イェリ、ヨウスケ」
おはよう、か。
「“おはよう”、アンシール」
「上手」
「ヨウスケ! こっちへ来い!」
アンシールがにっこりしたところに、ナグラスの陽気な大声が被ってきた。俺の頭の中で少しずつ単語が文章になりつつあるようで、簡単な動作に関する連続した単語が言語として認識され始めたのを自覚するのは、何だか不思議な気分だ。
言葉に対してずっと無関心というか、無造作に扱ってきた部分があったのかもしれない。
ナグラスは勝手知ったるといった表情で、軒先に老婆を置いて店の中へさっさと入っていく。アンシールもそれについて行くので、おそらく俺も入るやつだ。ペンのインクが切れた時に行くぞと言っていたから、寧ろ俺の為に連れてきてくれたのだろう。
何でそういうことと結び付けられたかって、入った店の中、すぐ前のカウンターに、ペンらしきものがずらっと並んでいたからである。
「おお、すげえな」
おっと、うっかり日本語が飛んだ。でも、それだけ美しいのだ。
おそらく切り出した石から成形された軸とキャップは透明で、ペン先は鋭く、しかし優美だ。どれも高級万年筆やガラスペンを思わせるデザインで、軸の中にインクをセットして使うらしい。
すぐ傍に色んな色のインク壺が並んでいて、中身はどれも濃い色だが、妙にキラキラしている。魔法のインクとかなのだろうか、書いたらどうにかなるのだろうか。
成程ここは魔法系の文房具屋か、と思って隣にある棚を見れば、ノートと言っても差し支えない綴じた紙の束が沢山積まれている、手を伸ばしてみれば俺の持っているものと似た触り心地だから、植物紙で間違いないだろう。ただ、その表紙は革のようで、如何にも高級ノートといった風情だ。だけど、何かが発動しそうな雰囲気はないし、これは魔法の紙でもないらしい。だけど、何かの光が反射して降り注いできていて、それが魔法みたいだ。
その出所は何処だろう、と思って、それらしき方向を振り返る。天井から多面体のランプが吊り下がっていて、揺れている金属のフレームには金色の光を放つ小さな何かが腰掛けていた。
物珍しそうに俺を見ている。妖精だろうか?
「ヨウスケ、あれ、ステーラ」
「ステーラ?」
「うん」
アンシールは言う。何のことだろう、よくわからない。ステーラ。
「あれは、セザーナ」
彼女は店の外を指差した。そこには、相変わらず何かを地面に向かって投げつけている老婆がいる。その足元に、魚の尾。
何だろう、超常現象だろうか。
「あ、あれは、シルディアナ、ここ!」
彼女の繊細でしなやかな指が差した先、壁に掛けられた額のようなものの中に、それはあった。
地図。
衝撃を受けた。若しかしたら俺が一番見たくないものだったかもしれない。
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