3


 それから、二人と一緒に表に連れ出された。それはもう美しい朝だった。


 視界は様々なもので溢れている。


 アンシールが指差した先、空に浮かぶ“太陽”に少し目を焼かれつつ“空”の薄青を振り仰ぎ、その中を“フェイリア”する“サヴォラ”を見ながら“俺達”は平らに補正された“石畳”の“上”を“歩き”始める。俺がペンとノートを片手に時々立ち止まるものだから、ゆっくりではあるけれど。


 たった今出てきた建物の端、入り口の上には透かし彫りの金属の看板がついていた。ペガサスと言っていいのだろうか、背に翼のついた馬が眠っているマークだ。アンシールは看板を指差して、念押しするかのようにもう一回“宿屋”と言ってくれた。


「アンシール、“ありがとう”」


「うん!」


 彼女の笑顔も太陽のように眩しい。コルセットスカートの裾がまるで花が咲くようにふわりと翻って、レースの模様が鮮やかに網膜を焼いた。通じることがこんなに嬉しくて、安心するものだとは思わなかった。


 大きな塔が沢山あるからか、都会のビル風宜しく、その間を強い風が吹き抜けている。塔の周囲には光の輪のようなものが複雑な模様を描いて点滅しながらくるくると回転していて、どういう仕組みになっているのか興味をそそられる。


 その上から、またサヴォラが飛び立った。銀色に輝く塗装を施された美しい機体に、金色で竜とハイビスカスのような花が描かれているのが見える。視力だけはいいからそこまで確認出来た。


 コウモリなのかドラゴンなのかよくわからない翼の形がはっきり見えたけれど、それは光だけで構成されているようだ。どうやって飛んでいるのか不思議だ。


「ヨウスケ、あそこ“噴水”」


「ヨウスケ! あれは“屋台”だ! ドラコシヴァグ!」


 ドラコシヴァグって一体何だろう。アンシールとナグラスはひっきりなしに話し掛けてくる。“大通り”に出て、右や左を確認する二人に倣ってみたら、巨大な生き物がバスのようなものを牽いて、あっという間に駆け抜けていった。


 辛うじて見えたのは角と鱗。何だ、あれ。


「アンシール! あれ、何だ!」


「ヨウスケ、あれ、ドラコス」


 彼女曰く、ドラコス。竜、と言ったところか。じゃあ、ドラコシヴァグって、語形変化からして竜の肉をどうにかしたものだったりするのか?


 暫く歩いていくと、翼のない竜らしき生き物がバス――としか俺には形容出来なかった――を牽いたままそこに停止していた。その背には長い黒髪の女が一人座っていて、竜の口に咥えられた男を叱っているようだ。無賃乗車でもしようとしたのだろうか、しかし、そういう輩は竜が捕らえてしまうらしい……現に、尾がこっそり立ち去ろうとしていたもう一人をさっと浚った。よくよく見ると竜の長い首には何か袋のようなものが引っ掛けられていて、降りた人達がそこに金銭を投入しているらしく、チャリンチャリンと景気のいい音が聞こえてくる。人力車よろしく竜車と言えば適切だろうか。


 当の竜は尻尾と口で玩具を振り回していて、楽しそうである。


「ヨウスケ、あれは“馬鹿”な“人”で“お金”を“払う”のを“やらない”」


「“金を払わない馬鹿な奴”」


「うん、ヨウスケ“上手”」


 どうやら、今しがた聴いた単語の順番を変えてもしっかり通じるようだ。文法は割と融通が利くつくりなのだろうか?


 その辺に並んでいる屋台の前で立ち止まったナグラスが、くすんだ丸い貨幣と引き換えに、何かの串焼きを数本買ってきた。


「ドラコシヴァグ! ヨウスケ“食べる”!」


「ナグラス、ありがとう!」


 食べろ、ということだろう。俺は今まで聴いた新しい単語を全部書き留めてから、肩に下げていた鞄の中にノートとペンを仕舞って、それを受け取った。どうでもいいけどこの料理人は身体だけじゃなくて声もでかい。だけど、うるさいわけではなくて、丹田に気合いを注入される感じだ……言うならば、某太陽神みたいな。


 ドラコシヴァグ。串焼き。見た感じは焼き鳥であるが、竜の肉である疑惑が俺の中で浮上している。竜車を牽引するくらいの強い力を持つようなあれを喰らうというのだろうか、しかも、屋台で普通に売っているから、もしかしたら今俺がいるのはとんでもない所なのかもしれない。竜を食うぐらい強い人々が高度に発達した文明を持ったらこんな感じになるのだろうか?


 ちょっと恐ろしくなってきた俺の心中などどうでもいいと言わんばかりに、何かの肉に絡んだ褐色のタレが肉汁と絡み、陽光を反射してきらりと輝く。取り敢えず美味そうだった。


 ちらっとアンシールとナグラスを見たら、笑顔で肉を咀嚼していた。強い人々の子孫も普通な気がしてくる。


 ええい、ままよ。俺は口を開けてかぶりついた。


 弾力。しかし歯はすっと通っていく。えぐみはない。甘みの強い脂身がまったりと舌に絡みついてくるけれど、胸焼けする程のしつこさではなく、上品だ。あと甘辛くて不思議に清涼感のあるスパイスのきいたタレの味が。味が。


 うめえ。何だこれ。


「シヴァグ、“美味しい”」


 アンシールが打ち震える俺の顔を覗き込んでいた。噛めば噛む程に湧き出てくる上品な旨味と脂身とスパイスの効いた甘辛いタレの波状攻撃。


「うん……これは“美味しい”」


「ヨウスケ、上手だね」


 俺は美味しいという言葉を衝撃と共に覚えた。屋台レベルでこれってどうかしていると思う。屋台効果かもしれないけれど。ついでに褒められると気分が良くなるので、もっと文章を喋って会話を繋げたいと思った。可愛い女の子と意思疎通が出来るのがポテンシャルのもと。


 手を拭いて屋台の店主に“ありがとう”を言ってから、再び俺達は歩き始めた。


 からっとしているが、この街は結構暑い。首元に汗をかき始めたので、俺は急いでネクタイを外した。


「ネクタイ“取る”?」


 アンシールが興味津々で覗き込んでくる。首に巻いていた部分を触ってきて、結び目の癖を確かめ、それから腕を動かすのだ。


「“結ぶ”?」


「結ぶ、これ」


 暑くて外したところだけどまあいいや。俺はネクタイをもう一度結んでから、また解いてみせた。手を差し出してくるので渡してみると、ブラウスの襟の下に自分で巻き始める。おぼつかない手取りで頑張ろうとするのが可愛くて、思わず笑ったら、拗ねた顔をされた。


「あ、“ごめんなさい”」


「……ヨウスケ、“教える”、“私に”」


 むっすりとした表情も可愛い。ほっそりした首元に手を伸ばしてネクタイの結び方を“これ”とか“ここ”という言葉ばっかりを使ってゆっくり説明した。時々当たる腕の柔らかさやブラウス越しに感じる首元の柔らかさにちょっとドキッとするのは、俺がまだ若い証拠か。いや、これだけ可愛い子なのだからしょうがない。当の本人にとって他人と接触することはさして特別なことでもないらしく、熱心に首元を観察していたが。


 結んだものをもう一度解いて、自分で結び直して、彼女はそれを三回繰り返す。ようやっと俺のネクタイを綺麗に首に結べるようになったアンシールは、満足そうにこう言った。


「“貴方は”、“私に”、“教えた”」


 おっと、語尾が変化した。若しかしてこれは過去形か。


「“私”は、“教えた”、“貴方に”」


「ヨウスケ、上手」


 幾つかの言語をしっかり勉強しておいてよかったと思うのは、言葉の語形変化を伴う目的語であると咄嗟に理解出来た点だ。俺は慌ててノートとペンを取り出してその変化を書き留めようとしたが、インクが掠れた。見れば、ボールペンの内部のカートリッジが空になっていた。


「……終わった」

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