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突っ伏している場合じゃなかった。俺はもう一回顔を上げて、それから左手に深皿を、右手に匙を持って、文字通りスープごはんを流し込んだ。いつの頃だったかそういう名称のチルド料理がコンビニの弁当コーナーで売っていて、飲み会の後に買って帰ってその翌日の朝食なんかにしていたけれど、とんでもない、比較するのも失礼なレベルで美味しい。
意味が分からないくらい満たされる、これは何だろう。身体の奥に生命の炎が灯る瞬間を味わって、全ての恵みを享受した賢者の如く、長い溜め息が出た。
俺は堪能した。ついでにもう一回突っ伏した。
何か声が聞こえて、背中に手が当てられた。ちょっと覚えのある繊細な感触なので多分美女だろう、心配しているのだろうか。俺は大丈夫だと言いたかったが、そういえば、言葉が通じないのだ。
由々しき事態だ。飯に対する礼も言えないぞ、これ。
と、雷鳴のような大声が響いたので、俺はびっくりして顔を上げた。心配そうな顔をした大男が横から身を乗り出して俺を覗き込んでいて、その顔の怖さに、うっかり飛び跳ねた。ベッドの上に橋渡しされた板が膝に当たって痛そうな音を立てたし、痛い。
あんまり関係ないかもしれないけれど、中学の時に部活で故障したこともあるので尚更気を付けたい部位だ。両膝をさすっていると、美女の手が伸びてきて、一緒に撫でてくれる。
俺は気付いた。
「……同じ?」
地球では、住んでいる土地によって手招きの仕方が違う。頭を撫でられることを良しとしない文化があったりもする。
患部を撫でる、という行為が、手当てや痛みの軽減と同じような意味を持つのなら? 俺は思わず声に出して呟いていた。
「……待てよ、ある程度なら通じる?」
この土地のジェスチャーにどこまで合わせられるかは未知数だけれど、帰り道くらいは見付けられるかもしれない。彼女は今いないけれど、離れて暮らしている両親や友人、仕事仲間に心配を掛けることになるのは本意ではない。
俺は人差し指を立てて自分を指差した。
「ヨウスケ」
美女が首を傾げる。
「ヨウスケ、サイトウ」
「……ヨースケ?」
俺は頷く。日本人の名前だから耳慣れないのだろうか、ここのネーミングは少なくとも東洋風じゃないらしい。どこの国かわからないけれど。
「ヨ、ウ、ス、ケ」
はっとした表情になった美女はにっこりして、拳から親指を引き抜き、彼女自身の胸の谷間の上をつつく。サムズアップと同じだ。
「ヨウスケ、アンシール」
まるで、最後に巻き舌のような音を喉の奥に呑み込むような。英語の発音に似ているだろうか?
「アンシール?」
俺がそれを復唱すると、美女は頷いてにっこりした。肯定が頷きで表すことが出来るというのも、どうやら同じみたいだ。
「ヨウスケ、ナグラス!」
雷鳴のような大声に驚いて顔を上げれば、アンシール、という名であるらしい美女と同じポーズで、大男が胸を張って仁王立ちをしている。
どうやら、そんなに警戒しなくてもよさそうだった。
スプーン、椀、盆、板、寝台、椅子、カーテン、窓、鞄。
ついでにさっきの料理の名前は、スープの方が“ドラコシプラ・ヴァルセーズ”で、炊き込みご飯っぽいものの方が“ヴァルセプラ”というらしい。何だろう、響きはフランス語っぽいものに似た感じだけれど、色々な単語を縮めてそのまま全部盛ったような印象だ。こいつは思ったよりカロリーの高い言語かもしれない。
俺が色々なものを指差すと、色々な名前が、アンシールかナグラスの声で返ってくる。俺はそれを復唱していく。その過程で“はい”や“いいえ”や“ありがとう”や“ごめんなさい”という肯定や否定、感謝や謝罪の言葉なんかも出てきた。
キャパシティをオーバーしつつあったので、俺は返して貰った私物の鞄から仕事用のノートと筆記用具を取り出して、指差して訊いたこと全てをカタカナで書いていった。因みに、スマホは画面が破壊されていて見るも無残な状態になっていたし、USBもそれ単品では使えないので、手持ちのデジタル機器に関しては終わった。そこでまた頭を抱えたら、アンシールが背中をさすってくれたので、ちょっとは慰められたような気がする。
ついでに、 “自分”を表す単語が親指の名称、“あなた”を表す単語がその文字列を反転させたものであることも教えてもらった。自分以外のものを指差す時は人差し指を使うらしいので、“それ”という言葉はおそらく人差し指の名前からきているかもしれない、と予想をつける。今はまだ単語しか理解出来ないけれど。
中学生になるちょっと前に英単語をやらされた時よりも難しいと思うのは、聞いたことのない響きしかそこにない上に、日本語訳を自分で当て嵌めていかなければならない点だ、と俺は思う。だけど、単語が分かればどうとでもなる、と、誰かが言っていたような気はする。気がするだけかもしれない。
「宿屋」
床を指差せば、横になって眠るようなポーズと一緒に、二人が単語を言ったので、何とか理解出来た。俺が今いるのは宿屋らしい。ついでに、床を指差すと建物の機能の名前が返ってくるようだ。それも注釈としてノートに書き足しておいた。
二人が俺の持っている筆記用具にさしたる関心を示さなかったのが不思議だ。ボールペンもノートも珍しくはないのだろう、ついでに、ノートやペンに関する言葉もさらっと教えて貰った。ただ、文字に関しては不思議そうに首を傾げていたけれど、すぐに飽きた。
彼らはわからない言語があることに頓着しない。もしかしたら、二人にとってわからない言葉を話す人が、二人の身近には当たり前のように存在しているのかもしれない。何処へ行っても同じ言語で通せるような統一された国じゃなくって、読めない文字が沢山あったりするような。
多民族国家なのだろうか?
ところで、アンシールは俺のネクタイに興味があるのか、宝石みたいな青い目が俺の首元をちらちら見ている。ここにはこういうアイテムはないのだろうか。やがて、耐えかねたように、聴いたことのない何かを彼女が口走ったおかげで、俺は“何?”という問いかけを手に入れた。カタカナで表し辛いことこの上ない発音だ。
「ネクタイ」
彼女が眉をひそめた。そりゃそうだ、知らないものだしな。
「ネクタイ?」
「そう」
“はい”という言葉は“そうだよ”とか“うん”と言っているのと同じと考えてもいいだろう。取り敢えずそれは理解出来た。
そこから、着ている服の話になった。背中が剥き出しになるエプロンみたいな下着みたいな前掛けは“胴着”と表現した方がいいかもしれない。肌に直接触れるものだけれど、下着と違って直接見せているからだ。この胴着の上にもう一枚羽織ることがあるらしく、ナグラスがそれを持ってきて見せてくれた。薄い羽織だ。
ズボン、スカート、ブラウスなどの名前も教えて貰った。俺の頭の中で馴染みのある名前に変換していくのは結構な頭脳労働だけれど、それを知らないと生きていけない。あっち、あそこ、こっち、ここ、そっち、そこ。あれ、これ、それ。近くにあるものと遠くにあるもの。
「ヨウスケ、あっち」
と、アンシールは外を指差す。開かれた窓からはからっとした爽やかな風が吹き込んできていて、ちょっとくすんだ青空が見えた。その下には白い屋根の街並み。東京に大量にある高層ビルみたいとまではいかないけれど、所々に高い塔のようなものが立ち並んでいる。その先端や中腹から、何かが飛び立った。
「あれ、サヴォラ」
サヴォラ。俺は立ち上がった。窓辺に手を掛けて目を凝らした先に、半透明の翼を優雅に拡げる、金属の機械のようなもの。ピザ屋のバイクとモータースポーツの四輪を足して流線型にしたような形の機体、横に取り付けられた噴出口。前後の二人乗りらしい。
小型飛行機。
「サヴォラ、フェイリア」
「フェイリア?」
アンシールは両手をぱたぱたと上下に動かした。それはまるで鳥が飛ぶかのように。
「フェイリア」
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