俺は勇者になれない
1
目を開けると知らない天井が視界に飛び込んできた。
知っている、というか、はっきりと覚えている天井は今まで二つ――通っていた学校やら大学やらの天井とかもぼんやり覚えているけれどそれは置いておこう――あった。壁と同じ白い壁紙が貼られたひっかき傷みたいな模様の自宅のやつと、黒い虫みたいな模様が点々とついている会社のアレだ……あの模様、正式名称があった筈だけど、残念ながら忘れた。
だって、見えているのは濃い色の木だから。
木製。木造だぜ。日本なら、田舎の小学校でも今時コンクリだ。
そんなことを考えながら起き上がった。どうやらベッドの上に寝かされていたらしい。ついでに俺は何でこうなったのかも思い出した、頭を打ったのだ。その瞬間後頭部がズキンと痛んで、思わずそこを右手で押さえて呻いたら、すぐ左で物音がする。
「何だ!?」
慌ててそっちを向いたら、何だか見覚えのある金髪。それがぴょんと宙に舞って、上げられた顔は、西洋っぽい顔つきの美女だ。
リボン付きのノースリーブのブラウスにはセーラーっぽいけどちょっと違う形の襟が付いていて、きゅっとくびれにフィットしているコルセットスカートは、縁に金の糸で花とか葉っぱの模様が刺繍されている。ちょうどよさそうなサイズの胸に抱いているのは俺の鞄――ブラウスの下だけれど、鞄の上に乗っかっているのでわかるのだ、多分Dカップくらいだな!
美女は何かを言った。わからない。俺だって大学でちょっとドイツ語をやっていたけれど、聞こえてくる言語はそれじゃない。ゲルマン系でもラテン系でもないような気がするぞこれ。じゃあ何処だよ。服装から判断して大陸の北の方でもなさそうだし、地球の北半球は秋だし。俺が表参道を歩いていた時はスーツのジャケットも着ていたし。南半球か?
「……どうしよう」
「ドウシヨウ?」
思わず呟いたら、可愛い声が返ってきて、首を傾げられた。破壊力は凄まじいな。目が青くて宝石みたいにキラキラしているのもポイントが高いぞ、あれ何だっけ、希少過ぎて値段がつけられないとかいうヤバい宝石、そう、コルコンダトルマリン、青みがかった緑。
来たことのない場所だ。俺は外国へ行ったことが一度もない。どこかもわからない。
日本語も通じない。
「終わった」
ついでに後頭部を打って寝ていたなどと。プレゼンなんてなかった。ここから会社に行ける手段なんてわかんねえけどな!
「詰んだわ……」
頭を抱えて濁った息を吐いていたら、背中を優しく叩かれた。見れば、美女が心配そうな表情で此方を覗き込んでいる。取り敢えず心配してくれていることはわかったので、曖昧に微笑んでおいた。そしたら、何だか難しい顔をされた。
「どうしろってんだろうな」
何を言っても通じねえな、これ。俺は笑顔のまま言っておいた。ここは何処の外国だろう。外に出て手あたり次第に色んな人に話しかけてみるのが一番いいかと思ったけれど、さて、美女の目は俺の首元からぶら下がっているネクタイを見ている。珍しいのだろうか。
と、その時、勢いよくドアの開く音がした。美女が振り返って、ナグラス、と元気の良い声を出した時、俺の鼻が感知するのは、料理の香り。
メシか。誰にだ。
目の前に来たのは大男だった。ヤクザも裸足で逃げ出しそうなレベルのいかつい髭面。筋骨隆々とした体躯に、身体の前だけを隠している布みたいな服を身に付けていて、下はズボンと革のサンダルだ。その両手には盆と、水を入れた何かオシャレな容器。
美女がベッドの柵の上、俺の肘の下にどん、と板を置いて、大男が何かを言いながら、俺の目の前にどん、と置いたのは、盆と水の容器。
盆の上に乗っているのは深皿と椀、手前にある金属の匙はスプーンみたいな形だ。深皿の中を覗き込んで、俺は驚いた。
「……米!?」
薄く色が付いていて、何かの具も入っているが、間違いなく米の形だった。アジアの何処かだろうか、と思える。椀の中を見れば、こっちはどうやらスープのようだ。薄く澄んだ橙色の中に、何かの肉が入っている。
いかつい男を見上げれば、何かよくわからないことを言いながら、にこにこ笑っている。
食えってことか。
「……いただきます」
ええい。
俺は匙を手に取って、炊き込みご飯っぽいものの中に突っ込んだ。
その瞬間に、ふわっ、と立ち昇る香りが鼻腔を刺激する。日本じゃないなあ、っていう雰囲気の、何かのスパイス。植物っぽいと思ったけれど、よく考えたらスパイスは植物である。具は野菜と肉だけれど、何の肉だろう、ぽそぽそと崩れていって、油の照りも控えめだ、鶏、それも胸肉っぽい。焼肉丼とか、角煮丼――ついでに言っておくと俺はどんぶりものが好きだ――みたいなこってりした感じではない。見たところ、鶏肉の炊き込みご飯に似ているような気がする、だってこの橙色の角切り、人参っぽくないか。あとこれどう考えても玉葱だろ。地球じゃねえか。
一通り観察してから口の中に放り込んだ。ままよ。
一発目からすげえ異国料理だった。
「……うめえ」
スパイスの風味と米が絶妙にマッチしている。炊き具合はちょっと硬めだけれど、それがちょうどいい。胡椒っぽいのと、何かバジルっぽいのと、あと香り高い何かよくわからない……取り敢えず何か。二口目、肉もいい。口の中であっという間に崩れていった、味付けは醬油とソースの合いの子みたいな感じだけれど、複雑すぎて俺の語彙力が死んでいる。三口目、こうじゃないかと睨んでいた野菜の味は人参と玉葱で間違いなかったけれど、一つだけわからないものが入っていた。葉っぱだけど面白い味の葉っぱだ。四口目。何だこれ。
何だこれ。
深皿に触れた手がうっかり震える。盆がせっかちな音を立てたけれどそんなことはどうでもよかった、椀に手を伸ばす。スープが黄金色に煌いて、気が付けば、視界の右側にある窓の向こうに、朝日が昇っていた。
そうして、俺は、朝の涙を啜る。
「うめえ……」
口腔内に拡がった肉の旨味と、大量の野菜の風味が、硬めに炊かれた米を喉に向かって優しく洗い流していく。意味が分からない。匙で底に沈んでいる肉をひとつ浚って口の中に放り込んだら、舌の上であっという間に溶けた。何の肉だ。牛テールかと思ったけれど違う。豚でも鶏でもない。
もう一口飲んだ。その熱さが身体中に染み渡っていく。溜め息と一緒に謎の満足が吐き出されて、空気と溶け合って、身体を包んでいく。
凄まじい幸福感だ。
そして思うのだ、このスープをこの炊き込みご飯もどきの中に注いだらどうなるだろう。ちらっと大男を見ると、相変わらず微笑んでいる。目が合った。
俺は視線を合わせたまま、深皿の上で椀を少しだけ傾けた。大男がにやりと笑って、顎をしゃくった。
やっていいのか。
「では、失礼します」
「シツレイシマス?」
首を傾げてそんなことを繰り返した美女の前で、俺は椀を傾けて、炊き込みご飯をスープで満たしていく。そうして、匙を深皿の中に突っ込んで、混ぜる。
日本だったら行儀の悪い真似である。だけど、ここではそうでもないみたいだ。
そうして、俺は黄金のスープに浸って輝く大地の恵みを糧にする。
それほどまでに、その合わせ技は衝撃だった。
飲み込んで、俺は突っ伏した。
「……マジか」
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