酒場「竜の角」へようこそ!

久遠マリ

プロローグ

乾杯なんてしている場合ではない

 ああ、ここは祭りの会場だろうか?


 渋谷だから有り得るなあ、と、一瞬で、俺はそう思った。いや、表参道を歩いていた筈だった。一瞬前に見たのは、下げてもいないヘッドライトの眩しい光だったような気がしたけれど、トラックじゃなくて?


 目の前には石畳。石畳なんて日本ではあまり見られないだろう、と、俺の冷静な部分が醒めた声で、脳の隅っこから声を掛けてくる。いや、東京にだってレンガブロックみたいな道はあるけれど、こっちは天然の石みたいだ。大きさの揃っていない石が何かで割と綺麗に接着されている、ちょっと高いところから降りたら足の裏がジーンと痛くなるやつだ。


 そこら中に散乱しているのは何だろうか、触ってみれば、金属のような艶。祭りの会場にしては物騒だ、そう思って、よく見ようとその欠片を持ち上げて、落として、そうしてやっと指が震えていることに気付いた。


「……え?」


 叫び声とざわめきが遠く感じる。さっきまで持っていた自分の鞄が傍に落ちていて、それが誰かの手に抱え上げられた。


 俺は追いかけようとしたが、立ち上がることが出来ない。


「待ってくれ」


 大事な書類がデータのままあの中にあるのだ。持ち帰ったプレゼンの資料。明日に迫っている。部長の期待もかかっている。


「おい、俺の鞄」


 差し伸べた手を取られた、その向こうから覗き込んでくる人は、俺の顔を見て、何かを言った。


「……何だって?」


 訊いたら、返ってきたのは怪訝な表情。また、何かを言われた。何だって、何のことだろう、イェーリュ……ケイルン、ラ、ライー?


 意味が分からない。何もわからないまま、首を振って、左を向く。


 何かが光っている。人?


「緑……?」


 そう、明るい緑に光る人が何かを抱え上げて、飛んでいく。沢山の布を着て、綺麗な緑の髪を靡かせて、飛んでいく。俺はその先を見上げた。


 聳え立つ、美しい尖塔。


 石と鋼が不思議に組み合わさった、巨大な建造物。


「……は?」


 いや、六百三十一メートルもあるあの電波塔よりは小さいけれど。


 一瞬、中世ヨーロッパみたいなゴシック建築の亜種かと思ったけれど、違う。竜みたいな彫刻があっちにもこっちにもあった。この建造物は増築を繰り返しているのか、柱の造りやデザインが何だか不揃いだし、石の方が圧倒的に太くて、分厚い。


 建物と建物の間にある橋は高くて、その間に広場のような空間もあって、木々や噴水の水なんかが見えた。空中庭園って呼びたくなるやつだ、ゲームとかで時々見るアレ。


 それなのに、変じゃない。そう思った瞬間だった。


 明るい緑の光が、俺の周りからぶわっと、物凄い勢いで羽ばたいた。


「うわっ!」


 オオカバマダラだっけ、そんな蝶みたいだ。緑に輝く人を追って、その光はあっという間に光の竜巻を起こして、風を生んだ。スーツの裾が巻き上がる、ネクタイが顔に当たって痛い――


「何、何、何だ!?」


 思わず大声を出したら、肩をぐっと掴まれた。揺すられて、顔を覗き込まれて、初めて相手が女だということに気付いた――リボン付きのノースリーブのブラウスにコルセットスカート、西洋っぽい外国人顔の金髪だと!?


「誰だ、お前、何処だ、ここ!?」


 おい、オクトーバーフェスタか!?


「何処だ!? グーテンターク!? ビールでも頼めばいいのか!?」


 女は何かを叫んでいるが、わからない。結構可愛いけれど、ちょっと衣装が違うな、乳が出てないぞ!?


「アイン、プロージット!?」


 ヤケクソで仰向けになろうとして、俺が最後に感じたのは、石畳と後頭部が打ち合う素晴らしい程の痛みだった。

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