第3話 日常に来たる者

 正樹にとって毎日は同じ繰り返しだった。

 それは学校でも同じだ。


 授業では先生の話を真面目に聞いてノートを取って、当てられれば答え、体育ではみんなと一緒に運動して男女ともに声援が送られる中をチームの一員となって行動し、返してもらうテストが良い成績なのも、休み時間になるとみんなが質問に集まるのもいつもと同じ平凡な光景だった。


「ねえ、相沢君。ここ教えてよ」

「うん、いいよ。ここはこうやって解くんだ」

「うわあ、相沢君って凄い」

「別にこれぐらい普通だよ」

「さすがは学者の息子だな」

「別にそれは関係ないと思うけど」

「次はこれを教えてくれ」

「おっけー、順番にな」


 そうこうしているうちに休み時間が終わる。またいつもの平凡な授業が繰り返される。そして、また一日が終わる。


 放課後になると部活の助っ人を頼まれるのもよくあることだった。授業が終わって賑わう教室で正樹は声を掛けられる。


「なあ、正樹。サッカー部の助っ人に来てくれよ」

「昨日も行っただろ。今日はパスだ」


 昨日の疲れがまだ抜けていないし、正式な部員でも無いのに毎日顔を出すのも気が引けた。正樹は断ることにした。


「残念だな。また今度頼むよ」

「ああ」


 サッカー部の部員の彼はたいして気を悪くした風もなく教室を出ていった。

 部活に行くクラスメイトを見送って正樹は帰る用意をする。


 ふと目に入った光景があった。正樹は手を止めて教室の前へと向かった。

 今日の日直の少女が黒板の上の方が消せなくて困っていた。背伸びをしても届く場所ではない。

 正樹は空いている黒板消しを取って、上の方を消してやった。

 背の低い日直の少女が不思議そうに見るのを、正樹は見下ろして言う。


「届かないなら誰かに手伝ってもらうといいよ。言えば誰か手伝ってくれるからね」

「うん、ありがとう相沢君」


 取り立てて何てことのないお礼を言われて正樹は自分の席に戻った。鞄に荷物を纏めて立ち上がる。

 今日も特別なことなんて何も起きなかった。いつも通りの日常だ。


 正樹は鞄を片手に持って教室を出ていく。

 賑やかな活気で溢れる放課後の校舎の中を歩いていく。

 学生ならどこにでもあるごく普通の日常の光景だった。




 天使の少女ミンティシアは翼を広げて空を飛んでいく。

 都市を離れ、少し田舎っぽくなった。山のふもとに静かな村が広がっているのが見下ろす地上に伺えた。

 さらに飛んで山を一つ越えて別の町が見えてくる。


「この辺りだったかな」


 目的地の上空に到着する。ターゲットはこの町のどこかにいるはずだ。


「でも、その前に……確認しておこうかな」


 ミンティシアは少し考える。

 まだ資料を全部読んでいなかった。何せミンティシアにとっては始めての人類との邂逅だ。

 ドラマチックに天使らしくきちんと使命を果たすために。ターゲットに接触する前に一度きちんと読んでおこうと思った。

 普通の住宅街の隙間にちょうど良さそうな空き地を見つけて、ミンティシアはそこに舞い降りることにした。

 空き地に横向きに重ねて置かれている土管のてっぺんに腰かけて、ミンティシアは資料を纏めて封筒から取り出した。

 A4の用紙に書かれている情報に一通り目を通していく。数枚の資料を最後までめくった。


「よし、覚えた」


 読める所は読んで、面倒な所は読み飛ばした。

 ミンティシアがこの近くだと睨んだ通り、今前方にある道路はターゲットの通る通学路だ。

 ここで張っていれば彼は通過するはず。

 待っている間にミンティシアは学校の天使ならみんな持っているエンジェルスマホでカオンと連絡を取ってからゲームしようと思っていたのだが、取り出す暇も無かった。

 ターゲットが前方の道路を横切っていくのが見えたのだ。あっという間に通り過ぎて空き地の土管に座っているミンティシアの視界から見えなくなってしまう。


「待って待って待ってー!」


 ミンティシアは慌てて立ち上がって土管から飛び降りた。




 正樹は道を歩いていく。毎日歩きなれた通学路だ。

 朝一緒に登校した優は今頃友達と仲良く部活をしていることだろう。自分はこのまま帰るだけ。

 そう思っていたのだが、


「待って待って待ってー! そこの少年ちょっと待ってよー!」


 今日は知らない声に呼び止められた。少女の声だった。

 周囲に他の通行人の姿は無い。


「ん? 僕か?」


 どうやら自分が呼ばれているようなので正樹は足を止めて振り返った。

 空色の髪が揺れた。

 そこにいたのは知らない少女だった。息を荒げて立っていた。空のように青い髪、白い雲のようにふわりとした服、その背には飾りだろうか天使のような白い翼があった。

 何かのキャラのコスプレをしているのだろうか。一目見て自分とは関わりの無さそうな奴だと思った。

 だが、待てと言われたのだ。話ぐらいは聞いてやろうと思った。


「僕に何か用?」


 見たところ相手は同い年か年下のように見えたので堅苦しい敬語は使わないことにした。優と仲良くなれそうだなと思って正樹は話しかけた。

 彼女は息を整えてから顔を上げて言った。とても元気な明るい瞳だと思った。


「あなた、相沢正樹さんでしょう!?」

「そうだけど?」


 知らない人に知られているというのは不思議な気分だった。何となく好奇心を刺激された。

 少女は気にせず胸に手を当てて堂々と言い放った。


「あたし、ミンティシア・シルヴェール! あなたに愛を伝えるために天界から来た天使なの! 愛! してください!」


 ミンティシアと名乗った少女は両手の指を合わせてハートマークを作ってパチリとウインクする。正樹は見えないハートを避けるように身をそらせた。

 神様のようにバッチリと決まったと思ったのはミンティシアだけだった。

 正樹は何となく寒気がしていた。敏感な彼は不穏なことに巻き込まれそうな空気を察知していた。


「愛ね。愛はしてるよ。両親とか」


 本能が言いしれない危険を告げていた。こいつは関わらない方が良い奴だと訴えていた。

 正樹は逃げようと踵を返すのだが、ミンティシアは素早く接近して回り込んできた。

 とても人間のスピードとは思えなかった。バスケでもあっさりと抜かせない正樹の背後にあっさりと回り込んだ。

 こいつは強敵だ。出来る奴だと感じる。決して友とは読まない。純粋な笑顔をしている少女なのに。正樹は久しく感じたことのない恐れを感じた。

 彼女の背の天使のような翼が動いていた。それは飾りのはずだからそれで機動力をアップさせたというわけではないだろうが。

 相手の正体を見極める間もなく緊張に息を呑む正樹の顔を、彼女は目をキラキラさせて見上げて訴えてきた。


「違うんです! そういう軽い愛じゃなくて、女の子を愛して欲しいんです! 心の底から世界を救えるぐらいに!」

「女の子って、君とか?」

「違いますよ! 人間が愛するのは人間に決まってるじゃないですか! 誰か良い人いないんですか!?」

「いや、そんなこと言われてもね」


 正樹の脳裏に一瞬優のことや初恋の人の思い出が蘇る。幼い頃に公園で会ったあの綺麗で優しい少女は今も元気でやっているのだろうか。

 気になったが今はそんなことを気にしている場合では無かった。

 ミンティシアと名乗った天使を自称する少女はさらに顔をぐいっと近づけて訴えてきた。

 目が近かった。キラキラしていた。純粋だからこそ恐れを抱いた。


「愛を忘れた何て悲しい人類なんでしょう! 地上から愛が失われつつあるのはやはり本当だった! でも、大丈夫。救うためにあたし達天使が地上に来たのですから! もう何の心配もありませんよ、安心です! 任せて!」

「え? お前みたいな奴がまだいるの?」


 正樹は思わず問い返していた。

 だとしたら恐怖だった。目の前にいるのと同類がまだ何人もいるのだと聞いたのだから。狼は一匹だけでは無かった。

 正樹の内面の思いも気にせず、ミンティシアは全く悪びれない笑顔をした。


「はい! 天使達は人間の味方です! どんと来い!」


 満面の笑みである。純粋な正義は純粋な悪にもなりうる。漫画で読んだ台詞を思い出す。

 正樹はじりじりと後ずさり、


「そういうの間に合っているんで。さよなら!」


 脱兎の如く駆けだした。


「あ、正樹さん。待ってくださいよー!」


 今度は正樹も待たなかった。様々な運動部の助っ人をこなすだけあって正樹は運動神経がいい。

 ミンティシアが見ている間にあっという間に姿が見えなくなってしまった。


「えっと、彼の家はどこだっけ」


 ミンティシアは落ち着いて資料を取り出した。

 一通りチェックしておいて良かった。どんな情報があるか知っていた。

 彼の自宅の場所を地図で見る。


「ここね、じゃあ行きますか」


 彼は家の方角に向かったようだ。ならば家に行けば会えるだろう。

 ミンティシアはそう予測を立てて、天使の翼を広げて飛び立った。




 その頃、カオンは資料で見た恐いお兄さんを見つけていた。

 路上のど真ん中を大股で歩く彼の姿を、そっと電柱の陰から伺う。

 必要な資料は揃っていたので、ターゲットを見つけるのはそう難しいことでは無かった。

 金色に染めた髪、派手なピアスやサングラス、悪い目付き、間違いない。彼だ。


「あの人でいいんだよね。良し」


 カオンは思い切って飛び出して声を掛けることにした。


「すみません、そこのお兄さん。待ってくださあい」

「ああん? なんだてめえは?」


 わりと小声で話しかけたのに、思いっきりガンを付けられてカオンはびびってしまった。言うべきことが頭から抜けそうになってしまう。

 それでも何とか言わなければならない。友達のミンティシアもきっと今頃は頑張っているはずだから。自分だけが出遅れるわけにはいかない。

 そう決意しようとしつつも内心の動揺を抑えきれず、カオンがまごまごあわあわとしていると、男はさらに踏み込んで因縁を付けてきた。


「人を呼び留めて何のつもりだ? 言いたいことがあるならさっさと言いやがれ! 時は金なりって言葉を知ってるか? てめえのせいで俺の金が無駄になるんだよ!」

「あの……ええっと……ですね……」

「煮え切らねえ嬢ちゃんだな。さっさと言えっつってんだよ! てめえの口は食べ物食うだけの口かってんだよ!」


 カオンはびびったが思い切って言う事にした。もう観念するしか無かった。天界の雲から飛び降りるような気持ちで、


「じゃあ、言います!」

「おう、言えや」

「はい……」


 もうどうにもならなかったので、カオンは天使の事情を正直に説明することにした。

 どう上手く話そうかなどと全く意識することが出来なかった。ただ起きた事実を並べていく。

 天界で起こった議論や、地上で愛が失われつつあることや、自分が来た目的などを。

 カオンの決して上手いとは言えない説明を男は最後まで聞いてくれた。


「そうか。あんたも大変なんだな」

「はい、みんなが大変なんです」

「愛ってことは彼女を作ればいいってことか?」

「愛の形は人それぞれだと思います」

「それぞれじゃねえよ! はっきり決めてこいや! お前の考えはどうなんだよ!」

「はい! わたしは人が人を愛することが最も清くて尊いことだと思っています!」

「へえ、あんたピュアなんだな」

「そうでしょうか。自分ではよく分かりません」

「俺に彼女を作れってか? それは今の目の前にいるあんたでも良いのか?」

「いえ、わたしは天使なので。人は人を愛するべきだと……わたしは思っています」

「そうかよ。じゃあ、仕方ねえか。ナンパにでも行くか。よう、嬢ちゃん。俺についてこいや」

「はい、よろしくお願いします」


 なんだか話が上手くいったようだ。カオンはおっかなびっくりしながら、大股で歩く彼の後についていくことにした。

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