第4話 あいつが自宅に来た
正樹は家に向かって走る。
家までダッシュするなんて何年ぶりのことだろうか。
小学の頃はたまに走った記憶があるが、高校に上がってからは始めてかもしれない。
正樹はすっかり変わらないぬるま湯の日常に慣れてしまっていた。今、久しぶりの危機を感じて家に駆けこむ。
自宅の玄関に入った正樹は外を確認する余裕も暇もなく素早くドアを閉めた。すぐに鍵も締める。外界と隔絶された感覚にひとまず一安心だ。
それでももう少しは離れようと、一階のリビングには寄らずに二階の自分の部屋に向かった。
さすがにここまでは追いかけては来ないだろう。
数分経っても異変は何も起きない。正樹は息を吐いた。
冷静さが戻ってきて自分は慌て過ぎて馬鹿だったんじゃないだろうかと思ってしまった。
冷静になって考えてよく思い起こせば、ただ可愛い女の子に声を掛けられて『女の子を愛して』と言われただけのことだった。
ただ言動や恰好が変で、動きが速かっただけで。相手はただの少女だった。
本能が危険を察知して逃げてきてしまったが、もっと理性を持ってちゃんとした大人の対応が出来たように思えた。
あの子はきっと何も知らない純粋無垢な子だったのだろう。きらきらとした笑顔を思い出して今そう思う。
だが、正樹は事態を甘く見ていた。動物の危険を察知する本能とは凄いものである。
それは理性や意識するよりも素早く的確に、動物達にやがて訪れる危険を察知させるものなのだ。
そして、全力の逃げを判断させた正樹の本能は正しかった。それを思い知ることになる。
「さすがに家の前までは来ていないよな」
正樹は窓のカーテンをそっと開けて外を見ようと思った。ちょっと確認しようと思っただけのことだった。
カーテンの布を指で摘まんでちょっと開ける。その時、いきなり人の大きさを持った生き物が窓の外を上昇してくるのが見えて正樹はびっくりしてカーテンを開けてしまって後ろへひっくり返ってしまった。
鳥よりも大きいのだ。鳥が目の前で羽ばたいただけでも結構驚くのに、人の姿をした生き物が、それに見合った大きな翼を羽ばたかせて飛んできたら誰だって驚く。それもいきなり現れたのだ。意識していた対象が。
ひっくり返って部屋の隅まで後退して言葉を失った正樹を誰も責めることは出来ないだろう。
その翼を持った人の姿をした生き物。ミンティシア・シルヴェールと名乗った天使を自称する少女は白鳥のように優雅にベランダへと降り立った。
彼女は相変わらず人の良い純粋な少女の顔をしていた。その目が窓の向こうから正樹を捉えた。
目が合って微笑まれた。彼女はとても清らかな天使のような笑顔をしていたが、正樹は怖気に背筋を震わせた。
少女の手が窓枠に掛けられるのを見て、正樹は鍵に目を移動させた。
良かった。鍵は閉まっている。いつも戸締りを確認してくれる優のおかげだ。正樹は安心するのだが。
「こういう時はこれを使えばいいんだっけ」
天使が何事かを呟いて鞄から何かを取り出した。羽の生えたスマホのような物だった。
それがエンジェルスマホと呼ばれる天界の天使ならみんな持っている道具であることを正樹は知らない。
だが、形状からそれっぽい物だと予想することは出来た。何をするんだろうと思っていたら、天使はそれを鍵の部分にピッと当てた。
するといかなる力が働いたのか、カチャっと軽快な音を立てて、勝手に窓の鍵が外れた。
「良し」
「良しじゃねえよお!」
正樹は急いで窓枠を抑えに掛かった。
ミンティシアは満足げに頷き、エンジェルスマホを鞄に締まってから片手で窓を押した。
「あ、押すものじゃなくて引く物でしたね」
すぐに縦から横へと動きを変えた。正樹はフェイントに騙された。
押し返そうと窓の中央に行った手はすぐには窓枠に戻らない。
手を放した隙に無情にもバルコニーの窓は開かれてしまった。天使の少女が部屋に踏み込んでくる。
「安心してください。怪しいものじゃありません!」
真面目な顔をして言われてもどうしろと言うのだろうか。常識外れの怪しい化け物に正樹は叫んだ。
「怪しいよ! あんたは一体何なんだ!」
「さっき道で言ったじゃないですか。聞き逃したならならまた言いますね。あたしは天使のミンティシア。愛を忘れつつある地上の人類に愛を伝えるために来たのです!」
「愛! あんたの言う愛ってなんだよ!」
「愛を知らないとは! 嘆かわしい。やはり地上の人類が愛を忘れつつあるという話は本当なのですね。でも、安心してください。それを教えるためにあたしが来たのだからあ!」
ミンティシアはダイビングするようにいきなり飛びついてきた。
大きな蚊を追い払おうとする正樹の手を両手で包み込んで、彼女は鼻息を荒くした顔をすぐ間近に近づけて訴えてきた。
「さあ、愛を知りましょう! まずはお互いを知るところから始めましょう! あなたにはそこからですね。宇宙人とだって仲良くはなれるんです。まずはこう指と指をくっつけてみましょう!」
ミンティシアは正樹の手首をがしっと掴んで動かそうとする。正樹は必死でのしかかってくる天使に抵抗した。
「知らないよ、そんなこと! それより離れてくれ!」
「離れません!」
「うえええ?」
「あなたは将来ビッグになると神に判断された選ばれし人類なのです! もしかしたら金メダルが取れるかもしれませんよ。そのあなたが愛を知らなくてどうするんですか! でも、安心してください! あたしが来た!」
「あんたが来たから安心できないんだ!!」
正樹は何とか彼女をどかそうとするが、ミンティシアの力は強かった。天使を自称するだけあって普通の少女とは違うのだろうか。
優と戦ったらどっちが強いのだろうか。幼馴染の顔を思い出して、どうでも良い事を考えてしまう。
手首を掴むミンティシアの手は振り切れない。翼が邪魔で彼女の背後もよく見えない。ミンティシアは訴えてくる。
「どうして逃げようとするんですか! まるで誰かに追われてるみたいに!」
「追ってきたのはあんただ!」
「大丈夫です! あたしは天使です! 愛のキューピッドなので、何も恐くはありません!」
「いや、天使って」
確かに彼女の背には白い翼があるが、だからといって天使なんてどうして信じられるだろう。
「お願いです。どうか心を安らかにして信じてください。あたしはあなたに愛を伝えにきたんです! だからおとなしくして!」
「愛って……」
この状況をどうすればいいのだろう。いっそ全力を出すか。
追い詰められていた正樹だったが、まだ全力を出してはいなかった。もし本気になったらこの子に怪我をさせてしまうかもしれないからだ。
女の子に怪我をさせるなんて、さすがにそれは男として出来なかったのだが。
「やむをえないか……」
正樹がそう決意して内なる力を呼び起こそうとした時、部屋の扉が勢いよく開いて知っている少女が現れた。
「お兄ちゃん! くっ、危険を察知して来てみれば!」
「優!」
幼馴染の優だ。何ということだろう。彼女は部活の途中であるにも関わらず、正樹のピンチを察知して駆けつけたのだ。
これも人の本能というものだろうか。
優は正樹を組み敷こうとするミンティシアを見る。ミンティシアもまた優を見た。
天使の少女は資料のデータに載っていた人間関係を思い出す。
「両親は海外へ出張中、妹はいなかったような……ええい、面倒です!」
資料に載っていた人間関係のグラフは無駄に複雑で、ミンティシアはもっと整理して欲しいと思ったものだ。
考えることを放棄して訊く。
「あなたは何者ですか! どうやってここに!」
「あたしはお兄ちゃんの親から合鍵を渡されているのよ!」
「まさかラブ!」
「っ!」
優は一瞬のうちに踏み込んできた。正樹が何を言う暇も無かった。
天使の目が信じられない者を見るように、瞬時に目前に立った少女を見る。
優の静かだが、熱さと鋭さの混じった鉄拳が……飛ぶ。
「ぐふっ」
天使の顎を捕える強烈なアッパー。天井まで上がるかと思ったが、優の鉄拳は天使に飛ぶことを許さない。
さらに無数の鉄拳の連打が宙に浮いた天使の体へと叩き込まれていく。何発だろう。正樹が考える暇も無かった。
「とどめえ! ファイナルアタッーーック!」
気が付けば天使の体は吹っ飛んで部屋の壁にぶつかって、ちょうど下にあったベッドへと落ちた。
褒めるべきだろう。壊れなかった壁を。日本の建築は立派だ。優が手加減したのかもしれない。天使の体ではなく家が壊れないようにと。
勝負はついたかのように思えた。
だが、あれほどのダメージを受けても天使は顔を上げた。
「おのれ、人間。愛を忘れた悲しい生き物め……いえ、ここから伝わる感情は愛?」
天使は殴られた頬を抑えて何かを感じ取ったようだった。
優は慎重に構える。その顔に緊張が増していた。
「どうやらもう家を壊さないように戦うなんて言っていられる状況ではないようね!」
「いや、家は壊さないでくれよ」
続きそうな戦いをどう止めようかと正樹は悩んでいた。もう心配は天使を自称する少女よりも家の事に及んでいた。
親の留守中に家が壊れるなんてとんでもない。それも崩壊、カタストロフとも呼べるレベルで。
だが、危惧した戦いは止んだ。天使の言葉と優の驚きによって。天使は戦いの構えを止めて、あっけらかんとした少女らしい笑みを浮かべた。
「理解しました。あなた、その人の事が好き」
「わーわーわーーー!!」
何を言ったのか正樹が聞き取る前に、優がいきなり叫んで天使の口を抑えていた。抑えられて天使は口をもごもごさせている。
しっかり抑えて、優は正樹の方に顔を上げて言った。
「お兄ちゃん、あたしこの人と話してくるから。いい?」
「ああ、平和的に解決してくれるなら嬉しいよ」
優は頼りになる。任せられるなら任せようと思った。
「あなたも良いよね?」
口を塞いでいる天使に訊く。優の手に口を抑えられながら天使はコクコクと頷いた。
優が天使を捕まえている。そのままの体勢を維持したまま二人は部屋の出口へ向かった。
「お兄ちゃん、あたし達が戻ってくるまでそこのヘッドホンで大音量で音楽でも聞いておいて」
「うん、そうするか」
何か聞かれたくない話でもするのだろうか。まあ、それぐらいのことならお安い御用だ。優なら信用できる。
正樹がヘッドホンするのを見て、
「おら、こっち来いや」
優は天使を一睨みして部屋の外へと連行していった。
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