第2話

 霧が晴れると、リクオは開けた場所にいるのがわかった。耳を澄ますと、水の音がする。川が近いのだろう。もしかしたら渓流かもしれない。探していた谷のそばまで来ているのかではないか。

 リクオは音のする方へと小走りした。だんだん、だんだん、はっきりと聞こえてくる水音に、リクオの胸は踊った。

 そして、足を滑らせた。

草が茂っていていたため、その下のぬかるみにまで気づけなかったのだ。

 右足に、ずるっという感触を感じたときにはもう、取り返しのつかないほど重心をかけていた。左足でふんばろうとしたが、踏ん張りきれず、結局の所、より勢いをもって滑りだした。

 ずるずる、ずるずるっと、まるで何かに引っ張られるようにリクオはずり落ちた。谷底へ。


「いたた……」

 リクオは、よいしょ、と立ち上がる。切り傷以外の変な痛みはなさそうで、痛いながらもほっとした。

 見上げると、崖と崖の細い切れ間に空があり、まるで天にかかる川のようだった。

 落ちた場所は、運良く草の茂っている場所だった。草地が切れると、砂利道になり、細いが清い川が流れている。

 リクオは、きっとここが探していた谷だろうと、声を張り上げた。

「おーい、母ちゃん、いるかー」

 しばらく待ってみたが、返事はない。聞こえるのは、風の音、川辺の草葉が擦れる音、水の音。それだけ。

「いないのかー?」

 リクオはもう一度声を張り上げる。が、やはり返事はない。

 いないのではないか、ここは本当にリクオの探し求めていた谷とは違うのではないか。リクオの中で不安な気持ちがどんどん膨れ上がっていく。

「いないのかなあ」

 リクオは、川辺に座り込んだ。風の音がする。

 何度かのため息をついて、リクオはふと思い出した。

 ばばさまは、龍は大穴を塞いでいると言っていた。穴を探せば、龍も、母ちゃんもいるはずだ。

 しかし、ぱっと見回したところで、それらしき大きな穴はない。

 それにしても、ピューピューと高い風の音が耳に障る。

 リクオはハッとした。強い風が吹く音はするのに、草はそう大して揺れていない。どこかから音だけが聞こえてきているのだ。

 笛のような音。穴から空気が漏れて聞こえる音、かもしれない。

 リクオは音を頼りに歩き始めた。どうやら、川の方から聞こえているらしい。川に近づき、更に確認すると、上流のほうがより音が大きい。

 リクオは上流に向けて川辺を進んだ。

 程なくすると、リクオは岩場に入り込んだ。大きな岩がゴロゴロと無造作に転がっていて、しかもそれぞれが安定して収まっているわけではなく、1つがずれると、近場の岩が一気に転がってしまう。一歩歩くとぐらり、二歩目の岩もぐらつくという繰り返し。

 リクオは、不安定な足場に注意しながら、慎重に歩みを進め、なんとか岩場を乗り切った。

 充足感を感じて眼の前を見たリクオは愕然とした。

 川がなくなっているのだ。

 眼の前には、雑草しか生えていない細い道と、両脇の切り立った崖しかない。風の音も、気づけば小さくなっている。

 リクオは、岩場にいる間に、その目的が音の源を探すことから岩場を乗り切ることに変わってしまっていたことに今さら気づき、肩を落とした。

「仕方ない、戻ろう」

 リクオはぐらつく岩場へと踵を返した。

「さて、と」

 リクオは、できるだけ高い岩を目指すことにした。まずは高い場所から川を探す作戦だ。

 一歩一歩慎重に、かといってゆっくり進みすぎると逆に足場がふらついてしまう。ちょうどいいバランス、速度を意識しながら、リクオは目当ての高い岩にたどり着くと、なんとかてっぺんまでよじ登った。

 落ちないように気をつけながら、あたりを見回す。

 何しろ細い川だ。この場所からでも川面は切れ切れにしか見えない。川の大まかな位置をなんとか確認すると、リクオは岩から降りようとした。

「あれ?」

 まずい、とリクオは直感し、慌てて岩に登り直した。岩は、大きくゆらありと動く。

「うわっ」

 慌てるリクオをよそに、岩は徐々に速度を上げて転がっていく。こうなると、玉乗り状態だ。リクオは、振り落とされないようになんとか足を繰り出しながら、途中で見つけた少し広い岩場に飛び移った。

 大岩はそのまま転がり続け、他の大岩に当たって半壊した。近くにあったいくつかの岩も、道連れとなって転がり落ちて、リクオがさっきまでいたあたりは、がらんどうの広場のようになってしまっている。

 逃げるタイミングが少しでも遅れていたら一体どうなっていたことやら。

 どっどっどっどっと、せわしなく打つ自分の脈が聞こえる。まるで心臓が耳元にあるみたいだ。リクオは何度か大きく深呼吸して、どうにか気持ちを落ち着かせた。

 そうして、リクオは先ほど確認した川の方へ踏み出した。もしまた同じような事態になったら、今度は無事でいられる自信はない。慌てず、でも遅すぎないよう、丁寧に、歩く。

 リクオはどうにか目当ての川にたどり着くと、その上流を探した。思ったとおり、そう遠くないところに、水の湧く場所を見つけることができた。

 リクオは耳を澄ます。

「やっぱり、ここからだよな~」

 リクオが言う、ここ、とは水源、泉そのものだ。リクオは腰を下ろし、水に手を伸ばした。

「ちょっと、あんた、何してんの?」

 リクオはぎょっとして、手を引っ込める。水面から、長い髪を浮かせ、顔半分だけ出した女がこっちを睨んでいる。

 唐突にそんなところから声をかけてくる相手のほうが、よっぽど何してるのか聞きたくなるが、リクオはびっくりしすぎてすんなり言葉が出てこない。

「え、いや、あの……」

 リクオが戸惑っているあいだに、女はスーッと水面から出てきて、リクオの正面に仁王立ちになった。水の中にいたというのに、髪も服も風になびいて揺れている。

「この泉は、龍の村の大事なもんだ。汚れた手で触るんじゃない!」

「ごめんなさい」

 女の迫力におされ、リクオは素直に謝った。

「わかればよろしい」

 女は、にかっと笑った。リクオもつられて笑顔になる。

「それはそうと。あんた誰?どこから来たの?こんな山奥に何の用?」

「おれはリクオ。山三つ南の村から、母ちゃんを探しに来たんだ」

「リクオ……。山三つ南の村……。」

 女の表情が固くなる。リクオは、そんな女の変化に気づかず尋ねた。

「おれ、龍の谷に行きたいんだけど、ここで合ってる?」

「龍の谷、そうね、そう呼ぶ人もいるわ」

「なら、龍もいるか?おれの母ちゃん、龍といるらしいんだ」

「龍はいない。見て分かるでしょ?それじゃあ、おかえり」

 女はリクオの背後に回ると、ぐいぐいと背中を押し出してくる。

「おばさん、やめてよ!」

「帰るなら、やめたげる」

「ヤだよ。母ちゃんを探すんだ」

「見て分かるだろ、いないものはいないんだ」

 しばらくもみ合ったが、女性とはいえ相手は大人。リクオの力では敵わない。

「いないのはわかったよ。他を探す」

「ほんとかい?」

 背中越しに、女の声がホッとしたのが分かる。

「ただ、喉乾いたから、水は飲ませて」

 女はリクオの言葉を聞いて油断したのだろう、ほんの一瞬力を抜いた。その隙を見逃さず、リクオはすっと川へ駆け寄った。リクオは顔を水面に近づける。

「ダメ!」

 女が叫んだ。リクオは構わず川に口づけしたその時、リクオの体はまるで煙のように軽くなり、泉へと吸い込まれた。

「リクオ!」

 こんな体からでも、慌てた女が駆け寄ってくるのが見える。視界は揺れ、消えてゆく。リクオは女の姿を目に焼き付けると、できる限り何度も反芻した。妙にくすぐったく、嬉しく思いながら。

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