龍の子
まよりば
第1話
「ばばさま、おれの母ちゃんが生きてるってほんとか?」
リクオは、ばばさまに迫った。
「また、おかしなことを言う」
ばばさまは、しわくちゃに垂れ下がったまぶたを珍しくピクリと動かして、黄色く濁った目を開けた。
「誰に聞いた?」
ガラガラのだみ声が、小屋の中で低く響く。
「シズオの父ちゃんが、ヤエの父ちゃんと話してた」
リクオはばばさまをしっかりと見た。ばばさまは、ふ、と口を歪める。
「あいつらかい。大方、酔っ払ってたんだろ」
「酔っ払ってなんかなかった!」
リクオは声を上げたが、ばばさまは聞いているのかいないのか、何も言わない。
リクオは9歳。母親はおらず、父親と一緒に暮らしている。ばばさまは、村の顔だ。不自由しがちなリクオと父親を、何かと世話してくれている。
「もし生きてるんなら、おれも、母ちゃんに会ってみたい」
「お前の母親はお前を産んだ時に死んだんだ。変な話をうのみにするんじゃない」
「でも……」
「でもじゃねえ。飯食って歯磨いて寝ろ」
リクオは肩を落として、囲炉裏に座った。鍋にはきのこや野菜がたっぷり煮込まれていて、塩焼きの魚も灰に刺さっている。
リクオはばばさまから取り分けてもらった分をあっというまに平らげると、そのまま横になって眠ってしまった。
「リクオが聞いちまったらしいぞ」
ばばさまの声がする。
「そうか」
父ちゃんは、そう言っただけだ。
「晩飯、世話になったな」
リクオは父ちゃんの肩に担がれた。夜道は暗く静かなのに、それでいて犬の遠吠えや風で揺れる木の葉のさざめきが響いている。リクオは父の肩の上で、起きてるのがバレないようにギュッと目を閉じた。深い溜め息が父ちゃんの口から漏れる。
「リクオ、母ちゃんに会いたいか?」
リクオは、間髪入れずに、もちろん!と答えた。
「やっぱり起きてたか」
父ちゃんは、ぶはっと笑って、リクオを肩からおろした。寒い夜道。二人で手を繋いで歩く。
「母ちゃん、生きてるんか?」
リクオは尋ねた。
「分からん」
父ちゃんは答える。凍える夜を照らす月明かりが、二人の息を白く浮かび上がらせる。
「お前の母ちゃんが生きてるかどうか、父ちゃんにも分からんのだ」
そうしているうちに二人が住んでいる小屋についた。小屋は、屋根があるだけ外よりかはまし、といったもので、外と大差ないくらい寒い。
父ちゃんが敷いてくれた薄い布団に、二人で入る。父ちゃんに抱かれるように包まれながら、リクオは再び眠っていた。
「……オ、リクオ……」
女の人が立っている。髪の長いその人は、後ろを向いたままこっちを見ない。
「あんた、誰だ?」
リクオは尋ねた。返事は無い。
「人を呼んどいて、ずっと後ろ向きっつーのはどうなんだ?」
リクオはイライラしながら、女の人の方へ進んでいくと、肩を掴んで引っ張った。
「こんな顔でも?」
振り向いた顔は、皮がそげ、血だらけで眼窩から眼球は零れ落ちそうになっていた。
リクオは絶叫する自分の声で目を覚ました。
「大丈夫か?」
父ちゃんが心配そうにリクオの顔を覗き込む。リクオは、うん、と気のない返事をして顔を洗いに外へ出た。
霜柱をザクザクと踏み潰しながら、井戸まで歩く。寒さで頭がスッキリし、悪夢をみた不快感は幾分薄れていた。
つるべを下ろし、水を汲み上げる。顔を洗い、口をすすぎ、リクオは腹を決めた。
「父ちゃん、母ちゃんはどこにいるんだ?俺、会いに行ってくる」
父ちゃんは、目をつぶって唸っている。
「父ちゃんってば!」
「ばばさまに聞け。俺も詳しくは知らんのだ」
リクオは家を飛び出すと、ばばさまの家の戸を叩いた。
「ばばさま!」
「リクオか、入れ」
リクオは立て付けの悪い戸を思いっきり引っ張って開けると、ばばさまに尋ねた。
「ばばさまは母ちゃんがどこにいるか知ってるのか?」
「その話はあとだ。戸を閉めろ、寒い」
リクオは慌てて戸を閉める。重い戸を力いっぱい引っ張ると、今度は思った以上に滑りがよく、衝撃がボロ屋全体を揺らした。
ばばさまは、家を壊す気か、とブツブツ呟いている。
「ばばさまっ!」
リクオはばばさまに迫った。
「お前の母親の話か」
ばばさまは、んーむと唸るとリクオの手をつかんだ。
「どうしても、知りたいのか?」
リクオは、そうだ、と頷く。
ばばさまは掴んだ手にギュッと力を込め、そしてぱっと離した。
「龍の谷にいるはずじゃ」
「龍の谷?」
「山を北に三つ超えた先にある谷じゃ。そこで龍に仕えて生活しとる」
「龍に仕えて?どうしてだ?」
「この村は龍の村。龍に守られて成り立っておる。龍がおらなんだらこの村は季節ごとの大嵐ですぐに滅びるじゃろう」
「龍は何をして守ってるんだ?」
「大穴を塞いでおるんじゃ。穴を塞げば嵐が止むでの」
「そうか」
リクオはきちんと座り直し、ばばさまに今まで世話になったと礼を述べ、頭を下げた。
「気をつけていけよ」
飛び出すように家を出たリクオを見送り、ばばさまは目頭を押さえてつぶやいた。
「最後まで忙しない子じゃ。戸の開け閉めくらい厳しくしつけるべきじゃったかの……」
ばばさまの家を出て、村を抜け、リクオは歩いた。山道を歩き、腹が減れば小さな獣や魚を捕まえたり、木の実や果実を食べた。歩けども歩けども同じような景色で、話す相手もいない。しかし、母に会えるかもしれないという期待感がリクオを高揚させ、寂しいだとか辛いという気持ちは殆ど起こらない。
父にすら会いたいと思わないことに、リクオは我ながら薄情な奴だと思わないでもなかったが、ただひたすら歩みを続けた。
獣道や、道なき道、大きな崖や川も越える。手や足を滑らせ、体中生傷だらけになりながら、それでもリクオは前を向くことをやめなかった。
何日、何十日と山道を進み続けるうち、リクオはいつしか深い霧の中にいた。霧は濃く、五歩先もはっきりとは見えない。昼になれば霧も晴れるかと思いきや、あまりの濃霧に日の光も届かず、昼と思しき時間になっても、ぼんやりと薄暗い世界が広がっているだけだった。
「なんだ、ここ」
太陽が見えないこの場所では、方角すらわからない。近くにあった木の幹をぐるっと見たが、苔は一方向ではなく、幹全体を覆っている。この辺りでは昼夜問わず陽の光が届いていないということなのだろう。
「北に行きたいのに……」
「北に行きたいのか?」
リクオのつぶやきを拾ったのか、声がした。若い、女の声だ。
「行きたい」
リクオは答えた。
「行ってどうする?」
誰かがリクオの耳元で囁いた。吐息が耳朶にかかってくすぐったい。リクオは耳をこする。
「母ちゃんに会いたいんだ」
「なるほどね~」
声の調子が変わった。なにやら、明るく、楽しげだ。
「お前、名前は?」
「おれ?リクオだ」
「お前がリクオか」
声は、興奮気味に、そうかそうかと笑いだした。
「なら良いだろう。お前の会いたい相手に会ってこい。そして、彼の人を我に返せ」
声がすると同時に、辺りの霧が一瞬にして晴れた。
「約束だぞ」
声は風に乗り、いくつもの小さな煌めく光になって霧散した。
「何だったんだ?」
戸惑うリクオだったが、辺りは何の変哲もない山道に戻っている。深く考えても仕様がなさそうなので、リクオは再び歩き始めた。
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