2日目 AM

 確かに金銭面では一任してるし、法律上の細々とした処理も任せっきりだ。だからと言って上司の部屋で、会社の備品をテーブルに投げつけるなんてどうかと思う。ガラスの天板は重くて固いタブレットに抗議して、びりびり長く尾を引き震えていた。

「なんだよ!」

「雑誌を閉じて真面目に話を聞け!」

 偉大なる『ハスラー』よ栄光あれ。哀れスイカおっぱいはエクセルの下敷きになる。これが本物だったら、シリコンバックが破裂して大変なことになってるぞ。


 メキシカーナのモロ見えヘアに一度だけ視線を落とした後、クリフはごほんと詰まったような咳払いをして姿勢を正した。

「せめてパソコンを睨むふりして、電子書籍を読むくらいのカモフラージュをしてくれ」

「俺は紙媒体が好きなんだ」

 夜寝る前に電気を消して見るなら動画で構わないけどさ。それに最近、ゲームや動画サイトを見過ぎてるのかSNSのやり過ぎか、絶対ブルーライトを浴びすぎてる。真剣に遮光眼鏡の購入を検討すべきかもしれない。


「話は聞いてた。ロビーに新しい絵を起きたいって話だろ」

「その話題はとっくに終わった。今は君が使い込んでる店の金の話だよ」

「使い込んでるって……」

「先月の収支」

 手入れされた指先が、こつこつと液晶を叩く。すっかり汗を掻いたスターバックスのラテを押し退け、俺は渋々画面を覗き込んだ。

「収支が合ってないってことか? 何か繰り入れる額を間違えたか、未収金は?」

「もう三回も確認し直した」

 空調から吐き出される冷風が直撃しているせいだろう。まだ蒸し暑さのまとわりつくマイアミで暮らすにも関わらず、クリフはダブルのスーツをかっちり身につけても汗一つ掻いていない。寧ろ視線は時を追うごとに冷ややかさを増し、毎日ぴかぴかに磨かせている床を踏みしめたローファーの足運びは傲岸不遜。

 この素敵な店『ローレライ』の支配人様が、気分を害しても許されるよな?


「ここは俺の店だ。金をどう使おうと自由だろ」

「君は支配人として、ここで働いている人間への責任がある」

 本人は馬鹿なボンボンに分かりやすく説明して差し上げてるつもりなんだろう。だが俺はこいつの慇懃無礼って言うのか、無意識に人を見下した噛んで含めるような物言いが大、大、大嫌いだった。これだからロースクール卒の理詰め人間は。


「何に使ってるかは知らないが、それは君の欲望を満たすための金じゃない。壁を塗り変えたり、怪我をした社員へ手術代を払ったり、バイス(風紀課)へ鼻薬を嗅がせたり。店をやっていく為に必要なんだよ」

「ならやっぱり、俺の使い方は間違ってない」

 タブレットを掌で相手に向かって押し返し、俺は顎を持ち上げた。

「店の顔たる支配人が、プレゼントも贈れず女に振られたり、毎日同じスーツを着てて恥を掻いたりしちゃ、世間様への印象がよくない。シケた顔してる奴のところには、客も運も近付いてこないだろ」

「良い顔をするのにかまけて、店を傾けるんじゃ本末転倒だ。今月改装した客室5部屋分について、建築会社に払う分は? また店を二重抵当にかけるつもりなのか?」

 そうやって過去のことをほじくり返す男は嫌われるぜ! あの借金なら今年の春に返済を終えてるし、まだ借り入れ出来る銀行なら、東海岸にいくらでも……


「クリフ、ボスをいじめるのはやめてあげて」

 タブレットを投げ返そうと機械を取り上げた時、授けられる可憐な天啓。


 部屋の隅っこにラグマットを敷いて、おままごとをしていたメイが、おもちゃのティーカップを床に置いた。いじめられっ子みたいに悲しげな声は、鬼のスポークスマンをも一瞬怯ませる。

「おかねがないのは、ボスだけがわるいんじゃないわ」

 可哀想に、資金繰りについて未だ責任を感じてるんだ。

 彼女が刀で斬り飛ばした女暗殺者の首は、余りに血を流し過ぎた。

 結局この部屋の絨毯は新調しなければならず、ベルギーから代わりの品が来るまで、イケアで買ってきた安物で応急処置をしている。踏み心地も最悪、掃除機を掛ける度に起毛が10パーセントずつ減ってるんじゃないかって言うような代物だ。


 すっかりしょげているメイへ、慰めのつもりだろうか。向かい合って座っていたダイアンが、取り分けたプラスチックのケーキを押しやる。

「ねえボス、クリフも、こまってるの?」

 こちらに身を乗り出し、きらきら輝かせて見せる目は、汚いものなど一度も映した事がないみたいだった。

「おかね足りないなら、あたしたちがとってきてあげようか!」

「冗談でもそんなことを口にするのはやめてくれ……」

 クリフの頬が、顔面神経痛持ち特有のひくひく捲れ上がるような痙攣を起こす。

 去年の秋、消費者金融の取り立てがうるさくて、にっちもさっちも行かなくなった時、この7歳児達がやらかした狼藉を思い出したんだろう。あそこの銀行、たまたま副頭取が顧客だったから良かったものの……

 いや、もしかしてこいつら、それを見越して支店を叩いたのかな。


 ケーキナイフを逆手に握って、しゅっしゅっと振り回してみせるダイアンからこわごわ視線を剥がし、クリフは俺の手からタブレットを取り上げた。探していたセルを見つけたのか、指で拡大してテーブルへ戻す。プラスチックのカップに刺さっていたストローが、衝撃で嫌々をするように左右へ振れた。

「とにかく、一番新しいこの1000ドルについてだけでも説明してくれ。持ち出したのは4日前だな」

 ストローから飛んだ水滴のせいで、グラビア印刷されたご立派な太ももに致命的な染みが刻まれる。

 慰めを込めてビキニラインへかけて指で撫でさすりながら、俺はもう完全に決意を固めた。意地でもシラを切り通してやる。

「何で俺のせいにするんだ。やたらと人を糾弾するが、それって、おまえが後ろめたいのを隠してる裏返しなんじゃないか?」

「僕に店の金を横領して、破産に追い込むメリットがあると思ってるのか? 君のお父上が黙っていない。大体僕の給料の補填も、ファンダメント・シニアが」

「親父の話はするな!」

 どいつもこいつも、あのクソ親父を盾にすれば俺が黙ると思ってるな! 大間違いだ、28歳の立派な男に、怖がるものがあると思ってるのか? 

 間違っても、あの薄情で、唯我独尊で、金だけ渡して愛情は一欠片ですら出し惜しみしたあの男なんか……くそっ、こんな話で目が潤むなんて!


「ドニー?」

「と、にかく!」

 肩に置かれたクリフの手を払いのけ、俺はがなり立てた。

「そんな昔のことは覚えてない!」

「デートだとか言って朝から浮かれてた日の事だよ」

 几帳面な男はスケジュールの管理も完璧。タブレットをスワイプして、アプリを呼び出す。

「ほら、あの何とかって美術教師の女の子と会うって」

 こいつ、本当は何もかもを分かって言ってるんじゃないのか。


 

 正確に言うと、あれはデートじゃなかった。彼女はそんなチョロい女性じゃない。


 エステラ・パウエルについて言葉で説明するのは本当に難しい。

 アンダルシアの血が半分流れた、しなやかで瑞々しい肉体と心を持っている女性。

 ハイアリアで美大向け予備校の講師をしているけれど、本来はきっと葡萄の蔦やオレンジ色の太陽の下で制作に打ち込むのが似合ってるタイプだ。

 栗色の川みたいに長い髪は、踊ると自在にうねり、掴もうとする男の手をあっと言う間にすり抜けていく。その姿を目にすることが出来ただけでも感謝すべきなんだ。視界に気に入らないものがあっても、彼女は怒ったりしない。自ら動いて、その場を去っていくだけの話なんだから。


 幸いなことに、今のところ俺はまだ「その他大勢」として彼女の意識に引っかかる事を許されている。

 ああ、そうとも。金のかかるタイプだ。彼女は宝石や服じゃ喜ばない。その代わり、自らの愛するものを目にしたとなれば、その赤土色の瞳をぼうっとけぶらせ、少し大きめの可愛い前歯が覗かせながら、うっすらを口を開き、浸りきる。


 その顔を見たいがため、俺はこの4ヶ月、必死に努力を続けてきた。

 愛車のコルビーを時速180マイル(290キロ)ですっ飛ばし、サンマルコス砦の一般観光客が見学できない区画へ案内するとか。西海岸を巡回してる19世紀のレッジャー・アート展に、一日だけマイアミへ寄り道してもらうとか。

 けれどそろそろ、運命を決めるべき時だ。いつまで経っても、彼女のベッドのシーツが何色かも知らないままじゃ男がすたる。

 彼女は貞操観念が堅い訳じゃない。ただ気まぐれで、自分以外の誰をも知ることが出来ないマイルールを持っているだけなんだ。


 さーて、どうやって攻略すべきか。ここ一週間以内に開催されるフェスのチケット、何か押さえてたかな……いや、レッドフーは確かにアガるけど、だからこそ逆に玄人好みな彼女の琴線をビンビンに掻き鳴らすってところまでは行かない。

 上手い飯、却下。彼女の食事の好みは厳しい。確かヴィーガンだったはずだし。

 やっぱりどこか美術館……勘弁してくれ、ネイティヴ・アメリカンの芸術は俺の知能じゃ理解するのが難しい。これ以上参考書を読んだら頭がおかしくなってキュレーターになっちまう!


 クラブに集う悪友達は、俺のノロケ話を聞くたび口を歪めて罵る。「そんなに血道を上げるほどの女か?」

 その上擦った声の裏に、羨望をありありと滲ませて。奴らは悔しいんだ。ここまで彼女に接近している俺が、心の底から。

 だからこそ、俺はこのままエステラを追いかけ、捕まえなければならない。軽やかに飛んでサバンナを駆け抜けるインパラみたいな彼女を。


 しかし、手詰まり……仕方ない、ヒントを貰いに行こう。今日は午後からご機嫌伺いの約束をしているーー15時半ちょうどに。彼女は時間に厳しい。早くても遅くても、家の扉には閂が掛かっている。下手したらぴったりでも入れてくれない。



「……ニー、ドニー! 聞いてるのか!」

「聞いてる聞いてる」

 あと一度適当に返事をしたら、クリフは俺の座ってる事務椅子を力任せに蹴り飛ばしやがっただろう。

 半分浮いている右足へ視線を落とし、俺はわざとらしくひょいと肩を竦めてみせた。

「大丈夫だって。また新規客の開発に勤しむさ……あてはいくらかある」

「君の社交性は評価するが……」

「そろそろ今期に異動してきた空軍基地の奴らも落ち着いて、退屈しだす時期だ。プロモーター連中に頼んで、素質のありそうな奴らを呼び込んでる。賭けてもいいが、この二週間以内に、サディストタイプが1人以上、マゾヒストタイプが2人以上、新規で店に来るぜ」

「その賭金は一体どこから捻出するつもりなんだい」

 こいつが人差し指と親指で眉間を揉み始めたら、それは闘争心が下火になった合図だ。いい加減、腹も減ってるに違いない。

 どうしてこいつは、昼飯も返上してデータを睨んだり、ガミガミ怒ったり出来るんだろう。そんなだから結婚できないんだぞ。

「無くなった分の金は作るよ、約束する」

「そういう問題じゃないんだよ」

 タブレットが取り上げられ、メキシカーナがこんにちは。クリフはタブレットを回収すると、それがさも大事なものあるかのように胸へ抱え、回れ右をした。野暮野暮なレースアップ・シューズが消沈しきった音を立てる。

「そこは全然問題じゃない」


 目の上のたんこぶが消え去っても、バーバリアンズはまだおままごとを続けていた。小指を立ててティーカップを啜る真似をしながら、ダイアンが見事な裏声で相棒に迫る。「まーあ、それじゃあミス・スウィフト。もうあのいけすかない、気取り屋の貴族とは、かんぜんに縁をきったってこと?」

「レディ達、そろそろ遊びの時間はおしまいだ」

「みまわり、いく? あたしたちも?」

「ああ。そのおもちゃを片付けてからな」

 ティーセットをおもちゃ箱へ放り込んでいる二人を後目に、クリフの置き土産たるデータへざっと目を通す(訂正、やっぱり紙媒体なんて好きじゃない)

 半年で2万4千ドルちょっとか。別に女性へ貢いでばかりいた訳じゃないけど、よく尽くしたなあ。俺ってなんて騎士道精神に溢れてるんだろう。涙が出てくる。


「かたづけ、おわった」

 予備の22口径を弄りながら、ダイアンが小首を傾げる。

「さいきんボス、たるんでるよ。ずっとヘンタイみたいにニタニタわらってさ」

「つかれてるのよ」

 メイがめっ、とちょっと怖い顔をして窘める。刀を腰から下げ、もう出かける準備は万端らしい。

「あのきれいな絵描きのおねえさんに、ぞっこんなんだから」

「あのひと、びじんね。あたし好き。ボスのコレになってくれらいいな」

「そんな簡単に行くかよ」

 突き出された小指以外の指も広げさせ、手を取る。

「高嶺の花だからな」

「きょうは、ちこくしちゃだめよ、ボス」

 差し伸べる反対の掌に、するりと自らの掌を滑り込ませながら、メイがおしゃまに忠告する。

「ボスはいつでも、おんなのこのこと、またせすぎだわ」

「分かってるよ」

 エステラは自分の時間を大切にする人間だから、同様の厳しさを他人にも要求する。

 待ち合わせ時刻30秒過ぎ、息せきって駆けつけても、そこに彼女はいないだろう。もかしたら、二度と彼の前に現れないかもしれない。

 チャンスは一度きり。彼女は過失を許すことはしても、決して忘れない。


「でも俺は、女が待ち合わせの時間に遅れても文句言わないぜ」

「うそつき。わたしたちがこのまえ、ねぼうしたら、いじけてベッドでみのむしになっちゃったじゃない」

「なってないよ」

「なった! あたしおぼえてる!」

 ダイアンがぴょんぴょん飛び跳ねながら足を踏み鳴らし、声を張り上げる。

「ボスはみのむし、みのむし、みのむし、ごはんをたべにいこうって言っても、あかちゃんみたいにごきげんななめ!」

 全く、女の子って生き物は、どうしてこう物覚えがいいんだろうな! ほんと感心するよ!

 


 時刻は13時半。夫が会社へ行っている内に遊びに来る有閑マダムが、獲物を求めてうろつき始める時間帯だ。


 ロビーで品定めしている客に挨拶したり、店の子達に声を掛けたり。支配人はいつだって店の隅々まで気を配っていなけりゃならない。

 ちょっとした配慮と駆け引きが次の儲けに繋がる。どんなにいけ好かない相手でも、大枚を落としてくれるならにこにこ笑顔で……


「まあ、ドン」

 クリフよろしく、口角がぴくっと痙攣したのを確かに感じる。

 振り返るのに躊躇する俺の手を軽く引っ張り、ダイアンが小さな声で囁いた。「だいじょぶよ、ボス」


 ミセス・プラムは美人だった。恐らく30年前は。今はジャバ・ザ・ハットとディバインのあいの子って見かけ。

 よくまあデザイナーがオーダーを引き受けたな! て感嘆するようなでぶでぶした巨体をシャネルのスーツに押し込んで、いそいそとこちらに駆けつけてくる。

「ミセス・プラム。今日も意気昴軒ですね」

「そうでもないわ、なかなかお相手も見つからないし……でも、貴方に会えたから、ラッキーとしておくべきね」

 3枚位張り付けられた付け睫が上下し、脂肪とたるみで腫れぼったい流し目をくれる。 

 それはまるで、空を舞う蝶を幾重にも張り巡らした巣の奥から狙う、蜘蛛の目つき。

「それに、スージーって呼んでちょうだい」


 彼女は俺にご執心。それは結構だし、仕方ない。ハンサムな顔とホットな身体を持つ男に女が惹かれるのは世の摂理だ。

 問題は彼女のご趣味。週に1回、水曜日の午後に店を訪れるこの女傑は、ハンサムな顔とホットな身体を持つ男が、お付きのマッチョマンに犯される姿を見物しながら、ミドリ・アレキサンダーを嘗めるのが何よりも好き。

 トドみたいにぼてっとした体つきの彼女自身と寝るのと、拷問としては、さて、どっちが耐え難いだろう。


 今も彼女の背後に控える身長6フィート5インチはありそうなボディ・ビルダーが、冷や汗をシャツに染ませる俺をじっと見下ろしている。

 嫌な顔だ。その丸太みたいな上腕二頭筋をそれ以上鍛えるくらいなら、もう少し顔の筋肉を柔軟運動にかけろよ。

「困ったな、お好みの男がいない? 確かさっき、ヘンリーを見かけたけど」

「今日はブルネットの気分じゃないのよ」

 間違いない、彼女の意識は、俺のブロンドへ向けられていた。やたらときめの細かい三重顎に埋もれかけた唇へ、塗り付けたルージュを全て舐め取っちまうんじゃないかって勢いで舌が這う。

 まるで俺自身をベろんと舐められたような気分になって、腕へ鳥肌が立った。

「じゃあ、赤毛のジョニーを」

「赤毛ねえ……金髪はいないかしら」

「金髪ですか。どうだろう」

 ミセス・プラムは低く笑いながら太い喉を震わせ、ボディ・ビルダーが一歩こっちに足を踏み出す……うーっ、ひでえビットローファー。今時ワニ革かよ、愛護団体に袋叩きにされるぞ。


 彼女の夫は市長の秘書だ。悲鳴を上げながら平手で打ち据えたら店が営業停止になるし、大体この筋肉だるまのキャッチャーミットみたいな手に捕まえられて、逃げきれる自信が全くない。


「ボス、そろそろじかん」

 まだ繋いだままだった手に握り返され、滲んだ汗を意識する。小さな右手で、メイがそっと腕を引いた。反対側の手は既に刀の鯉口を切っている。

「はやくしないと、おくれるよ」

 軽く身体から離して宙に浮かせたダイアンの右手は、いつでもホルスターに差し込まれたグロッグを抜き出せるだろう。


 バーバリアンズはお人形のような無表情。俺がゴーサインを出したら、目の前の二人は5秒以内にその場へ崩れ落ちる。

 出さなくても……3分以内に飛びかかるだろうな。そして3分5秒後には顔へ飛んだ血を拭いながら、悪びれもせず言ってのけるに違いない。「ごめんなさい、ボス。みせをよごしてしまって」


「そうだった」

 からからに乾いた喉から飛び出したのは、自分でも馬鹿丸出しに聞こえる高い笑い声だった。

「遅刻は厳禁だもんな。それじゃあ、スージー。すぐにクリント・イーストウッドもびっくりのブロンディを部屋に寄越しますから、お部屋でカクテルでも楽しみつつお待ちを。そちらの方のお飲物は?」

「ミネラルウォーターでも寄越して頂戴」

 ほとんど黄色に近いブロンドへ染めた髪が、微かな失望のよぎる顔から振り払われる。一体何を期待してたって言うんだ……いや、言わないでくれ、絶対に!

「アルコールは勃起を弱めるって言うでしょう」


 恭しく付き従う担当のサービス係を邪険にしながら、嵐はエレベーターの方へ遠ざかっていく。呟かれたダイアンの罵りは、全く無邪気なほど怒りに染まっていた。

「ボスのケツをねらってるわ。あの鬼ババア。そうなるまえに、あのマッチョのデカマラを切りおとして、くちにつっこんでやる」

「汚い言葉を使うのはやめなさい」

 震える指でスマートフォンをタップし、クリフを呼び出す。あンの野郎、何のんきに飯食ってやがるんだ。上司が貞操の危機だったって言うのに!

「今から10分以内に、Aクラス以上の金髪男を19号室に派遣しろ。ミセス・プラム、話をしてる間中、ずっと俺の身体を見ながらニヤついてたぞ」

「ミセス・プラムか」

 何とか口の中のものを飲み込みながら、クリフは呻き声を上げる。

「面倒だな。ヘンリーじゃ駄目か?」

「だめだ。5分で奴の髪色を変えられるなら別だけどな!」


 あーあ。せっかくのわくわく気分が台無しだ、傷心。

 この仕事を始めて思ったのは、店の子とは寝ても、店の客とは絶対ベッドを共にしたくないってことだ。

 まあ、彼らの嗜好が特殊過ぎるって事もあるけど。そりゃ俺だって、ちょっと縛ったり叩かれたりだとか、二人以上の女の子がベッドに入ってくるだとか、そういうのは嫌いじゃない。でも何を好きこのんで、女の子の吐いたゲロを浴びたいなんて思うんだ。


 ここに来る客の半分以上は、己の欲望を満たす為なら、相手が誰でも構わない。

 ケイティでもエマでも、ブロンドの可愛い子が嘔吐してくれるならそれでいい。きっと次の日道で会っても、顔すら思い出せないんじゃないか?

 まるで相手を物みたいに扱ってる。それで面白いと思うのかね? 

 そりゃ俺だって時には何も考えず、いきあたりばったりで名前も知らない女の子と一晩過ごす時もあるよ。けど、少なくとも相手をちょっとは楽しませる努力くらいするぜ?


 ここはまさしくソドムの市。うんざりしながらスマートフォンをポケットに滑り込ませれば、膝の辺りに沿う重みとぬくもり。脚へ寄りかかるようにしながら、メイが悪魔の声で囁く。

「すこし、にげたら?」



 ということでお言葉に甘え、コルビーはゴールデン・ビーチまでひとっ走り。

 ここ一週間、エステラは知り合い宅の留守番をしつつ、この沈没を目前に控えるアトランティスみたいな街をカンヴァスに刻み込もうと奮闘している。

 ヴェニスみたいに、街の中の秩序だった幹線道路として水路が活用されている訳じゃない。

 気まぐれな運河と湖は、ある場所じゃ高層ビルを小さな島に孤立させ、また違う場所では半島をぐるりと取り囲むように中型クルーザーを停泊させる。闇雲にドライブしていて、気がついたら道路は行き止まり、目の前にはしんと静まり返った水辺が広がってるなんてザラだ。


 事実俺も、今週エステラの元へ行くのは三回目だけど、今日初めて間違った道へ進入せず家へ辿りつく事ができた。

 明るい煉瓦色の屋根と卵色の壁を持つ、いかにも過ごしやすそうな平屋の建物。

 ドアにテープ留めされたスケッチブックの切れ端には、乱雑で力強い鉛筆の走り書きがしたためられている。「高価な物はサンスイのステレオ位です。泥棒以外の方は中庭へどうぞ」


 家主はこのこじんまりした庭を、心底慈しんでいるんだろう。芝生はよく手入れされている。面した水路を区切る白い木の柵は、つい最近ペンキを塗られたばかりのようだった。

 派手好みで喧噪渦巻くマイアミでひっそり生き残る、小さな楽園。最後の花をつけるゴールデン・シャワーが、カナリア色と緑のドリームキャッチャーとなってそよ風に揺れている。その木々の隙間を埋めるランタナは、ピンクや白、黄色にオレンジと、まるで色とりどりの砂糖菓子をばらまいたみたいだ。


 その可憐な花を、エステラは一つ一つ丁寧にカンヴァスへ描き込んでいた。服に絵の具が付く事などお構いなし。大きめの白いワイシャツは、彼女が見える限りの色を集めてはためいている。

 お気に入りのレゲトンへ耳を傾けるときは、組まれた足の上でリズムを刻む爪先も、今は素足。ショートパンツしか履いていないらしい。折りたたみ式の小さな椅子に腰掛けた彼女の下半身は、まるで何も身につけていないように見える。


「あら、来たのね」

 そう言って彼女が振り返ったのは、ここに新たな人間が増えてから、ゆうに10分も経った頃だった。

 その間に俺は、アルミパイプと防水布のサンラウンジャーに身を沈め、斜め後ろから彼女の真剣な横顔と柔らかそうな耳たぶをじっくりと鑑賞することができる。

「ここまで押し掛けてくるお客は稀よ。マイアミに来るのは遠い土地の人達ばかりなのに、実際に住んでる住人はみんな出不精なんだもの」

「邪魔だった?」

 エステラの目が子供みたいに目を丸くなる。

「邪魔しに来たの?」

 もちろん、邪魔はしない。


 彼女はカンヴァスの中に戻り、俺はひなたぼっこ。過剰な言葉はいらない。ここは彼女の世界。景色の一員となり、静かな空間にたゆたってればいい。まったく、ここはシティと完全に別世界だ。


 季節の変わり目が曖昧なこの街だけれど、夏から秋にかけての落差は結構激しい。夏休みに遊びに来ていた学生や会社員が姿を消し、ビーチの客も3割減。新しいレストランのオープン合戦も一段落付けば、市民はようやく枕を高くして眠れるって訳だ。


 そういう俺も、この夏は平均睡眠時間が4時間位、ナポレオンもびっくりのショートスリーパーで遊びまくり、昼寝しまくり。ただでも不規則な生活だ、自律神経失調症には気をつけなきゃならない。

 なーんて言ってるしりから、ぽかぽか暖かい陽だまりにくるまっていると、睡魔が襲ってくる。人の手で作られた緑へ自然に溶け込む彼女の姿が、現実なのか幻想なのか、もう分からなくなってきた。


「……ら?」

「えぇっ……」

「靴を脱いだら。窮屈でしょ」

 それもそうだと思って、今年買ったばかりなロブ・ロウの踵に手をかける。萌える芝生の上へ、重い革靴がぽとんと音を立てて転がった。ついでにスーツのポケットからレイバンを取り出し……やっぱり掛けるのをやめて、再び寝椅子へダイブする。


 まだまだ先の話になるだろうけど、老後はこんな場所で過ごすの悪くないなあ。

 若くて美人の嫁さんや大きな犬と、のんびり太陽を浴びながらクバ・リブレを飲む生活(犬にはブランデーを数滴垂らしたミルクだ)


 親父だって確か今年で69歳なんだから、いい加減そうやって第二の人生を楽しめばいいのに……あの男は趣味と仕事が一緒だから、無駄な話か。


 徒然なる思考、うつらうつらとした微睡み。思わず目を見開いたのは、額に押し当てられる冷たいグラスのおかげだった。

 お手製レモネードを俺に押しつけ、エステラはサンラウンジャーの端にちょんと、グラマラスな尻を乗せた。

「涎まで垂らしてたわよ。最近忙しかった?」

「まあな」

 掌で顎を力任せに擦りながら、ジュースの表面に浮いたピンクのハイビスカスをストローで追し退ける。彼女が差し出した会話の穂口と、目の奥を直撃するような舌の上の酸味が、覚醒へと導いてくれた。

「基本的には仕事で。君もそうみたいだ。絵は昼間のうちに描かなきゃならないだろ」

「そうなんだけど、あまり捗らなくて」

 篭もった熱を逃がすよう掻き上げられた髪が、あらかじめ決められていたかのように順を追って肩口に戻ってくる。アクリル絵の具と太陽、そして彼女本来の、シナモンに似たスパイシーな香りが鼻を擽った。

「何かが違うのよね。色塗ったら変わるんじゃないかと思ったけど、全然しっくり来ない」


 使い込まれた木のイーゼルに立てかけられる絵は、俺からしたらもうほとんど完成しているように思えた。

 正直なところを言うと、彼女の作品が優れているのかどうか、判別を下す日が来ないことを、俺は心の底から願ってる。俺が知ってるのは、彼女の絵がまだニューヨークの一流画廊でお披露目される機会に恵まれていない事実だけ。

 彼女のなだらかな肩越しにもう一度絵を見遣り、俺はちょっと肩を竦めて見せた。

 木々の緑や花の七色、それから柵の向こうを流れる瑠璃色の水は繊細な筆致、その向こうに見えるアスファルト・ジャングルは醜悪なシュールレアリズムで描く、ちょっと悪夢めいた絵。そこに次に加えられるのは、どんな一筆だろう。


 ふっと考え込む彼女の先細りな指に、グラスから流れ落ちた滴が到達し、ゆっくりと伝う。マニキュアなんて知らない爪先で止められたそれが、俺のシャツにじわりと広がる頃、再び彼女の意識がこちらに戻ってきた。

「あの絵、好き?」

「俺、美術は赤点だったんだよ」

「違う、好きか嫌いかって話」

 それ以上に引けない腰をもぞつかせるほど、覗き込む目は一瞬で真剣な色を帯びる。

 グラスの半分ほど、ストローでずるずるとレモネードを啜り、俺も彼女の真似をして考え込んでしまう。

「何とも……完成品を見てみないと分からない」

「上手く逃げたわね」

「そうじゃない。本気を出してないなら、自分でも満足してないなら、そんなものの評価を他人に求めるなよ」

 俺の店に来る、男に散々いじめられた挙句、自分が無価値だと思い込んでしまった可哀想な女の子達みたいな言いぐさは、君には似合わない。そこまで説教じみたことは、賢い彼女に言う必要なんかないだろうけど。


 気付けば彼女の目はまた遠いところを見つめていた。シャツ越しに透けて見える、少し反らされた真っ直ぐな背筋。

 こんな柳みたいに痩せてるのに、どうして胸にだけは脂肪が回るんだろう。サンラウンジャーに突かれた手は、微かに俺の太ももへ触れている。こっちは日光浴のおかげですっかり体が温まっているのに、その熱を一向に譲りうけようとしない。

 グラスを空にした俺が大きなあくびをこぼそうと口をあんぐり開けた瞬間。その手は立てた俺の膝にそっと触れた。

「明日、一緒に発掘パーティーへ行かない?」


 曰く。近々本格的な工事が始まるホームステッドのゴルフ場建設予定地には、迫害されたテケスタ族の史跡が埋まっている。考古学者や人権運動家の反対もむなしく、ネイティブ・アメリカンの居住地は半年もしないうちに芝生の下に埋もれてしまうらしい。

 せめてもの慰めと腹いせ、重機が入る前に敷地へ不法侵入して、装飾具や割れた壷を掘り出そうという、アバンギャルドな彼女や反社会的な俺にぴったりの素敵な企画って訳だ。


「掘って終わり?」

「ええ。たぶん皆は、ルート1沿いの店に行って飲むんでしょうけど、私は参加しないわ。知識のマウントはうんざりだもの」

 さっきまでアクアグリーンとビリディアンを混ぜこねていた筆を取り上げ、エステラはさらりと言った。グラスを手放した指先が、心臓の上に乗せられる。思ったよりも全然冷たくなかったし、何よりも鎖骨の辺りを、流れた髪の毛先に軽く擦られたとなれば。

「あなたも、私と家へ来ない? 泥だらけになるから、シャワーを一緒に浴びましょうよ」



 それから先の、本日の予定。ホームセンターで作業着と移植ごてを買って、それからフェイシャルと手足のお手入れでもしに行くか。爪の間に泥が詰まった状態でアバンチュールなんて、どう考えてもルール違反だもんな。


 彼女はキスの一つもせずに、俺の心を空高く舞い上がらせた。小学校の暗唱コンクールで、思わぬ優勝を授けられた気分(実際にそんな名誉へ付したことはないから、あくまでも想像だけど)


 一旦店に戻って、最低限の義務さえ果たせば即行動開始! なーに、それだってすぐ終わるさ。どうせ小難しい書類なんか俺には分からないんだからな!


 店の前は路上駐車禁止区域だから、1ブロック先にコルビーを……と、嫌な空だ。雨を呼びそうな厚い雲。仕方がないから、7thストリートの屋内パーキングに車を回す。月極契約を結んで、店の駐車場代としても利用している場所だ。


 低い天井から差すマンダリン色の照明で、何となくラリったような気分になる場所だった。4時前って中途半端な時間のせいで、人影はない。そう思っていたから、声を掛けられて驚いた。

「ミスター・ファンダメント?」

 振り返るよりも早く首へ炸裂する衝撃。ばつん、とヒューズが落ちたみたいに遮断される意識。コンクリートの上へ引っくり帰ったとき、最後に見えたのはひっどい趣味のワニ革ビットローファー。


 燃え上がる恋(バーニング・ラブ)に水が差される。エルヴィスだって振り立てていた骨盤(ヴェルヴィス)の動きを止める。

 そういや、『特捜刑事マイアミ・バイス』でソニー・クロケットが飼ってたワニの名前もエルヴィスだったっけ。この街で聖書みたいに崇め立てられてるドラマだけど、主演のドン・ジョンソンはシスコが舞台の『刑事ナッシュ・ブリッジス』に出演したおかげで、今じゃすっかり裏切り者扱いされている。


 裏切り者なんて言って悪かった。『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』を観ながらお宅の娘さんで2回ヌイて本当に悪かった。だからどうか、どうか、最高にホットでクールなソニー・クロケット、ピンチに陥った市民をお助けください。


 分かってるよ、シスコとマイアミじゃ、距離がありすぎるもんな。

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