1日目 PM

 

 かつて知ったる郊外のアパートから高級コンドへ。ケイティの住まいは、ミュージアム・パークから程近い高層ビルに移っていた。「ずいぶん出世したんだな。結婚して売りに出すのは惜しい気もするけど」素直にそう言ったら、彼女は俺の肩に頭を凭せかけながらくすくす笑い。「私が一体どこに勤めてると思ってるの」


 高速エレベーターは32階までぐんぐん駆け上がるけど、その短い時間ですら彼女は我慢できなかったみたいだ。いきなり仕掛けられたキスは、思わず手すりへ腰をぶつけるほど。僅かに汗ばんだ襟元を、シルバーの婚約指輪で飾られた指が、かき混ぜてくつろげるような動きで撫で回す。


 不倫? 監視カメラ? 知るもんか。据え膳食わぬは何とやらだ。


「俺も飲み過ぎたかな」

 アルコールでじっとりと充血した唇は、瑞々しく今にも皮の弾けそうな果実のよう。欲望に従うまま歯を立てながら、俺は呟いた。

「信じられないほど熱い」

「うちの部屋はクーラーが効いてるわよ」

 濡れた唇に当たる熱い吐息。尾てい骨の辺りにぞくぞくっと走る官能。高度とテンションが上がるにつれ燃え上がり、同時にもっと、とろけるような熱を求める貪欲なナニ。

 しょうがない、今日一日寒い思いをしてたんだもんな。

「ああ……でも、涼しくなるより先に、服を脱いだ方が早いわね」

 最後のだめ押し、全身を擦りつけるようにして身をくねらせながら、彼女はこちらへ体重を預けてくる。

 このまま俺のケツがガラスを突き破って、二人一緒にミッドタウンの夜へ落ちていっても、俺は後悔なんか絶対しない。


 彼女が部屋の鍵を取り出そうと、かばんを探る暇すら惜しい。もつれ合うように部屋へ入り、ばたんと閉まるよりも早く彼女をドアへ押しつける。

 3インチはある分厚い金属の扉は、ひんやり冷たいはずだ。なのに後頭部を擦りつけるようにして悶える彼女を見ていると、塗装されたヴァーミリオンが視神経を伝って理性をカッと焼き尽くす。


「待って、待って」

 蒸れたスカートの中へ手を潜り込ませ、ガーターベルトを外そうとやっきになっていたら、不意に胸を手で押される。

「ねえ、ドン……」

「待ったはなし」

 くっきりした顎のラインを辿るように唇を滑らせ、唸り声を上げる。

「香水変えたんだろ、前のよりこっちのがいい、100倍いい」

 熱くなった指先がようやく留め具を探り当て、いざ外さんとした時に、ああその時に! 腰へ絡みついていた足首が、尻をするすると伝って床へと降りる。

「せめてソファに行きましょうよ」

 弾む息が喉元を叩くたびに、肺の収縮運動でぱんと張り出した胸が押しつけられる。何て残酷な。足踏みしたくなる下半身の荒れ狂いはひどくなるばかりだった。


 だけど俺は、マイアミでも指折りのホットでクールな男。再び襲いかかりたくなる衝動は、苦く感じる唾液を飲み込んで抑え、彼女の肩に腕を回す。

「オーケイ、素敵なインテリアを見せてもらおうか」

 今度こそ抗うことなく、彼女は柔らかな髪を掬って遊んでいた俺の手を取り上げた。中指を軽く噛む前歯、全く痺れるぜ。

「この前買い換えたばかりなの」


 見せびらかしたくなるのも道理、リビングルームはとても趣味がいい。

 広く取られた窓からの展望は、ビスケーン湾の向こうにあるマイアミ・ビーチをあまたずとらえるもの。青い海をも計算に入れた内装は白とピンクグレーで統一され、過度な女性らしさは感じない。けれどどこか、温かみを感じさせられるものだった。


 ただ残念なことに、世の中には完璧なものなど存在しない。第三者の観点から評すると、この部屋にはどうしても見過ごすことの出来ない、重大な欠点が二つ存在する。


 一つは彼女ご自慢、モヘア張りのソファに、男が一人座っていること。

 もう一つは彼の膝の上に、みんな大好きイサカM37散弾銃が乗っていて、その銃口がまっすぐこっちへ向けられているってことだ。


 部屋の照明を付けた途端現れた姿に、ケイティはキャッと悲鳴を上げて目を剥いた。

「クリス、帰ってたの?!」

「6度も留守番電話を残した」

 コンゴとフロリダにどれだけ時差があるかは知らないが、男の目は三日位まともに睡眠を取ってないんじゃないかって程血走っている。待っている間、散々掻きむしったんだろう。茶色の髪は乱れに乱れて逆立っている。


 その言動の異常性を除けば、愛想も人柄も良さそうな、真面目な営業マンって見かけの男だった。結ばれた暁には、きっとケイティを幸せにしてくれるに違いない。

「予定が繰り上がって早く帰れたから、エデン・ロックの『ノブ』でディナーをと思って予約を取ったんだ」

「そうだったの、ごめんなさい……スマートフォン、見てなくて」

 まだ肩に回っていた俺の腕を押して外しながら、ケイティは汗だくの顔へ業務用の完璧な笑顔を浮かべて見せた。

「クリス、彼はドナルド・ファンダメント。クリスは私の」

「僕の妻と何をしていた」


 そうなんじゃないかと薄々思ってたけど。やっぱり二人はもう、ウェディング・ケーキを共同で切るところまで終えた関係らしい。


 目を逸らした途端に襲ってくる、はらぺこの猛獣を相手にするのと同じ。俺は男をじっと見つめる懸命の努力を続けていた。難しい仕事だ。どうしても黒々と底の見えない

、ショットガンの銃口へ意識を向けてしまう。

「食事さ。何も疚しいことはしてない」

「もちろんよ」

 滲んだルージュを指先で軽く擦りながら、ケイティも頷く。

「何時からそこにいたの?」

 夫が無言のままなので、貞淑は花嫁は賛美歌でも歌うような音調で言葉を続けるしかなかった。

「『ノブ』ね、素敵だわ。明日に予約を取り直せないかしら」

 彼女は日本食がそこまで好きじゃないのに、必死で宥めようとする努力が涙ぐましい。にも関わらず、男は憎悪に満ち満ちた目つきでこちらを睨み据えながら、身じろぎ一つしない。これ以上こんな視線を注がれたら、メデューサだって石にされちまう。


「あー、クリス。取りあえずその銃から手を離さないか? 確かにコンゴじゃ、そうやって日常的に身につけてないと危なかったのかもしれないが、ここはアメリカだし」

 俺が口を開いた途端、手だけが瞬間解凍される。トリガーガードへ掛かっていた人差し指は、躊躇もなく引き金に移動した。

「この腐れ外道め」

 ここで思いっきり罵倒すべきなのか、それともひざまづいて命乞いをすべきなのか、俺には分からない。

 危機的状況なのは間違いないんだろう。無茶苦茶になった髪の向こうで、うっすら脂ぎる男の旋毛。そこに意識を向けることで、俺は口元へ引き攣った笑みを湛えるのに成功していた。


 俺と違って、ケイティの舌は上顎に張り付いている訳ではないらしい。手を差し伸べながら一歩、二歩と、用心深くソファへ向かって歩み寄る。

「クリス、クリス……落ち着いて。訳ならちゃんと説明するから」

 真っ白なタイルを打つ、こつこつというヒールの音が、高い天井に反響する。途中でガラスのコーヒーテーブルへ脚が軽くぶつかり、乗ってたエヴィアンの殆ど空になったペットボトルと、クリスタルのタンブラーがびりびり揺れた。

「愛してるのは貴方だけよ。知ってるでしょう? 彼のお父様の件で、話をしていたの。いずれ彼が受け継ぐ事になる不動産の話なんだから」

 現実が混ぜ込まれた嘘ほど見抜きにくいものはない。親父は俺にどれくらいの財産を残してくれるんだろう。恐らくホテルの利権は血が半分しか繋がらない兄達に行くだろうから、せめて現金とコレクションしてる高級車位は譲渡してくれないかな……


 それまでこの部屋で発せられる全ての事象に対して、五感を張り巡らせていた男が、徐々に顔面の筋肉から緊張をとく。妻はもう、彼が手を伸ばせば届く位置までやってきている。凝視する眼と裏腹、その鼻から下はだらしなく緩み、口角には涎の泡を滲ませるほどだった。

「そうやって、ハンサムな金持ちに尻を振るのか」


 とっさに床へ身を投げてなかったら、今頃蜂の巣にされていただろう。

  銃声が先だったのか、ケイティ叫び声を上げたのが先かは分からない。男の対面に配置されたソファは背もたれが吹き飛び、詰め物の綿が粉塵と化して宙に巻き散らされていた。


「無事か、ケイティ!」

 その場へ這い蹲ったまま頭を抱え、声をかけるのが俺にできる精一杯。とりあえず生きている事は確かなようで、甲高い悲鳴が瀟洒なリビングルームへ響き渡っている。

 耳をつんざく高音へ、男は焚き付けられたようだった。手当たり次第に乱射される散弾は、60インチのアクオスへ巨大な穴を開け、中二階へ向かう螺旋階段のステップを粉々に砕く。ソファの隙間から垣間見えるタッセル付きのローファーからするに、その場で仁王立ちになってターミネートを続けているらしい。

「クリス、やめて!!」

 ケイティの制止へ、男は返事すら寄越さない。これだけの狼藉を働いているにも関わらず、彼自身は息の音すら響かせないのが不気味だった。顔の見えない殺し屋。

 ふと思い出したのは、ビーチ沿いのクラブが大好きだった頃のケイティが、ナンパしてくる野郎共を振る時言い放つ決め台詞だ。「そんな幽霊みたいに近付いてこないで、陰気な男は嫌い」


 ダサいタッセルが揺れて、靴の爪先がこちらを向く。ゆっくりと近付いてくる足の動きに、俺の肝っ玉や誰かを思いやる余裕なんてもう、ニュージャージー辺りまで吹き飛んだ。冷たい床へ吸い込まれたみたいに、全身の血の気が引く、脚から力が抜ける。唇を震わせながら、俺は思い出せる限りの聖書の登場人物に対して救いを求め続けた。


 ここ数年、教会なんか観光でしか行ってなかった罰だろうか。めちゃくちゃになったソファのスプリングがぎしりと軋みを上げたと、押し付けていた肩で知る。黒い影が視界を覆う。

 腕の隙間から、ちらりと仰いだ男の顔は弛緩しきり、ありとあらゆる体液を垂れ流しにしていた。内なる嵐を発散しきった充足感からか、いっそ恍惚として見える。けれど甘い硝煙の匂いを漂わせる散弾銃の先端は、まだ間違いなく俺へロックオンされているんだ。


 彼にとって、妻と一緒に入ってきた男なら誰でも標的だった。それが誰であったところで、決して許すつもりも、逃がすつもりもない。

 アレキサンダー・マックイーンの肩口に鼻水がぽたりと落ちてきた途端、腰は完全に抜けた。思考が一瞬停止した後、洪水のようにどっと溢れ出す。マイアミの貴族って肩書きも、クールなボギーも、奔流に押し流されて今は何処。本能のまま泣き叫ぶ事だけが、今の俺に可能なたった一つのタスクだった。

「た、た、助けて、パパーーーっ!!!!!」


「パパじゃない。あたしよ」

 

 ぱっと照明が消えた次の瞬間、小さな黒い影が頭上を横切った。男が仰け反り、仰向けのまま倒れていくのを、闇に慣れない目がスローモーションで捉える。


 しばらくは何かがへし折れたり、打ち据えられたりする音が響くのに、呆然と耳をこらしていた。

 理性が戻ったのは、四つん這いの姿勢でキッチンの方へ逃げようとしているのだろうか。タイトスカートの中でぷりぷり揺すられるケイティの尻を目にしたからだ。

「ダイアン、そこまで! 彼は一般人だ!」


 もう二、三発肉を叩く音が聞こえた後、室内に静寂が戻ってくる。半分程の高さになった背もたれから、ひょっこり覗いた金髪頭。甘いヌガー色の瞳がぱちぱち瞬きながら、俺の股間を見つめている。

「ボス、もらしてない?」

「漏らしてない!」

「ならよかった。ポリ公がくるまえに、さっさとかえろう」

 手を引かれるままドアに向かう途中で、最新式のアイランドキッチンへ縋りついているケイティへ呼びかける。

「あのさ。これはあくまで俺の予想だけど……彼って、結婚直後に豹変したタイプだろ」

 しばらくの沈黙の後、ケイティは肺の中の空気を全て吐き出すような溜息と共に答えた。

「どうにか矯正できると思ったのよ」

 


 家へ帰っても眠れる気がしなかったから、事務所まで付き添ってもらった。繋いだ手が震えているのに気付いたんだろう。エレベーターの中で、ダイアンが顔を見上げてくる。「ボス、大丈夫?」

「ああ」

 すっかり掠れた声をどう思ったのか、子供らしく体温の高い手が、指をぎゅっと握りしめた。


 クリフはもう帰宅したらしい。事務所は空で、ブラインドに切り刻まれた信号機の光が、室内を縞模様に染めている。

「ペプシが飲みたい……」

「かってきたげる。ボスはおりこうさんにしてて」

「もう動く元気もないよ」

 「ダイエット・ペプシだぞ」と念を押せば、ダイアンは一度振り返って、にかっとやんちゃな笑みを浮かべた。

 せめてお気に入りのものに囲まれることで、心を落ち着かせよう。そうでもしないとやりきれない。がくがくする脚を引きずり、支配人室へ向かう。


 文字通り床を這わされ、傷心。咽び過ぎた挙げ句擦り切れそうな喉と、泣き濡れてウサギのような目を抱えている。

 そんな男が電気のスイッチを入れた途端、部屋の隅に突っ立っている誰かを発見したら、どれだけ甲高い悲鳴を上げると思う?


 デヴィッド・ゲッタとショウテックの『バッド』でボーカルしてたときのヴァッシー並に凄まじい声を出しても、絶対許されるさ、きっと。


 壁に全身全霊で身を押しつけてもまだ足りない。眼球が再びじわりと潤む。

 そのまま床にへたり込んでしまわなかったのは、喚き立てる言葉にならない言葉の合間へ、辛うじて声が割って入ったからだ。少し掠れた低めの声が。「ミスター・ファンダメント?」昼間のぶっきらぼうさはどこへやら、そこには明らかな戸惑いが含まれている。


 ミーガンはそのグラマラスな肉体を、黒いキモノで包んでいた。早速仕事を終えてきたんだろうか? 

 いや、確かスケジュールじゃ彼女の「初めて」は、タンパの基地でふんぞり返ってる空軍のお偉いさんだ。彼はいつも、酒を出す店が閉まるまで散々に遊んでから、最後にここへやってくる。

「どうした、病気が再発したか?」

「いえ……」

 ちゃんと指示通り、化粧を変えたらしい。ワインレッドのアイシャドウをさした瞼は伏せられ、付け睫が小刻みに揺れていた。赤いエナメルのハイヒールは尖った先端で、その空白を潰すように何度も踏み合わされる。


 おニューの靴に傷が付いちゃうぜ、と言おうとして、ぴんと思い至る。

「ははあ、さては怖じ気付いたんだな」

 俺に限って言えば、もう心は午後と同じ状態まで修復を終えていた。悠々と事務机につき、ことさらゆっくりと椅子の背もたれを軋ませる。ミーガンはまだその場へ立ちんぼで、所在なさげに肩をいからせていた。後ろで組んだ手をもぞつかせながら、俯いて黙りこくっている。


「怒っちゃいないよ、むしろ当然の話だ。いきなり耐Gテストプレイとか言われても戸惑うよな。心配しなくても、事務椅子に座ってたら大佐が勝手にぐるぐる回して」

「どんなことをされても構わないんです」

 勢いよく持ち上げられた顔をまじまじ見つめれば、どれだけ徒っぽいメイクを施していても、幼い目鼻立ちなのがよく分かる。今その表情は本当の子供のように歪められ、涙をこぼしそうだ。

「昼の間に考えてみたんです、自分がこれまでどんな事をしてきたか。男性のアナルをペニスバンドで掘ったこともあるし、乳首にピアスを開けられて、溢れる血を飲まれたことも……」

 乳首にピアス? そういえば聞くのを忘れてたな。基本的に構わないんだが、まあ中にはちぎれたりしかねないプレイをしたがるような客もいるからな……

「アブノーマルだと言われるような事を色々試したけれど、逆に言えば、ノーマルな事は一度もしたことがなかった。心からお互いを慈しみ合うような、まともなセックスをしたことは、一度も」

「それは……」

 大丈夫。そりゃこの店で一番需要の少ないプレイだ。この店を初めて以来、月に2回は妻に触っても勃起しないとか、旦那とのセックスを5年くらい避けてるとか、そう言う相談を顧客から受けたりする。伴侶相手に出来ないことをして濡れて勃たせる為に、彼らはここへやってくるんだ。


 でもまあ、ミーガンが訴えてるのは、そう言う話じゃないんだろうな。


 彼女もそれ以上の言葉を口にすることはしなかった。あとはボディ・ランゲージ。キモノの紐を片手でしゅるりと解き、声高に主張する。


 ヴィクトリアズ・シークレットのカタログで見たことがある。シンプルなデザインのブラとショーツだ。レースの縁取りも最低限で、だからこそ彼女の素人臭さと、猫みたいな素っ気なさを引き立てる。予想に反してタトゥーは入れていないかった。日に焼けない肌はやはり病的な白さで、肉付きのいい太ももなんか、触れればそのまま指を飲み込んでしまいそうで、ハッとなる。

 だが何よりも、その胸。可哀想に、あんなぎゅうぎゅうと窮屈そうにブラジャーへ詰め込まれて。深く影を落とす谷間が汗をかいていると、遠目に見てもはっきり分かる。

「ミスターなら分かってくれますよね」

 寒気を感じている訳でもないのに、彼女はぶるりと上半身を震わせる。あわせて上下する二つの膨らみは弾力に富み、どこまでも重そうだった。男の腕力を試そうとしているかのように。

「そりゃ、まあ」

 俺は低い声で呟いた。彼女に負けず劣らず汗でぐっしょり、脇なんか今すぐ絞れそうだ。

「雇用主と従業員は、慈しみ合わないといけないよな」

 彼女がまた腰をくねらせ、おっぱいがゆさりと揺れた。今なら俺も、悪魔崇拝に手を出してしまいそうだ。ゴス・ガール、いや、愛の伝導者が、崇高な心根と共に一歩足を踏み出す。偽りの愛によって傷ついた男の元へ、聖なる母の象徴を届けにやってくる。


 ドアが勢いよく開いたのと、彼女の首が宙を舞ったのは殆ど同時の出来事だった。

  

 勢いよく迸る血の奔流が、身体に直撃することは幸いなかった。スーツの袖にぴっぴっと滴が飛んだくらい。

 声も出せずに硬直している俺の前で、ミーガンの体がばったりと倒れる。黒い絨毯は流れる血の色を目立たせない代わりに、ぴくぴくと痙攣する白い手足の存在を嫌でも目立たせた。


 亡骸を一瞥したメイは、7歳児にあるまじき冷酷さでふんと鼻を鳴らすと、懐紙で拭った刀を鞘に収めた。床に広がるキモノの裾をつまみ、それから俺に向かって見せつけるように跳ね上げてみせる。

「だから、あぶないっていったでしょ」

 パンツに突っ込まれていた22口径は、蛍光灯を反射して鈍い輝きを放っている。

「バーではなしをきいたの。さいきん、ジャクソンビルのマレー・ホスフォードがこっちをねらってるって。そのビッチの写真をみせたら、まちがいなくマレーのおんなだって」


 縮こまってぐうの音も出ない俺は、相槌を打つ余裕すら失っていた。何せ床に転がったミーガンの首は、まっすぐこちらを向いている。もつれた黒髪が被さるおかげではっきりと表情も分からないが、見えない恐怖は寒気を通り越し、心臓を直に鷲掴む。


 凍り付いている上司にも、メイは戸惑わない。黒真珠の瞳は俺の股間を丹念に観察し、それから安堵に緩められる。

「よかった。もらしてない」

 それからぴょんとデスクに飛び乗り、もう一度俺の顔をまじまじと見つめたあと。


 体全部を使うようにして、頭を抱きしめてくる。


「よしよし、こわかったでしょうね」

 おまえは俺の母親か。そんな軽口を叩くことすら出来ないほど、薄っぺらい上半身に額を強く押しつけられる。

「もうだいじょうぶよ。わたしたちがまもってあげる」

 ぺちりぺちりと汗ばんだ後頭部を撫でる掌はとろとろと優しく、砂を吐きそうなほど甘ったるい。


 むしろお袋ですら、こんな風に俺を甘やかしてくれた事なんかなかった気がする。結婚中は夫の浮気に腹を立て、離婚後は慰謝料の支給がなくなるから恋愛の一つも出来ないと嘆いてばかりいるあのお袋は。


 確かにこの店は親父に買い与えられたものだ。けどここまで繁盛させたのは俺だし、今でもちゃんと切り盛りしてる。全部独りでやり遂げたんだ。男は孤高に生きなきゃいけない。周りは敵だらけ、弱みなんか見せたらぺろりと一飲みにされる。


 でも、ああ、誰かに守られるって、こんなにもほっとするもんなんだなあ。


 乳臭さすら感じる少女に抱かれ、あやされていたら、止まっていたはずの涙がまたじわりと目尻に盛り上がる。


 またノックなしに飛び込んできたダイアンが、床に転がる骸を見つけ「へやをよごして、メイったらいけないんだ!」と糾弾する。だけど、顔も見えていないのに、俺がどんな表情をしているのか気付いたんだろう。すぐさまはっと息を飲み、駆けつけてくる。

「ねえ、ボス、どうしたの。どこかいたいの」


 どれだけ揺さぶっても答えが戻ってこないので、可哀想に、すっかり困り果てたのだろう。膝に頬を押し当て、じっと見上げてくる。こんな馬鹿野郎の為に、走って店へ行ったらしい。ふっくらした頬はスラックス越しにも冷たかった。


 みっともないぞ、かっこいいところを見せないと。どれだけ心を叱咤しても、いや、叫べば叫ぶほど、涙は止めどなく流れる。痛い訳じゃない。悲しい訳じゃない。それも確かにあるけど、本当の理由はそこまで即物的じゃない。大人の男は複雑に出来てるんだ。


 複雑すぎて、自分にでもどうしようもなくなるときがある位に。


 無理なものは無理。あきらめるしかない。涙が止まるまでの間、俺は寄り添う二つの体温を借りて、自らの心を温めることに専念した。


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