Victory VICE――マイアミ馬鹿息子による楽園ライフ—―

鈴界リコ

1日目 AM

 仕事に遅刻したのは大した理由があった訳じゃない。昨日クラブ・スペースで知り合って部屋に連れ込んだ女の子、本人は通りを挟んだE11VEN MIAMIで踊る仕事って言ってたけど、まあ、どうでもいいや。デカいおっぱいと凄いブロンド、陽気な性格さえあれば。

 で、その夜は大満足だった。問題は翌朝。彼女、コーヒー淹れてくれてる間もスマホを弄くってる間も、ずーっとぽりぽり掻いてたんだな。その金色のラメで武装した爪を使って。自分のアソコを。


 もちろん彼女が帰った後、シーツも枕カバーも全部洗濯に出したし、コーヒーポットも消毒用アルコールで拭いておいた。後はバスルームを念入りに掃除しておくよう、通いで来てるメイドのチキータにメモを残して……おく前に、一番大事なことが待っている。オーケイ、普段使ってる専用のシェーバーは昨日充電したばかり。


 毛じらみの潜伏期間は一ヶ月。もう少し様子を見てみるかとも思ったけど、その間禁欲生活を貫くなんて絶対不可能だし、まあ、最近はわりと流行ってるって言うじゃないか?



 念入りな駆除を終え、アレキサンダー・マックイーンのグレーのスーツに何色のシャツを合わせようか悩んでいたら(結局ビシっとピュア・ブラックにした)時間なんかあっという間に正午前。どうせなら昼飯も済ませておこうと、近くのバーガーキングで平らげたのがワッパー二つ。

 結局サウス・ビーチは南端、コリンズ・アベニューからちょっと横道へ引っ込んだところに構える『ローレライ』へ到着した頃には14時過ぎになっていた。


 重役出勤? その通り。だって俺は重役、それも店で一番偉い男なんだから。


 常夏の街マイアミで、知る人ぞ知る名物クラブ『ローレライ』。一から築いたこの天国を、28歳にして立派に繁盛させるドナルド・ファンダメント・ジュニアとは俺のこと。夜の闇に燦然と輝く、人魚を象った店のネオンは勲章。

 この街でファンダメントの名前を出せば、大抵のクラブでは長蛇の列に並ぶことなく入店できるし、好奇心と野心の強い美女が黙ってても寄ってくる。

 寧ろ本当は、もう少し遅く来ても全然問題ない。店の繁忙時刻が始まるのは夜の20時過ぎ。社員の面接さえなければ、今頃なら家のベッドでだらだらテレビでも見ていても許されるはずだ。


 1930年代に建設されたアール・デコ様式のホテルを買い取って改装した店舗は、見かけだけで言うと立方体のミントケーキって感じ。そろそろと傾き始めた太陽を浴びて今日も決まってた……いや、水色の外壁が微妙にくすんでる。排気ガスか? 近いうちに清掃業者を手配しないと。

 一階はフロント兼ロビーって呼んでる場所だ。ぱっと見まだそのままホテルが営業してるみたいに装ってるのも、俺のこだわり。受付ではブルネットのひっつめ髪にスーツ姿のジェニファーが、俺の姿を目にした途端笑顔を浮かべる。「今日はお早いんですね」ここであんまり笑顔を見せたら安っぽいから、俺はいつでもクールな顔で「まあな」って頷くだけにとどめてる。

 迷路みたいな白壁の廊下を抜けて「ロビー」に入れば、客待ちの美男美女がうろうろ……してるはずなんだけど、まだピークの時間帯じゃないから少ないな。これもホテル時代からそのまま引き継いだ、フラミンゴみたいな色をした布張りのソファ達はほとんど空。奥の方のシートにぽつんと女の子が座ってるくらいだ。

 二階は「客室」だから割愛。最上階に当たる三階の事務所へエレベーターで上がる間に、スマートフォンをチェックしておく。うわー、着信が14件。留守番電話にも何件か入ってる。そのうち12件は同一人物からだった。


 無慈悲なエレベーターは瞬きする間にチンと音を立てる。まだ半分も履歴を削除しない内に、発信したとうの本人と鉢合わせした。

「ドニー、スマートフォンを見たか」

「今見てるよ」

 手の中の液晶へ見入ってるふりで支配人室まで向かうのは、無駄な争いを避けようって俺の気遣いだ。なのにクリフはしつこく追いかけてくるどころか、とうせんぼまでしてくる始末。

「今日は12時から面接だってあれほど言っただろう。可哀想に、女の子は下で待ちわびてるぞ」

「何で面接時間を夜に設定しないんだよ、実際の仕事現場を見せた方がイメージ掴みやすいだろ」

「今夜はデートがあるって君が駄々をこねたんだろう」

 デート。そうだ、すっかり忘れてた。誰と何時からどこで飯を食うのかも覚えてないけど、ほら、やっぱり「治療」してきて正解だったじゃないか!


 空気清浄機を設置してもまだ煙草臭い事務所は、このフロアを二分した反対側にある「備品室」と同じくらいごちゃついてる。デスクトップパソコンがワンワン唸って熱を放ってるクリフの事務机。日当たりの悪い、壁いっぱいのキャビネットで押しつぶされそうな場所で毎日ブルーライトを浴びて、よく発狂しないでいられると心底感心する。


 もっとも、その奥にある俺の支配人室は「もうちょっと」洒落てるぜ。

 壁こそプレハブだけど、厚いガラス板をはめ込んだドイツ製の事務机も、ベルギーから取り寄せたウールの絨毯も、何かの祝いで貰った大理石の裸体像も、全部黒で統一してある。

 自分の好きなものを好きな分だけ。どれだけ高級なシャンパンを開けるときよりも、この部屋にふんぞり返ってる時の方が、自分の地位を実感できる。


「おまえは俺のママか」

 足をテーブルに投げ出して溜息をつけば、クリフは抱えていたタブレットから目を離してぴしゃりと一言。「君が息子なら、とっくの昔に親子の縁を切ってる」

 ダートマスかどこかのロースクールを出てるはずなのに、こいつ、一体全体どうしてこんなところで働いてるんだろう。以前「まだ40歳まで何年かあるんだし、いい加減転職したら」って言ったら、奴は真顔で返した。「全米黒人地位向上協会に訴えてやる」。俺は別に、こいつが黒人だから嫌ってる訳じゃない。その冗談が通じないところがウザいんだよ。あといっつもボタンダウン・シャツを着てるのも。


「で、面接? 誰だっけ」

「三日前に履歴書を渡しただろう」

「そんな昔のこと覚えてない」

 ハンフリー・ボガードの真似をして唇をひん曲げてやれば、また大げさな溜息。首を振り振り「今から呼んでくるよ」と、やっとのことで退散してくれた。


 ところで、今日のデート相手って誰だったかな、マジで。調べたけど、スマートフォンの予定表にも記入はなし、うーん、困った。こうなりゃ相手から怒りの電話が来るまでだんまりを決め込むか。仕事が立て込んでたとか適当に言い訳すればいいや。何せこっちは支配人様、暇じゃないんだ。


 控えめなノックの音に顔を上げたら、ドアに入った擦りガラスに映っているのは黒髪、ほーん、わりと小柄だな。おっぱいが小さくなけりゃいいけど。


 入ってきた女の子のおっぱいはデカかった。けれどその他はちょっと、っていうか、うーん。

 いわゆるゴスって奴だ。黒いノースリーブのシャツに黒いタイトなミニスカートとストッキング。長い髪が顔を半分覆い隠してるし、目の周りはアイシャドウの入れすぎで殴られたみたいな見かけだから、年齢が分かりづらい。

 さっきロビーに座ってた子? 後ろ姿だからよく分からなかったけど。しかしクリフめ、何でこんな訳の分からないのを書類選考で通したんだか。


「そこに座って……えーと、ミーガン・ブルール?」

「ブリュレです」

 少し前屈みの姿勢で正面の椅子に腰掛け、開口一番がこれ。デスボイスでシャウトし過ぎた翌日みたいに、少し掠れた低めの声。うん、まあこれは悪くない。色っぽい。

「年齢は22歳か。成人してたら別に何歳でも構わないんだけど。この求人はどこから?」

「ストーリー・ナイトクラブで、キーネルさんに紹介されました」

「ああ、あいつね……」

 顔ははっきり覚えてないけど、確かレストランにや店に酒を卸してた奴じゃなかったっけ。

 ワードで簡潔に記された経歴書を見る限り、高校を中退した後アルバイトを転々としてきたって感じだな。ウェイトレスとかビデオショップの店員とか、まあ真っ当って言えるような職ばかりだ。

「さて、ミーガン……そう呼んでも構わないかな。君、ここがどんな事をする場所か分かってる?」

「はい、大体は」

 一応頷く彼女の様子はちょっとおぼつかない。微かに顔を背ければ、不自然なくらいまっすぐな髪がさらりと流れて、左の肩から腕が露わになる。LEDライトの下だって事を差し引いても、その肌の色はドラキュラみたいに青白かった。


「簡単に言えば、ここは客の性的なファンタジーを叶える為のソドムの市だ。3Pとか軽いSM位ならエスコートサービスを手配して個室に派遣するんだが、直接雇用となると相当特殊な要望にも応えて貰う事になる。これまでこういう、性風俗業での就業歴は?」


 軽めのジャブに、今度はにこりともしないまま、かといって臆した様子もなく、目の前の顔が横に振られる。

「いえ、ありません」

「死体と一緒に裸でポーズを取らされたり、ハンドドリルを付けた女の腕位もある張り型をアナルに突っ込まれてガーガー回転させられたり。その分金は払うよ。手術が必要な怪我をした場合は、こっちで費用を持つ」

「ええ、お金」

 黒く塗った爪を持つふくよかな手が、膝の上で祈るように組まれる。ますます前屈みになるものだから、Fカップはありそうな胸が重たげに撓んで、シャツの布地を引っ張ていた。

「短期間で稼げるって聞きました」

「内容によるけど、一晩で最低300ドルってところかな。まあ、経験値その他諸々で」

「こういうお店で働いたことはありませんけど」

 上目遣いも行きすぎると三白眼。眼をぎらつかせて身を乗り出すうちに、椅子の後ろ足が浮きかけてばたんと大きな音を立てる。

「アブノーマルな事は好きです……経験も人より豊富だと思いますし」

 まだ机に乗せたままだった足を少しずらし、改めて血の気の薄い顔とデカパイを査定する。

 こういうファッションが好きな女の子の生態は、あんまり詳しくない。やっぱり性意識が乱れてたりするわけ? 黒魔術とか、チャールズ・マンソンみたいに乱交したりとか。もっとも、大学時代に一度ヤったことあるゴスガールは、処女だったと思うけど。

 ゴスって、極端にガリガリか太ってるかの両極端って偏見を持ってたのに、ミーガンはほんの少し肉付きがいいって程度、むしろ好ましい。緩く巻いた贅肉は羽布団みたいにふかふかして、特にあの胸なんか、一度埋めたら二度と顔を上げることができなくなりそうだ。


 湧き出た唾を飲み込み、出来るだけさりげなさを装って質問を重ねる。

「アブノーマルって、例えば?」

「縄で縛ったり、薬を使ったり、針で刺したり」

「中世の魔女裁判的な奴か。するほう? されるほう?」

「どちらも。する方が多かったかも」

「頼むから客を縛り付けて火刑には処さないでくれよ。まあ、そこまでおどろおどろしいって言うよりか、この仕事はむしろボクサーに似てる」

 ぱあっと両腕を広げた拍子に背もたれが軋んで、後ろへ滑り落ちそうになる。慌てて踵で踏ん張り立て直しながら、俺はいつも初心者の女の子に言って聞かせる台詞を朗々と詠じてみせた。

「10ラウンド戦い抜く戦士みたく、厳正に、ストイックに、粛々と。弱音を吐いたら負けだ。最後までリングで立っていたものにのみ、栄冠は授けられるのさ」

 彼女は紫色の口紅が塗られた唇を大人しく噤んで、じっと話に耳を傾けている。これもポイントが高かった。むやみやたらと冗談を叩いたり、抵抗する獲物を客は好まない。それに従順な子猫になりきってみせれば、特にサド趣味の客はそこまで手ひどい仕打ちをせずとも満足したりするもんだ。

「ちょっと顔を傾けて……そう、横顔が分かるように。ふーん、美人じゃないか」

 すっと通った鼻筋、つぶらな目、形のいい唇。よくよく見てみれば素材は上々だ。その隈取りを落として、一週間位ビーチで日光浴させれば、童顔巨乳って触れ込みで人気が出るんじゃなかろうか。これは思わぬデカい魚になるかもしれない。

「はい、どうも。じゃあ、仕事場を見学した後クリフから詳しい話を聞いて、双方異存がなければ契約書にサインを……」


 机の上のブザーが鳴り響いたのはその時だった。インターコムの向こうで上がる従業員の声はほとんど悲鳴みたいなもの。うっかり近付けた耳を盛大につんざいた。

「また『バーバリアンズ』が暴れています!」

「あの二人が理由もなく暴れる訳がないだろう。一体何があった」

「その、8号室のヒューズ氏がハリーを真空パックにしていたとき、あまりにも興奮しすぎてハリーが窒息しかけたので制止させるために派遣したんですが……それにしてもあそこまでやる必要は……」

「分かった分かった、二人をここへ呼べ。ヒューズ氏の死因は失血? それとも首の骨が折れた?」

「まだ生きてます、骨折と、もしかしたら内臓は幾つか破裂したかもしれませんが」

「なら何で病院へ連れてかないんだ、このおたんちん!」

 会話を終えて見遣れば、ミーガンは怖がるどころか、むしろ好奇心で顔に血色が上って見えるほどだった。肝っ玉が据わってる、結構結構。

「……という風に、部屋の様子はカメラで監視してるし、万が一の時は用心棒が飛んでくる。安心してアブノーマル・プレイに励めるって訳だ」


 早速ご到着らしい。ドアの向こうから甲高い二重奏が聞こえてくる。喚きに応じるクリフの宥めすかしはすっかり覇気を失い、まるで泣いているみたいだ。いい気味。


「ボス、メイに言ってやってよ!!」

 飛び込んできたダイアンの金切り声へ顎を突き上げられたかのように、ミーガンが背筋を伸ばす。

 どうして小さい子供って奴は、いつでもペンギンみたいに体を左右に揺らしながら走るんだろう。あんまり揺するから、緩やかに巻いたセミロングの髪が舞い散り、きらきら光って見えるほどだ。

 この子の金髪は衣装によく映える。略帽からショートパンツにヘソ出しのシャツ、サスペンダーやサンドブーツに至るまで黒の制服に。クールだろ? 俺、この仕事を辞めても、子供服のデザインで食っていけるんじゃないかな。

「ダイアン、またノックせずに入ってきたな」

「ごめんってば。でもメイったらひどいんだ、とどめを刺したのはあたしなのに、じぶんがやったってウソつくの」

「うそじゃないわ。ほんとうに、わたしがやったんだもの」

 三人目の黒づくめガールは、二人目に負けず劣らず膨れっつらで登場する。クールでKAWAIIアジアン・ビューティーも台無し、濡羽色のボブの上にちょんと乗ってる水兵みたいな帽子が、今にも頭から出る湯気で飛んでいきそうだった。

 セーラー服のスカートを翻さないようにする分別は持っていたらしい。けれどダイアンの隣に並んだ途端、膝丈の編み上げ靴が、相棒の無防備な臑をおもいっきり蹴っ飛ばす。

「いったぁーっ! なにすんのよ!!」

「あんただってさっきワルサーのグリップでなぐろうとしたじゃない!」

「あれ、よけてたじゃん!」

 キーッと叫んで取っ組み合いに発展しそうな二匹の子猫を、襟首掴んで引き離す。

「ああもう、二人とも大人しく! お客様にご挨拶は!」

 宙ぶらりんにされても、二人はめいいっぱい伸ばした手を振りまわしていた。瞬きもせず見つめるミーガンに気付き、ようやくのことで渋々ながら矛先を納める。床に下ろされざま、ぺこっと返されるお辞儀は、ちょっとなおざりが過ぎる。


「ダイアン・ヴィルヌーヴ」

「メイコ・イワイです」

「二人とも見かけはちんちくりんだが、優秀だ。店の用心棒兼俺のボディガードを任せてる」

「そうなんですか……」

 大抵の人間は、この凶暴な7歳児2人が実際に仕事をしている場へ遭遇するまで、俺のことを狂人みたいな目で見てくるもんだ。けれどミーガンはちょっと惚けたような声を出したっきり。やっぱりとんだ肝っ玉(トゥルー・グリット)の持ち主らしい。


「さあ、これで面接は終わり。いつから働ける?」

 不機嫌丸出しの顔で睨み付けるちびっ子二人を机のこっち側に追いやり、姿勢を正す。

「最近辞める子が多くて人手不足なんだ。出来たら早いうちに頼むよ」

「ええ、何なら今夜からでも」

「すばらしい。クリフも喜ぶだろう」

 ゆっくり腰を振りながらドアへと向かう後ろ姿。胸と同じくらい、尻も安産型で大きい。あ、そうだ、一番重要なことを聞くのを忘れてた。

「性病には掛かってない?」

 ドアノブに手をかけながら、ミーガンは無表情のまま頷いた。

「完治してます」

「ならいい」


 扉が閉まってもまだ、バーバリアンズの目つきは険しいままだった。

「わたし、あのひと、すきじゃないわ」

 もみじみたいな手で俺のスラックスを握りしめながら、メイがぽつりと呟く。

「なんだか、いやなかんじ」

「なんでだよ。物静かだけど美人だし、胸も大きいぜ」

「ボスは巨乳だったら、なんでもいいんだから」

 こまっしゃくれた仕草で肩を竦めてみせるダイアンの額を指で弾いてやれば「いたーい!」とまた哀れっぽい悲鳴。

「ほんとのことじゃない! それに、あたしもメイにさんせい」

「ねえボス、やとっちゃうの?」

 見上げてくる二揃いの目。それがバービー人形を買って欲しいってねだる時よりも真剣なものだから、思わず怯みそうになる。女の勘は鋭い。例え小さくても、それが歴戦の猛者であるなら尚更。


 いやいやいや、ここの人事権はあくまで支配人たる俺のもの! いくら子供とは言え、何でもわがままを聞いてたら教育によくない。こほんと咳払いをして、俺は彼女たちの目を見つめ返した。

「誰を雇って誰をクビにするかは、俺の決めることだ。口を出すんじゃない」

 途端にしゅんとうなだれる姿は、正反対の容姿にも関わらず双子の姉妹を思わせる。というか、雨の中に捨てられた子猫かな。さすがに良心が疼いて、両腕を広げて見せた。


 膝によじ登ってきた二人の頭を辛抱強く撫でていれば、少しずついじけた態度も軟化する。交互に顔を覗き込みながら、俺はとっときの猫撫で声を作った。

「もし何かあったとしても、お前たちが守ってくれるから大丈夫だろ、ん?」

「それは、そうだけど」

 スラックス越しに太股をもにもにしていたメイが、ううんと唸る。言葉を継いだダイアンは、赤ん坊みたいに額を俺の胸に擦りつけながら唇をとがらせた。

「ほんとに、きをつけなよ。ボスってすっごくおっちょこちょいだもん」

「上司に対しておっちょこちょいとはなんだ!」

 頬をぐりぐり擦りつければ、泣いたカラスがもう笑う。きゃーっと歓声を上げながら「おひげがいたい」だの「おじさんくさい」だのと余計生意気を言うから、もうしばらく許してやるつもりはない。


 それにしてもあのゴス・ガール、すごい乳だったな。社員登用したら何カップあるか測らせよう。いや、不埒な目的じゃなくて、こういう仕事だから、お客様に公示するって意味で。それに、衣装も用意しなくちゃいけないし……



 それで話は済んだはずなのに、ちび達はベッドに入る時間になってもまだぐずぐず文句を言っていた(プライベートなナイトライフを楽しむなら護衛は不要。そんな日はバーバリアンズも8時就寝、寝る子は育つって言うもんな)

「やっぱりボス、わたしね……」

「はいはい。そんなに気になるなら、また明日にでも調査しろよ」

 お気に入りにしているテディ・ベアのジェンマをベッドに押し込んでやりながら、いつも通り額におやすみのキスを一つ。掛け布団から目だけを出し、それでもメイはしんねりと俺を見つめていた。

「ボスあたしもー!」って叫ぶダイアンは、さっきまでベッドの上で飛び跳ねていたせいだろう。せっかくといてやった髪がくしゃくしゃにもつれている。知らないぞ、明日痛い目見ても。


 目を閉じて突き出した唇にするようなキスは10年早いよ、全く。耳を引っ張って額をこちらに向けさせる。

「ダイアン、おまえも反対か?」

「あたぼうよ」

 テレビに出てくる黒人ギャングみたいな口調で言った後、ちょっと考えてから「でもさ」と付け足す。

「いざとなったら、ヤっちゃえばいいんじゃない?」

 大きな目をぐるっと回しながら、さも当たり前みたいに。


 「do it」は千通りの捉え方が出来る表現だ。「おやすみなさい」と行儀よく布団をかぶった女の子達が口にするときは、さて?

「ボス、わたしたちのことはいいから、はやく行って。おんなのこに、きらわれちゃうわよ」

 電気を消した直後に聞こえてきた憎まれ口は、ドアを閉じることで杞憂とまとめて封じた。

 


 あ、そうそう。デート相手はケイティだった。ちび達を寝かしつけてる間に着信履歴が1件。つまり、待ち合わせの時間は7時半って言ってあったんだろうな。

 最後に会ったのは3ヶ月くらい前だったか……そうだ、久しぶりに会いたくなって、俺から約束を取り付けたんだっけ。

 そんな状況での遅刻だ。怒ってるんじゃないかと内心ビクビクものだった。けれど俺の姿を見かけた彼女は、スターバックスのテラス席であの素敵な笑顔を見せてくれた。


 仕事帰りらしい。まだあの不動産会社で働いてるんだろうか。ドルガバっぽいチャコールグレーのスーツを身につけて、組まれた片脚の先端では4 3/4インチヒールの白いパンプスが、少し踵を浮かせた状態で揺れてる。

「待たせた? 悪い、仕事が立て込んでて」

「気にしないで」

 彼女は相変わらず美人だった。灯り始めた街のあかりは、蛍光色のネオンが幅を利かすこの街では控え目な方だ。それでもやっぱり人工的な光から姿を現し、沈みかけた夕陽に晒される横顔。紛い物など何もない。ウェーブしたハニーブロンドは、ダイヤモンドの粉を振りかけたよう。神に身を捧げたギリシャの巫女よりも人の本心を見抜く目が、蒼く澄んでいた。


 ブルーのコルベットZ06が違反切符を取られる前に彼女を乗せて、ブリッケル・キー島へ。市街地とブリッケル・キー・ドライブで結ばれてる小さな島は、街有数の金融拠点だ。彼女もよく仕事で足を向けるんだろう。公園近くにあるガストン・アクリオのやってるレストランで、喉を焼くほど酸っぱいレーチェ・デ・ティグレが飲みたいって意見に異存はない。


 助手席の窓を開け、夏の残りを含ませた風にうっとり目を細めるケイティの姿を見ていたら、3ヶ月なんて空白は無かったかのように思えてくる。

 俺も彼女も、まだ仕事を始めたばかりの頃からの知り合いだから、もう数年来の仲だ。魑魅魍魎の業界で順調にキャリアを積んでいるのに、優しさとか、美しさとか、美徳が何一つ損なわれていないのは凄い事だと正直に思う。むしろ、だからこそ出世したのかな。


 ……いや、全てが何も変わらないままだなんて事はあり得ない。東洋でも春の夢がどうとか言うじゃないか。なびく髪を掻き上げる左手の薬指にはまった指輪。小粒のダイヤモンドは、紫に染まった空の色を吸い込んでますます輝く。

「君を捕まえた幸運な野郎って、どこのどいつだ?」

「えっ? ……ああ、婚約者よ」

 黒いレザーのシートに身を沈め、彼女は天を仰いだ。

「彼はそんなに狭量じゃなから、友達と遊ぶくらい怒らない」

 友達って言うのはベッドの中で相手の背中へ爪を立てて、化膿する位の傷を付けたりするもんかね。

「結婚はまだ……彼も忙しいのよ。ファイザーのアフリカ担当で、今も確かコンゴにいるんじゃないかしら」

「発展途上国で病気に苦しむ人間を救ってる訳か」

 なんてご立派な仕事。まあ、彼女は案外堅実な性格だから、そういう安定した一流企業で大金を稼げる利口な男と連れ添うべきだって、常々思ってたよ。別に嫌味じゃなくて。


 結婚するとかそう言うこと、一切考えたことのない相手だ。なのにいざ違う男のものになると思えば妙に切ない。この節制なしのナニよ。たたでも守るジャングルを失ってるんだ。俺のターザンはスースーと寒々しく、虚ろさにうなだれていた。


 艶のないローズウッドを基調としたレストランの内装は全く洒落ていて、同じくらいめかし込んだ客がぎっしり。予約を取っていないからどうなかと思っていたんだけど、俺の顔を見たウェイターは、対岸の夜景もきらめく窓際の良い席に案内してくれた。

 彼女は宣言通り、白身魚のセビーチェをまず注文した。俺はもう、上品ぶってないでタマルを食うよ、腹減ってるからな。


 ペルー料理に舌鼓を打ってたら、空いていた距離が縮まるどころか、ぐっと親密になったような気がする。自惚れてるって? でも彼女の頬はタカマ・シャルドネを飲んで、ぽうっとぼかしたような色に染まっているし、瞳も心なしか潤みを帯びている。モーブ色のネイルを施した指先が、ワイングラスを探そうとテーブルの上をそろっと這う様へ、じっと視線を注いでしまう。


「元気そうで嬉しいわ」

 取り上げたグラスを掲げると、彼女は薄い湾曲の向こうで目を細めた。

「相変わらず、溌剌としてるのね。いつも楽しそうで、見てるこっちまで明るくなるわ」

「一週間前、ディミトリ・ヴェガス&ライク・マイクのライブ行ってきたから、まだテンションが高いままなのかも。そういう君だって、相変わらず素敵だ。最近何か面白いことあった?」

「相変わらず。仕事をして、暇な時間はめいいっぱい遊んでる……ああ、そう言えば、この前うちの会社にファンダメント・シニアが来たわ」

 飲み干そうとしていたワインが、危うく変なところへ流れ込みかける。ここは努めてさりげなさを装いながら、軽く流してしまうべきところなのに。むせるのを我慢したせいで思わず声が裏返ってしまう。

「親父が?」

「ええ。彼、最近オーランドのビルを買い取りたいって、うちの社長と一緒に視察へ……あちらで新しい事業をなさるの?」

「さあね、聞いてないけど」

 ナプキンでわざと丁寧に口を拭うのは、これ以上余計なことを言わないためだ。なのにケイティは、あら、と芝居掛かって見えるほど目を見開いた。しかも口角に、いたずらっぽい笑みを浮かべて見せるんだ。

「いけない、顧客の情報を漏洩しちゃったわ」

「親子なんだから問題ないさ」

「最近は仲良くやってるのね」


 そうとも、仲良くやってるよ。親父は博愛主義者だからな。別れた三番目の妻の息子にも、惜しみない援助の手をさしのべてくれる。


 両親が離婚したのは俺が小学生の頃だけど、経済的に不自由した記憶はない。金なら腐るほど持ってる男だ。高校を中退してノミ屋に出入りし、裸一貫からアメリカン・ドリームを掴んだ英雄。州内に二つのカジノと、三つのホテルを抱えるだけじゃ飽きたらず、また新たな金の匂いを嗅ぎ回ってるのか。


 いや、恐らく税金対策で転がすだけだろうな。

 俺の店と同じ扱いって訳だ。


「親父、元気にしてた?」

「ええ。いつ見ても若々しくて、素敵な方」

「デートは無理だぜ、今の嫁さんは嫉妬深いからな」

「何言ってるのよ、馬鹿ね……」

 俺の手元にあるシガラギ焼きの皿を目にした途端、ケイティは更に言い募ろうとした冗談を、噤んだ口の中へ押し戻した。フォークで小さく切り分けているつもりだった俺のタマルは、ぐちゃぐちゃに潰されかき混ぜられている。バナナの葉の上でキヌアと豚頬肉は、哀れドッグフードみたいな見てくれ。掬って一口運んだとき、それでも蒸した肉がほろほろと解けて絶品なのが、余計に惨めさを煽った。


 どんな困難が立ちふさがっても、凛とした姿勢を決して崩さない女性だ。ケイティはフォークを下ろし、俺の目をまっすぐ見据えたまま口を開いた。

「気分を害したなら謝るわ」

「いいや、こっちこそ」

 彼女と向き合った俺の顔は、ちゃんとスマートな笑みだっただろうか。それが無理なら、せめてボギーみたく、クールで皮肉っぽい色を湛えていられたのなら嬉しいんだけど。

「君の過失をFTC(連邦取引委員会)にチクるのはやめておくか。もう一本ボトル開けようぜ」

「ちょっと飲み過ぎたわ」

 カットソーを指でつまんでぱたぱたさせるもんだから、必然的にほんのり色づいたデコルテへと視線が移る。ほうっと息をついた後、小さく上唇を噛む癖も昔のままだ。

「知ってるでしょう、ミスター・ドン・ファン。私、普段はそんな飲まないのよ」

「何を仰るやら。サウス・ビーチのクラブでカンパリ・オレンジ漬けになってたのはどこのどなたさんだよ」

「昔の話。今はもう……もうすぐ、貞淑な花嫁」

 どんなに酸っぱいマリネの汁も、彼女の火照りを沈める役には立たないらしい。ことりとテーブルの下で音が響いたと思ったら、膝の辺りに柔らかいものがちょんと押し当てられる。スラックスの筋に沿って滑り落ちていくそれは、終点の裾を摘んで軽く引っ張った。最近流行の遠隔操作って奴だ。与えられた刺激を、無防備で敏感になったモノへ、1ヒット、2ヒットコンボ、トリプルコンボ、エクセレント!

「貞淑な花嫁なんだろ?」

「まだ違う」

 せっかく景観のいい席なのに、彼女は窓の外で黒々とうねる海と、そこに織り込まれたネオンなんて全く興味がないようだった。食欲が満たされた後、次に人間が求めるものは? 睡眠? それはちょっと早すぎる。獲物を見つけた女豹、というか休眠不動産を抱える顧客がやってきた営業よろしく、ケイティはもう俺の顔から一時たりとも視線を外そうとしなかった。

「それに貴方こそ、貞淑なんて言葉から一番縁遠い人間でしょうが」

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