第20話 愚者の矜持(1)
腹の中をかき混ぜられるような感覚。
首筋を嫌な汗が流れた。
嫌な予感がして俺は自分の下腹部に視線を降ろす。
すると、そこには、ヨハンナの右腕が、深々と突き刺さっていた。
何が起こったのか。
ヨハンナにも。
俺にも。
抱きついているマヤにも分からなかった。
「ネエ」
口を開いた瞬間に、マヤの体は宙を舞っていた。
講堂の壁へと投げつけられた彼女。
運悪くそこに据え付けられていた蜀台が、彼女のわき腹を突き刺した。
講堂に響き渡る悲鳴。
叫んでいるのはその凶状を巻き起こしている彼女。
ヨハンナであった。
「マヤァッ!! なに、これっ、いったい、私の、体が、どうして!?」
「迂闊だったよ。擬似生命による使役が得意だったな、グスタフ。くそっ、やってくれる!!」
ヨハンナの体が見る間に変形していく。
それは女性というにも、人間というにも、あまりにもその容貌から剥離した、おぞましい化物の姿だった。
四つの腕に、緑色をした肌、乳房の変わりに迫り出した肋骨。
浮き出た血管に、丸太のような太い足。
そして、天を仰いだヨハンナの頭は、やがて、黒い山羊の頭へと代わった。
悪趣味極まりない。生きながらに死体操作の術を施して、人を化け物に変えるなど、あってはならない禁忌である。
「おう、生かしておく価値もない下衆だなこいつは」
その白目を剝いた山羊の瞳からは、止め処なく涙が流れ落ちている。
この涙を止める方法を、俺は、一つしか知らない。
ウド、彼女を、と、マルクが声を上げた。すぐに転移の魔法で姿を消すと、ウドは蜀台の下に転がっているマヤを救った。俺と違って、当たり所が良かったのだろう、まだ、かろうじて息はある。だが。
「治療魔法でも使わん限りは、持ってあと少しか。本当、ここまでするかね」
「ウド、すぐに彼女を連れてここより遠いところへ。こいつは、私が」
「コロ、テ、シ、テ、ロロ、シ、シ、コロ」
涙を流す山羊の口から声がした。
怖気がする悪魔のような声で、俺達の前に立つ化物は、自分の死を俺達に願った。
生前の記憶を持ったまま、不死人へと変えられた、彼女の望み。
このままならば決して訪れることのない、己の消滅を願う想い。
「ウド。マルクと、ついでにヒルデの奴も下げろ。ここは俺一人で良い」
「何を言っていますの、貴方、また」
「不殺のマルクに汚れ仕事はさせられないだろ。それに、こいつを殺してやるってさっき言ってしまったからな」
それでも食い下がろうとするヒルデ。
しかたなく俺は、ウドに頼んでマヤと一緒に先に移転魔法で飛ばした。
マルクを残したのは、俺に話しておけということだろう。
すぐに、彼もまた、はた迷惑な腐れ魔法使いを伴って、俺達の前から姿を消した。
残されたのは、俺とマルク。同じ呪いを背負った二人。
「ルドルフ。良いんだ、僕も戦う」
「馬鹿言え俺が殺したいんだよ。不要な感傷に流されてんじゃねえよ聖者殿。俺や隊の奴等の前で言った、不殺の誓いはどうするってんだ」
「そんなもの、お前にこんなことを押し付けるくらいなら」
「好きでやってんだよ馬鹿。いいから、お前は真っ直ぐ自分の信念を貫き通せよ」
ヨハンナだったものは、俺の腹から手を引き抜くと、一跳びで祭壇へと移動した。
奴はその聖遺物が納められた棚を漁ると、その中から、その身の丈はあろうかという、赤塗りの大きな槍を取り出した。聖戦で死んだ騎士の得物か何かだろう。わざわざそんなものを聖遺物とするかね。まったく厄介な物を納めていやがる。
再び、それを持って俺の方へと近づいてくる、緑の巨人。
「時間切れだぜ、飛ばせ、ウド。後は俺がやる」
「待て、ルドルフ!! まだ、お前は」
「大丈夫だって、心配するなよ」
空気を引き裂いて、槍が俺の頭上から襲い掛かる。
あくびが出るほど単調な攻撃だ。
これならまだ、ヒルデの斧の方が避け甲斐がある。
「腕も、腹も、もうすっかり元通りよ!!」
避けた巨人の槍が横薙ぎに転じようとするよりも早く、俺はその懐へと飛び込んだ。そうして、取っておきにと今の今まで隠しておいた、左腕を振り上げて、その、羊の首を跳ね上げた。
ディーターか、グスタフの野郎への切り札にと、切断されたままということにしておいた左手。軍服で巻かれて隠されたそこには、本来の機能を十全に取り戻した左手と、俺が得意とするダガーナイフが握りこんであった。
不死者ね。
本当に笑わせてくれる。
そいつ等がどういう存在なのか、わざわざ説明されなくても、俺とマルクはよく知ってる。それぞれ形こそ違え、その、不死人なのだからな。
背後で俺の名を呼ぶ声がした。振り返るとその姿はもうどこにもない。ウドめ良い仕事をしてくれるじゃないか。
「いつだってそうさ。理想を語るだけじゃ、この世界は回らねえ。どこかで誰かが、こうやって貧乏くじを引いてやる必要がある。平和な世界の帳尻合わせをしてやる必要がある」
首を失って、なお、緑の巨人は戦意を喪失していなかった。
それはそうだろう、こいつは既に死んでいるのだ。
自動で動く人型の物体に、今更頭も何もない。
こいつを殺すには四肢を引き裂いて、心臓を抉り出すくらいのことをしないと無理だろう。とてもあの優しい甘ったれのマルクに任せられる仕事ではない。
その野太い首を裂いた俺を、ハエでも払うように左手で打つ巨人。
流石のパワーだ。勢いを完全に殺すことも出来ず。
俺は向かいの壁に背中からめり込んだ。
「しかしよう、せめて、ケツを拭く相手くらいは自分で選ぶぜ、俺は」
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