第19話 聖者の証明(2)
得体の知れない不気味さに、グスタフがマルクを放した。
あの爆発の中にあって一粒も肉隗を浴びていないマルクは、涼しい顔をしている。そうしてもう一度、降伏するようにグスタフに勧めてから、彼は右手をグスタフに突き出した。
「そうか、魔法、何か魔法を使ったのだろう。いいのか、そんな抵抗をして、ヨハンナがどうなっても知らないぞ!?」
「魔法は使っていない。本当に、何もしていないさ」
「だったら、どうしてこの俺の自慢の腕が、こんなことに!!」
因果律。
マルクが呟いた。
物理学あるいは哲学の分野でしばしば使われる言葉だ。
突き詰めるところ、とある原因に起因して状態が定まるという法則を表している。
「何だ、どういう意味だ。貴様、俺をバカにしているのか」
「そんなつもりはないさ」
「くそっ、ふざけやがって、死ねぇっ!!」
残された左腕で、並べられていた座椅子を引きちぎると、グスタフはそれをマルクに向かって振り下ろした。
しかし、その椅子が、マルクの頭を穿つことはなかった。
それは唐突に、空中で燃え出したかと思うと、瞬く間に燃焼して灰に代わった。
グスタフの手に残された、わずかな木片が手から零れ落ちる。
馬鹿な、と、呟いた彼の胸に、マルクは力いっぱいに拳を打ち込んだ。
飛んだ。
グスタフの体は宙を舞って、祭壇を割り、蜀台の蝋燭を落として壁に減り込んだ。
再起不能はあきらかだった。
「馬鹿、な。なんだ、それ、どういう力だ。いったい、どうなっているんだ」
「僕にもよくは分かっていないんだ。そういうものだとしかね。実に不便な呪いでさ、僕の意思とは関係なく働いてしまうんだよね」
「寄るな、寄るんじゃない、来るなっ!!」
落ちていた蜀台を振り回すグスタフ。
まさしく、それがマルクの顔を掠めようというとき、今度は、柔らかい音と共にグスタフの顔が八つに裂けた。
マルクが呪いといったそれは、歴とした魔法であった。
魔法の名は不明。
とある古代の魔法使いが編み出した禁術。
その魔法をかけた相手を、死に至らしめる事象が発生した際、その原因となるものを強引に捻じ曲げて、死という運命を改変する、因果律を乱す魔法。
自分の命を守るためならば。
無条件に他者を巻き込み、殺害することもあたわない。
まさしく嵐のような魔法である。
教会に断末魔が響いた。
「今だ、ルドルフ、ヒルデ!!」
グスタフは動揺している。エゴンとヨハンナを取り戻す好機だ。
言われなくても、俺とヒルデは彼女たちの元へ走っていた。
突然の、エミルの肉体の崩壊に、他の死体を操る余力などなかったのだろう。操作に一呼吸遅れた死体の腕は、エゴンとヨハンナを仕留める寸でのところで、俺とヒルデの手によって切り離された。
ヨハンナをヒルデが、そして、エゴンを俺が抱きとめる。
すぐさま、俺はエゴンの口に結わえられている猿轡を外した。
「大丈夫か、エゴン」
「ルドルフさん。すみません。私が捕まったばっかりに、とんだご迷惑を」
「なに、気にするな。それより、今、縄を解いてやる」
死体を斬り捨てるのに使った投げナイフですぐにエゴンの戒めを解く。
縛っているのが麻縄で助かった。
これで、鉄鎖なんかで縛られていたら、こうは行かなかっただろう。
さぁ、形勢逆転だ。
「ふざけるな、ふざけるなよぉ。どうして、俺が攻撃したはずなのに。どうして、俺の方が傷ついているんだよぉ。どうなってるんだ。えぇ、いったい、これは」
「悪いね。けれど、命があるだけ良かったと思わないと。これがもし、操っている死体じゃなかったなら、どうなっていたかは想像できるよね」
マルクのその能力は彼の制御下にない能力である。
彼の身に危害が加わると魔法式によって判断された時、それは自動的に発動する。
条件は分からない。
本当に些細なことで、彼にかけられた魔法は、彼に迫る脅威を排除にかかるのだ。
そして、その排除の度合いも、果たして一定ではない。
ただ、マルクとその危機を遠ざけるだけで済ますこともあれば、たちまちのうちに肉隗に変えることもある。
そんな魔法を――呪いを抱えて、マルクはなお、不殺、を掲げる。
自らを聖者と称し、何者も傷つけぬようにと、自分を強く律している。
自らの呪われた運命に、ただ嘆くことを良しとせず、真っ向から立ち向かう。
そんな彼の覚悟を笑うことは許されない。
俺が許さない。
「さぁ、これで、君に勝ち目がないことは分かったはずだ。もう一度言う、投降しろ、グスタフ。貴様には、もう麦一粒ほどの勝ち目なんてないぞ」
講堂の端で、何かが蠢いた。
投げナイフを投げつける。
槍へと転じたそれは、部屋の端に隠れていたそいつの、着ている外套を壁へと縫い付けてみせた。
長い白髪と、皺が折り重なったくたびれた顔。
薄汚れた肌をしたその男は、こちらを向くや、その場に失禁して座り込んだ。
「グスタフか。なんだ、威勢の割にはしょぼくれた外見じゃないか」
ナイフを持って近づく俺に、その、卑怯で臆病な男は、助けてくれ、命だけはと、泣き喚いて懇願した。
馬鹿が、許すわけがないだろう。
これだけのことをしておいて、今更自分だけ助かろうとは。
どれだけ虫が良いのだ。
右手に握り締めた投げナイフを偽装解除してサーベルに変える。
一振り、俺は男の顔の前でそれを振った。
その高い鼻の先が、剣先に触れて血が滲む。
劈くような叫び声が講堂内に響いた。
「頼む、頼む許してくれ。ほんの出来心だったんだ」
「出来心。出来心でお前は人を殺すのか。マルクはあぁ言ったがな、てめえのやったことは、死んでも償いきれるようなことじゃねえんだよ。人の人生をてめえの勝手で壊しておいて、のうのうとお天道様の下で生きられるなんて思ってねえだろうな」
「それはすまなかったと思っている。頼む、お願いだ。そうだ、金だ。金ならあるんだ。村の備蓄を売り払った金と、ディーターが溜め込んでいた金が」
「足りねえな、てめえみたいな屑の命を救うのに、そんなはした金じゃ」
死ね。と、呟いて、俺はサーベルをグスタフに振るった。
直前でそれは止めるつもりだったが、それよりも早く、後ろから俺の手を止めた者が居た。マルク、そしてヒルデだ。
ヒルデが俺の体を抱きとめ、マルクが俺の腕を止めた。
やれやれ俺もどうにも信頼されていないのかね。
「冗談だよ。不殺のマルク様の名に、泥を塗るわけにはいかないからな」
「貴方の冗談は、性質が悪くってよ、ルドルフ」
「そうだね。君はもう少し僕を見習って、ユーモアのセンスを磨くべきだと思うよ」
勝手なことを言っていやがる。
溜息をつくと、俺はグスタフに背中を向けた。
こんな汚らしい男に、もう用なんてない。
グスタフの脇から槍を抜くと、俺はそれを再び投げナイフに戻す。
これにて事件は一件落着である。
まったく、おちおち観光もしていられないほど、忙しい事件だったな。
「あとは、帝国の司法に任せよう。しかるべき裁きを、きっと下してくれるはずだ」
「それの結果が絞首刑だったとしても、大将、アンタはそいつを殺さないのかい」
もちろん。マルクは少しの逡巡のそぶりもみせずに俺に言い放った。
そうでなくては。
俺も、お前についていく意味がない。
「ネエ!! ネエ、ドゴ、ネエッ!!」
教会の扉の方から、聞いたことのあるだみ声が聞こえてくる。
講堂へと駆け入ってきたのは浮島に非難したはずのマヤであった。
どうして彼女がここに居るのか。
俺に思いつくのは、事態が収束したと見て、お節介な魔法使いがここに飛ばした、という事ぐらいだ。
「死人の動きが止まったからね。終わったかと思って、彼女を飛ばしけれども」
そしらぬ顔をしてウドがマヤの後ろから続いてやってくる。
彼は俺とマルクの顔を見ると、おつかれとばかりに手を振ってみせた。
相変わらず妙な気を使う奴だ。
まぁいい、こういうのは、早いほうが良いだろう。
すぐにヨハンナを見つけたマヤは、床に崩れ落ちていた姉の元へと駆け寄った。
妹の来訪に驚き立ち上がろうとするヨハンナ。
「彼女は?」
「ヨハンナの妹。ついでに、昨日、お前を襲った狙撃手だ」
「へぇ。あんな小さな娘に僕は狙われたのか。なんだか、ちょっとショックだな」
「言ってやるなよ、姉恋しさにやったことなんだから」
マヤを抱きとめるヨハンナ。
そんな彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
悪い夢から覚めた安堵。
愛した男を再び失った悲しさ。
道化芝居を演じた自分への虚しさ。
妹だけは守ることができたという喜び。
しかして、愚かさゆえに祖母を失ったという後悔。
その涙に込められた意味を推し量ることは、俺にはできそうにもなかった。
ただ、この場に必要なのは、言葉よりも何よりも涙だろう。
「ネエ、ネエ、ネエ!! ヨガッタ、ブジデ、イギデテ!!」
「ごめんなさいマヤ。お姉ちゃんがしっかりしていないばっかりにこんな事に」
「どのみち、お前さんが協力しまいがしようが、こういう事態にはなってただろうよ。だからあんまり気にするな」
慰めになるかは分からないが、俺はヨハンナにそんな言葉をかけた。
悪いのはヨハンナを利用したグスタフだけだ。
騙された彼女に罪はない。
「それでもお前、自分のやったことにケジメが付けられないって言うなら、別に、俺が殺してやっても構わんぜ。ただ、アンタの恋人も、アンタの婆さんも、そのチビ介も、アンタが生きることを望んでる。その気持ちを裏切るのはまずいんじゃないか」
「けれど、私、取り返しのつかないことを」
「そんな物はこの世にはねえよ。なぁに、世の中にはもっとあくどい事をして、平気な顔をしてお天道様の下を歩いている奴もいるんだ。お前さんのような人が悩んで死ぬのが道理なら、神様は今頃大忙しだよ」
そう言って、俺はヨハンナの頭に手をかけた。
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