第18話 聖者の証明(1)

「遅かったじゃないか。待ちくたびれたよルドルフ君」


 講堂の真ん中。

 聖遺物が納められた祭壇の前に立って、ディーター卿は待っていた。


 手には古ぼけた聖書。

 そして、豪奢な装飾が施された杖を持っている。


「知っているかね。神はこの世界に人を造った時、同時に死者を造った。本来、人と死者というものは別物なのだ、と、我々の教義では教えている」


「悪いね、残念ながら俺は無神主義者だ、そういう説法はもっと暇な奴を捕まえてやってくれないか」


「いやいや、聖職者の話は聞くものだよ。神はこうも言った、人は長き生の果てにその魂を穢れさせてやがて死者となるのだ、とね。善行を積めば穢れは払われる、必然、長命であることが、その者の徳の現れであると。教会内で地位を占める者が、総じておいぼればかりなのは、そういう古臭い教義があるからさ」


 ディーター卿は持っていた聖書を閉じた。


 昨日通った、彼の書斎へと繋がっている扉が開かれる。

 中から出てきたのは、猿轡をされて後ろ手を縛られたエゴン。そして彼を支えるヨハンナ。それから遅れて、グスタフと取り巻きの死体がやってくる。


 グスタフは、死体をヨハンナ達の横につけると、ディーター卿の隣に並んだ。


「なら、不死人とは、なんぞや。これはそも、我等教会の理の外にある存在。本来この世にあるべきではない存在である。故に、教会は、不死を禁忌と定めて、これに関する研究や魔法の全てを禁止するに至った。困るのだよ、教義にない存在など、あってはならぬのだ」


「しかしそれは違う。不死人こそは、まさしく、神の理の外より来たもの」


 すなわち、神そのものだ。


 グスタフが怪しく笑う。すると、ディーター卿の目が突然白目を剝いた。

 ディーターは泡を吹き始めたかと思うと、手に持っていた杖を離し、そしてそのままその場に倒れこんだ。地面に膝を折るや、その頭が、胴から零れ落ちる。


 下膨れた頬により、球に近くなっていたディーター卿の頭は、そうして講堂の床を転がって、俺の前まで来た。


「私はね、ここに神の国を造ろうと思っているんだ。邪魔をされては困る」


「てめぇ、ディーター卿も手にかけたか」


「彼にはそもそも、この計画が成った暁には死んでもらう予定だったのさ。ふふっ、哀れな男だよ。不死人の兵によって、自分を追放した帝国の者たちに復讐するなんてさ。そんなことを私が許す訳がないじゃないか。大切な大切な、俺の国民を」


 こいつが破門されたのは死人操作の禁術に触れたからだが、この様子では、禁術に触れずとも遅かれ早かれ、人間的な破滅は免れなかっただろう。


 哀れな男だ。しかし、同情してやる気なんて毛頭ない。

 俺は胸のベルトから特別製のナイフを抜いた。


 魔装を解除すれば、それは一振りのサーベルへと変形した。


「おっと、やる気かい、しかし、いいのかね。こちらにはエゴン、そして、ヨハンナが居るんだ。私の首が飛ぶのと、彼らの首が飛ぶの、いったいどちらが早いかな」


「くだらねえ、俺のが早いに決まってんだろうが、舐めんな、腐れ魔法使いが」


「駄目だよルドルフ、そんな、安い挑発に乗ったりしたら」


 ディーター卿と対峙している俺たちの背後から声がした。


 それは俺たちが追っているはずの男の声だった。

 どうしてこの場に、まだ来ていないのか。

 こんな時まで遅れてやって来る、マイペースな男の声だった。


 俺とヒルデの間を割って、マルクがグスタフの前に顔を出した。

 やっぱりいつもと代わらない、人の良さを前面に押し出した笑顔をして。


「おい、マルク、邪魔するなよ。ここは俺がやる」


「ディーター卿、いや、グスタフ・ブランシュ。今すぐ死者に対する冒涜を止めて、我々に投降しなさい。君がやろうとしていることは、不死の追求ではなくただの死者への冒涜だ。今その行いを悔い改めるというのなら、君の罪が軽くなるよう、僕が口ぞえしてあげよう」


「マルク、てめぇ、こんな時までなんて日和ったことを」


 しかしながら、これが――この甘さこそが、聖者マルクを聖者と言わしめる所以でもある。


 どんな悪人に相対しても慈悲の心を忘れず、弱きものを助け、強きものも助ける。

 ただ平等に、人を助けるためだけに、その力を使い、行動する男。


 そして、この戦乱の時代の中にあって、軍という命のやり取りの場にあって、決して曲げずに、その、軍人の本懐ともいえる行為を、頑なに拒み続けるその強い意思。運命も宿命も、その身に刻まれた血の呪いさえも、全て否定して貫き通すその信念。


 それこそが、俺が彼を友と呼ぶ理由であり、彼と共に居る理由だった。


「ははっ、噂は本当なんだな。不殺のマルク。私のような下衆を相手に慈悲を見せるとは。温い、アイゼンランドの聖者殿は、実に手温いお方なことだ」


 聖者マルク。


 不殺のマルク。


 幾多の戦場にあって、ただの一度も血を浴びず、戦局を打開してみせる彼を、アイゼンランド公国の者も、帝国の者も、敬意を込めてそう呼んだ。


 彼がどれほどの決意を持って、その名を名乗っているとも知らずに。


「笑ってるんじゃねえよ。てめぇ」


「ははっ。怖いですね。ほら、聖者殿。このままでは、私は貴方の部下に殺されてしまいますよ。部下が手を出したということは、すなわち、貴方が手を出したも同義ですよね」


「マルク!!」


 マルクの不殺の覚悟を承知で、俺は、彼に、グスタフの殺害許可を求めた。


 このまま奴を野放しにしていいはずがない。

 このまま奴を殺さずに逃せば、またこの街のように、何の罪もない人々の生命が奪われることになるのだ。


 殺さなければならない。


 殺すべきなのだ。


 いや、殺させろ。そいつを、俺に、殺させるんだ。


 そいつは殺すに値する。


 死んで当然の男だ。


 罪人だ。


 俺が、喰らうに値する、下衆だ。


「それでも、駄目だよ。ルドルフ。僕は、彼を、殺さない。殺させない」


 俺の殺意を真っ向から受け止めて、マルクはそう言い放った。

 真っ直ぐな瞳が俺を見ていた。揺らがない信念が俺の殺意を見咎めていた。


 そんなことをしてはいけない。


 初めて会った時、彼に言われた言葉が頭の中を過ぎる。

 その言葉で、俺は、救われたのだ。

 自分がどうしてこんなことをしているのかと、苦界の中に身を置くことに疑問さえ抱かなかった俺の心を、その言葉で、こいつが救ってくれたのだ。


 殺意が失せていくのが分かった。

 そして、俺の手を、ヒルデが握っているのに気づいた。


「駄目よ、ルドルフ。呪いに負けてはいけないわ」


 俺の中で再び暴れだそうとしていた獣は、彼らの手によって再び鎖に繋がれた。


 手にしていたサーベルを魔装解除してナイフへと戻す。

 それを胸のベルトへと収め直した俺は、任せる、と、マルクに言って、一歩後ろへとさがった。


「おやおや、健気な部下さんじゃないですか。隊長の望みを聞いてさがるなんて。けれどね、彼の方が懸命ですよ聖者殿。それでいったい私をどうするつもりなんです」


「どうしても、ここで事を収めてくれる気はないのかい」


「どうしてここで私が降参する道理があるのか、逆に教えて欲しいものですね」


 グスタフの体が膨張していた。


 服の下の筋肉が盛り上がり、熊のように肥大化したかと思うと、その大きな手がマルクの体を掴み上げた。


 おそらくだが、何人かの死体の筋肉を寄り合わせて無理やりに強化したのだろう。

 何も死体を操作するだけが、ネクロマンサーの本領ではない。

 しかし、悪趣味極まりない行為だ。


 その野太い腕を振り上げて、愉悦の笑顔をマルクへと向けるグスタフ。

 その歪んだ顔の中には勝利への確信があった。


「さぁ聖者殿、絶体絶命だ。この丸太のような腕は、鉄の板も簡単に曲げる。どうなるだろうね、こんなものを貴方の頭に打ちつけたら。きっと楽しいことになると思うんだがね」


「それでも、僕は言うよ」


「馬鹿は死なないと直らないってことですかねぇ」


「ここで手を引かないかグスタフ」


「聖者殿、その若さで申し訳ないが、あの世で神様とよろしくやってくれたまえ。きっと、君なら気に入ってもらえるだろうさ」


 馬の足ほどもある大きなグスタフの腕が、マルクの頭の上へと振り上げられる。

 やめて、と、ヨハンナが叫んだその時、グスタフの腕はマルクの頭を穿った。


 赤い肉隗が飛び散った。


 しかしてそれはマルクの脳漿ではなかった。


 その爆発の後も、マルクの首から上は相変わらず、いつものまま、余裕の微笑こそなくなっていたが、胴にくっついていたのだ。


 弾けて飛んだのは、マルクの頭を叩いたはずの、グスタフの腕の方であった。


 無残。

 腕の第二関節から、まるっと消失したそれに、グスタフは目を剝いた。

 と、彼のその表情は告げていた。


「いったい、何をしたって言うんだ」


「別に、何もしていやしないさ。

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