1-9
殴られた少年の倒れる音とともに、砂塵がまた一つ舞った。
グレイが唯に連れられて歩いていたポイントへと向かう通路から、ケイイチが中庭の訓練場まで引っ張り出してきたのだ。
といっても今はいつもこの場所を見張っているはずの守衛はおらず、脱獄したテロリストに対処しているのはケイイチ一人だけだ。
基地のいくつかのポイントで、機械に異常が発生したらしい。侵入者が潜伏した可能性があるとの理由で、守衛を含む警備兵たちは出払っている。元凶がこの少年であることが、ケイイチは誰に聞かれずとも、彼に唯が案内をさせられていたという状況だけで把握した。
生命の息吹を感じさせるものが何一つない荒野の上で、彼はグレイの顔に向けて殴打を繰り返していた。
「『はい』か『いいえ』くらいは言えよ……さっき唯には饒舌だっただろうが」
倒された弾みで口の中に入った砂を、褐色の肌をした少年は唾とともに吐き出した。両腕を肩からぶら下げるように下ろし、攻撃の意図は見せないが同時に降伏の意図も表さない。
「何を狙ってここに来たんだ?」
何が目的だ、よりも半歩具体性を孕んだ質問に、眉や頬が痛々しくはれ上がったテロリスト少年の顔が反応した。自分が独房を離れた後手当たり次第に隊員たちに襲撃を仕掛けず、警備兵を装って唯に何らかの場所に案内させたことから、単なる無計画な襲撃ではないとケイイチは見抜いているのだ。
「……へへっ」
ケイイチの背筋を、悪寒が走った。
テロリストの少年の口の中にあったのは、牙。歯ではない、牙。
人間の犬歯をさらに長く、鋭くしたような、刃物といって差し支えない牙の列が、口の中からギラリと姿をのぞかせていた。犬歯だけではなくすべての歯が、サメのそれのように鋭くとがっていたいたのだ。
もはやただの【トーガス・ヴァレー】のテロリストではないことは明らかだった。今まで捕らえたテロリストたちで、こんな狂気を孕んだ人間は見覚えがない。ケイイチの心中では、そもそも人間なのかどうかすら疑わしくなっていた。
その危機感故に、ケイイチは【サイラス】の基本装備である四五口径の拳銃を、グレイの前に構えた。
こちらの世界の太陽がもたらす熱気が、焦燥感をますます煽る。
「質問に答えろ……!!」
「……クハハッ、かっけーな兄貴、まるで映画のアクションスターみてぇだぁ」
今までほぼ肉体言語だけでコミュニケーションをとってきたとは思えない、友好的で、だからこそ不気味な反応だった。
その笑みを前に、ケイイチの表情は益々動揺を隠せなくなった。
【アーロン】で出撃しているときには、このような動揺はみじんも覚えたことがなかった。いや、地球にいたころ、マフィアの下でGOW乗りとして戦闘をしていた時にすら感じたことがない。
身もふたもない発想だが、今この場で【アーロン】で彼を踏みつぶせたらどんなにいいかという思いが、ケイイチの前をよぎった。
彼のその心境を知ってか知らずか、グレイはさらに彼に歩み寄ってくる。
「……余裕がないのかい? 兄貴」
少し殺し合っただけの男に対して、兄弟同然の大親友であるかのように親し気な態度を見せてくるその少年。
「お前の存在は、この世界の秩序を根本から覆しかねない」
「違うね、俺は『
「……?」
要領を得ないグレイの発言に、ケイイチは細部まで理解することを諦めた。今重要なのは、この少年が今この場で何か反逆行動を行おうとしていたということだ。
「俺一人の手で捕まるような奴が随分と強気だな。GOWの腕がいいのはわかるが、お前には肝心のGOWがない。乗ってた【サリソー】も借りものなんだろ?」
「あれは惜しかったなぁ……
「『作戦』……?」
おっと、口が滑りすぎた。
そう言わんばかりに見開いた眼と浮き上がらせた両肩でおどけたそぶりを見せるグレイに、ケイイチの神経は益々逆なでされた。
「まぁいい、よく覚えといてくれよ兄貴。今回のはほんのあいさつ代わりだ。兄貴じゃなくて、地球人どもへの……」
言葉を紡ぎ終える前に訪れた一瞬の静寂。
違和感を覚えたケイイチは、無意識のうちに身構えていた。
「……な」
彼が話し終わった直後、猫背のままの彼の口元から、拳大の影のようなものが落ちていくのをケイイチは見逃さなかった。この時何らかの違和感を覚えていたというだけでも、彼の卓越した戦闘センスは発揮されていたと言える。
だが彼にとって不幸だったのは、前かがみになった少年の体が影となって、落下したものの正体が確認できなかったことであった。
その何かを、少年はほぼ反射的につかんだ。
義歯だ。
そしてそこから生えるのは、武器として使える鋭さを持った、鮫のように鋭い歯―――
「シャァッ!!!」
ガチィン!!
右手を振り上げる一瞬の動きで蝶番を思いっきり閉じ、ケイイチの右腕を挟み込む。
「ぐぁっ……!!あああああああああ!!」
一瞬で腕から吹き出る生々しい血と、体全体をすりつぶしてしまいそうな痛みに、ケイイチは悶えながら崩れ落ちる。
EoEの戦場を訪れて以来、初めて肉体に直接受けた傷跡。くしくもその傷が、二人のGOWでの戦闘で【アーロン】が傷を受けた部位と全く同じ個所だったことには、少年もケイイチも気づいていない。
痛みに苦しみ悶える若き【サイラス】特別士官の姿を、血にまみれた
「首を挟んで殺すつもりだったが……兄貴の勘には適わねぇな」
だが反撃に成功したグレイの目は、既に彼の顔に向けられてはいなかった。彼の視線は、ケイイチが右腕に巻いていた腕時計に焦点を合わせていた。
「十一時五分か。わりぃな兄貴、時間がねぇ……ペッ」
口の切り傷から流れる血を砂地へ吐き出すグレイに、痛みに歪む意識の中で辛うじてケイイチは仕返しの意図を見てとった。
基地入り口前の砂漠を二人の少年の血が赤く染めたのを確認すると、満足したようにグレイは踵を返した。
「ま……待て!!」
「わりぃけど構う時間がねぇ。あばよ、兄貴」
ケイイチの痛みに苦しみながらの制止は、走り去っていくグレイを引き留めることすらできなかった。
「ふざけるな……お前をこの基地で野放しにすれば……ッッ」
傷自体の痛みと、血と共に噴き出る汗が傷にしみる痛みの両方に鞭打たれた状態で、さらに内心では彼の基地内での暴走を止めなければならないという焦燥が冷静になることを阻んでいる。
そんな彼の肉体と精神に鞭打つように、基地に複数設置されたサイレンがけたたましく鳴り響き、【サイラス】隊員たちに
今頃あの少年の存在に基地上層部が対処したのかとケイイチは苛ついたが、少しの思考の後考え直した。発されている警報音が、ピックスレー基地自体が襲撃された際の音ではなく、別基地が奇襲を受けたときのための支援要請用だったからだ。
『こちら空軍基地!!謎のGOWの攻撃を受けた!!』
スクランブル時のサイレンとともに、落ち着きのない通信部オペレーターの一報が中継されて、基地の各ポイントに設置されたスピーカーから聞こえてきた。
あまりに突然の事態に、彼は一瞬腕の痛みを忘れた。
―――攻撃を仕掛けたテロリストが他にもいるのか?
しかも、警報は一つではなかった。
「ラグーナ・セカ駐屯地より!! 付近のエリアの【サイラス】部隊を所属不明のGOW一体が急襲中!!」
「こちらエリアC5!! 小型のGOWを迎撃中、救援をお願いします!!」
「傭兵キャンプに
洪水のようになだれ込んでくる、別々の基地からの通信音声。
【サイラス】内の四つの拠点が、同時に正体不明のGOWによる攻撃を受けたという事実を、スピーカーから流れる通信音声から辛うじて導き出した。
【サイラス】が掃討しているテロリストたちには、基地を直接襲撃できるほどの兵力はない。これまでの掃討作戦で、少なくともケイイチはそう認識していた。
傷の痛み、そして混沌を極める状況の中で、彼の目は焦点を失い、精神は混乱する一方だったが、そのような状態のケイイチにも一つだけ疑いなく認識できる事実があった。
―――明らかに何か得体のしれない混沌が、
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