1-8


 その一瞬は、驚くほど静かに起こった。

 あの日の戦闘でケイイチに気絶させられた少年は、今はロープを何重にも縛られた状態で二四時間直立したままの姿勢を維持している。

 寝ることはおろか座ることすら許されない状態は体幹に多大な負担をかけるものであり、その状態を維持し続けることは最悪肉体や精神の異常にもつながる。

 しかし少年の容態には、十日間で驚くほど変化が見られなかった。過剰ともいえる拘束を十日間続けられてなお、少年の肉体は健康状態を保っていたのだ。

 だからこそこの日も彼の視界はぼやけることなく、白衣を身に着けた金髪の女性が、警備兵を一瞬の動作で眠らせる光景を捉えていた。

 女性の手には、催眠作用のある抗不安薬のクロルジアルポキシドを何倍にも濃縮してしみこませたハンカチーフが握られていた。

「時間よ、【グレイ】。【スタインフレーム】はそこまで来てる」

 少年―――グレイは、目の前の警備兵を眠らせた張本人―――女医、セアリー・シャフターのその言葉を、直立状態のまま受け止めた。

 発言直後にセアリーは、片手に持っていたケースからあるものを取り出した。いつもは輸液パックが入っているはずのケースに入っていたのは、ナイフホルダーに固定された丸ノコ(クラッシュカット)だった。

「何者(なにもん)だ? お前」

「ピンカム財団から派遣された【サイラス】衛生科の看護師にして、【ウィードパッチ】の【C】直属の部下……と言えばわかる?」

 【サイラス】側の人間であれば理解不能な表情を返したであろう返答。しかしグレイは何かを察したような表情で右の口角をつり上げた。

「じっとしてなさい、炭素繊維ロープを切断する」

「俺の腹ごと切り裂こうってんじゃないだろうな」

「私単独で作戦を考えていたらそうしたかもね。でもくだらない嫌悪感で、これからの計画を台無しにしたくはないの」

 その言葉を証明するかのように、彼女が操作した丸ノコ(クラッシュカット)は、少年の右頬から右のつま先まで直線を描き、精密にグレイの体を傷一つつけないままに、炭素繊維のロープだけを切り落とした。丸ノコが〇・一ミリでも前にずれればグレイの鮮血が噴出しているところだったが、本職が医師であるセアリーにとって、繊細な技術を要する任務は造作もないのだろう。

「こいつから服を拝借したら、今すぐメモしてあるポイントに向かいなさい」

 少年に紙きれを渡すと、丸ノコをバッグへと閉まったセアリーは気絶した警備兵を数回軽く蹴って、少年に変装を促した。

「私はこれから、貴方に【スタインフレーム】を届けるための最後のおぜん立てをしてくる。このために何人もの人が、十五年間待ち続けたからね」

「俺はこの場所の地下すらよく知らねーぞ、起きたら縛られてここにいたんだからな」

「案内してもらうのよ、この先にいる女の子に」

「…あの姉ちゃんか」

 セアリーの発言に、一人の純真無垢な黒髪の少女をグレイは思い出した。

「それじゃ、後で落ち合いましょう」

「その前に一つ答えろ」

 今まさに独房を走り去ろうとしていたセアリーが、苛ついた表情を隠さずに着替えを始めているグレイの方に振り向いた。

「なんで俺に彼女あの姉ちゃんを会わせたんだ?」

 無視して立ち去ることもできたはずだし、彼女の『作戦』を迅速に行うためにはそうする方が得策だった。しかしグレイの問いを聞いたセアリーは、無視することなく少しの間思案した後、こう答えた。

「……戦場では、不確定要素が時に『よい結果』を招くのよ」

 グレイの反応を確認する間もなくセアリーが独房から走り去っていった後も、その言葉は不思議と鮮明にグレイの脳裏に残り続けていた。


「んっ……」

 いつの間にか閉じていた瞳を、唯はそっと開けた。

 ついさっきまでセアリーと少年について会話していたと思っていたら、収容所入り口前の廊下、壁に近く人目に当たらない位置でだらしなく倒れ、寝転がってしまっていたらしい。

 なぜこんな場所でこんなだらしないマネをしてしてしまったんだろう。そんな疑問に途方に暮れる彼女を起こしたのは、護衛兵でもセアリーでもなかった。

 目の前にいる男は護衛兵の服を着ていたが、その視線は―――

 ひっ、と、無意識のうちに唯は、呼吸をとめていた。

 少し前まで独房で身動き一つとれない状態にあったはずの少年が、護衛兵の服を着て独房の外で自分に向けて自分に詰め寄っているのだから。

 恐怖を感じてはいけない。同じ一人の人間として接しなければならない。

 脳が必死にそう訴えかけているのに、唯の体は少年―――グレイの視線に、ある種の本能的な危機を感じ取らずにはいられなかった。

 そんな恐怖を隠せずこちらを見てくる唯に、少年はつまらなそうに告げる。

「震えるこたぁねぇ…案内してほしいだけだ」

 逆らえば何をされるかわからない恐怖と、男を野放しにした状況への不安、そして彼女自身の自己評価の低さが頭の中を支配し、混乱状態に陥る唯にも構わず、少年は言葉を続ける。

 「気にすんな、アンタは俺に脅されて案内したってことにすりゃいい。この紙に書いてある場所に行った後でな」

 

 すぐ後ろを歩く褐色肌の少年に促されながら、言われた場所へと歩みを進める唯。ピックスレー基地の職員や【サイラス】の士官たちがあわただしく、施設内を歩く二人の前を走り去る光景が何度かあった。自分に【スタインフレーム】を届けるためのセアリーの工作活動で、基地施設に異常が発生したのだと、ただ一人グレイだけが状況を察していた。

  一方で、唯はこの一分一秒の間にも、正直すぎるほどに恐怖で震える自分を恥じていた。

 彼に一杯の水を与えた後の話を聞いた時、両親のいない彼を可哀想だと直感で彼女は認識した。しかし彼自身がいつ、両親のいない境遇を辛い、不幸などといったのか。助けを求めても悲しんでもいない彼に対して可哀想という感情を持つことは、幸せな家庭で育った人間の上から目線に他ならない。

 先日の少年との会話で自らのその感情を自覚したとき、自分はこの立場から退いて、地球に帰るべきかもしれないとすら思った。

 だが、しかし。

 上司のセアリーに向けて、「地球に帰りたい」の一言をどうしても発せなかった。簡単にその言葉を紡ぐには彼女は頭が良すぎたし、前に進み過ぎていた。自分が引き下がることによって、EoEと地球の接点が失われること、そして自らがこれまでに歩んできた経緯が徒労に終わることを考えると、そちらの方に、より強い恐怖を感じた。感じてしまったのだ。

 ―――卑しく見えたんだろ?

 少年に嫌味を言われた次の日、彼女は自分なりに頭を整理して、彼の問いへの返答を考えた。次に彼の点滴を担当する日、その返答を、自分の口からはっきりと語るつもりでいた。しかし待っていたのは話し相手の脱獄という、イレギュラーすぎる事態だった。

 24時間身動きできない状態で捕縛されていた彼が、なぜ独房を抜け出すことができたのか。自分と同行していたセアリー医師はどこへ行ったのか。すべての状況が今までとずれていて、今の彼女の頭では整理しきれない。


 しかし。

「独り言だと思って……聞いてください」

 気が付けば、口が開いていた。

 話し相手が地球の住民とは価値観が異なるEoEのテロリストであり、恐怖を脳が支配しているにも関わらずだ。


「私は……EoEに生きる人々を、理解したくって、この世界に来たんです」

 本来独房の中でとらわれていた彼に向けて言おうとしていた言葉を、自由の身になった彼にゆっくりと、それでいて流れる川のように自然に紡いでいく。

「でも貴方と会話していて、気づいたんです。今の私には、貴方に歩み寄る資格も責任もないんだって」

 テロリストの脱獄という異常事態が起こった以上、今後この少年、この基地、そして自分がどのような運命をたどっていくか、一切は闇の中にある。であるからこそ、悩んだ末の自分の結論をどうしても伝えるべき人間に伝えておかなければならないという思いが、唯の中で状況把握や、逃亡方法の模索に優先した。

「情けない、ですよね。価値観が違うことを、恐れちゃいけないと思ってたのに……」

「……」

 一方グレイはというと、唯が最初に言ったとおり、彼女の言葉は聞き流すつもりていた。

 別に彼は彼女が自分を見下そうが、彼自身にとってはどうでもよいことだった。一人の人間の無意識の心情など、これから自分が下す【反逆】に比べれば些細な問題でしかない。

「まだ自分の性根と、折り合いを付けられたわけじゃない……でも、昨日から考えて続けて、変わらなかったことが一つあるんです」

 自分が卑しく見えたか、という彼女に対して発した嫌味も、『地球のお嬢様は世間知らず』なのを再確認するという、その場限りの興味本位以上のものではなかったし、そもそもグレイはその時自分が彼女に語った内容もうっすらとしか覚えていない。

「無力だっていい……傲慢に見えてもいい……あなたが話してくれたこの世界のリアルを、私がもっと聞いて、地球の人々に伝えないと、EoEの現状も地球との関係も、よくなる機会すら手に入れられない……だから」

 だから彼女の言葉も、自分自身が発した言葉と同じように聞き流してすぐに忘れることにした。

 そのはずだった。


「許されるなら……あなたともう一度話がしたい」

「……」


 グレイはこの時、ふと何の脈絡もなく感じた。

 

 ――死ぬぞ、この姉ちゃん。


 白衣を身に着けただけで、銃器も刃物も、それを使うために必要な激情も持ち合わせていない女性。こんな女性がこれ以上自分と関わると、何かを得る前に命を落としてしまうことは確実だ。彼女にあるのは意思だけで、自分のように身を守る力はないに等しいのだから。

 彼女がどうなろうが知ったことではない。そう割り切ることもできた。実際拘束前に協力していた【トーガス・ヴァレー】のテロリストの自爆にも、彼には何の感慨を呼び起こすこともなかった。

 しかし何故だかこの時グレイがほぼ反射的にいだいた感情は、呆れでも無関心でもなく、だった。

 そう自覚したころには、すでにグレイも口を開いていた。


「よくわかんねーけど、姉ちゃん、アンタも命が惜しいんだろうし、この後―――」

「何をしろって言うつもりだ?」

 ―――俺から解放されたら、すぐ地球に帰んな。

 グレイの言葉を、途中である声が打ち切った。



 声の主は声だけではなく、原始的な非言語的コミュニケーション―――肉体言語でもグレイを捉えていた。彼の右手首を掴んで離さないのは、つい十日前彼が初めて会ったばかりの青年だった。

 壁を砕くような打撃音が、唯の耳にまで響いた。

 言うが早いか、GOWの鋼の巨腕を思わせる鉄拳がグレイの頬にさく裂していたのだ。

砂塵を舞わせながら倒れるグレイを確認すると、ケイイチは即座に唯の右手首をつかみ、引っ張り出すように彼から解放した。

 暫くの間、その場を沈黙が支配した。テロリストに容赦のない兵士としての挙動を目の前で見せられた唯が当惑していることが、ケイイチには背中越しでもわかった。

「逃げろ、唯」

「……ごめんなさい」

 彼女の安全と、一種の羞恥心のために、彼は逃走を促した。


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