第12話 異変解決へ



「はあ」


 森を探索中。

 僕は見つけた古いきりかぶに座り、深い息をついていた。


「……あら、元気ないのね」

「そりゃそうだよ」


 あんな光景を見たんじゃあ。

 僕はオリゼに説明することもできず、ただ情けない息をつくしかできなかった。できれば、このまま『何も見つかりませんでした』で終わらせて、マリアテールさんの前から消えてしまうのがいいのかもしれない。


 ……もちろん。そんなこと無責任だって分かっているから、やらないけどさ。


「あなたはどうか分からないけど、私もいくつか気になる部分を発見したわ」


 ……? そうなのか?

 僕は驚いてオリゼを見た。


 一緒に探していて、ちっとも気がつかなかった。


「頭を使う分野は、私の仕事よ。この屋敷、よくよく見てみると違和感が多い場所なのよね……。人が暮らしている気配もあって、もちろん農園への道も、山道も整備されているけど……ところどころ、なにか食い違っている」

「……? どういうことだい?」

「まず、門構えの柵。よく田舎富豪の家にある立派な柵だけど、妙に朽ちている風ではなかったかしら」


 そうだったかな。

 僕は思い出す。


 そういえば。先日、僕は屋敷の窓から外を見て、門前で手入れする家人のセダンを『寒そうだ』と思った。でも、よくよく考えたら、柵が壊れているからよく見えたのかもしれない。


 それに、水を汲み上げる井戸も妙に古めかしく感じられた。庭の切りかぶも。どこか風化しているというか、不思議に時代を感じさせる。そういえば田舎貴族の家柄らしいが、肝心の交流ある村人たちの姿も見えない。


 ……人が、いない田舎の屋敷。


 僕が感じた寂しさは、そういった種類のものだった。



「それに、〝馬〟よ。私は合理性が好きだから、この山へ捜索に向かう際に馬を借りようと思ったの。旦那さんが亡くなってから、馬も余っているだろうと思って」

「へえ。オリゼって乗馬できるの?」

「できるわけないじゃない。あなたの後ろに乗るつもりだったのよ」


 え。なんだそれ。

 確かに、僕は士官学校で乗馬も習っていて、人並みには乗れるが。


「でも、馬。小屋にいなかったのよね」


 オリゼは、もう一つの切りかぶに腰掛け。両手で頬杖をつくっていた。


 考る面持ち。

 僕は、何がそんなに違和感なのかよく分からなかった。


 だって、馬がいないってことは、ご主人が亡くなってから親戚に引き取られた可能性だってあるんだし。それに、あのマリアテールさんが馬に乗れるとは思えない。

 ずっと飼ったままにするよりも、別の余生を馬に生きさせたいと思うのが自然かもしれなかった。


 そりゃ、ご主人の馬なんだから。感情的に、もういなくなっているのは少し変だとは思うけどさ。写真とか、思い出の書だってあんなに大切にしていたんだし。


 でも、


「違うのよ。私が気にしているのは、そこじゃない。馬具が錆びていたの」

「……? 錆びてるって、鉄でできた蹄ひづめがかい?」

「ええ。そうよ」


 彼女は頷いていた。

 蹄鉄ていてつのことだ。アストレア隣国の古い語源で、ホースシュー〈horseshoe〉。僕も士官学校で馬の扱いを学ぶときに、何度か触れたことがある。

 馬の蹄を保護する装具(爪先立ちで走る馬には、負担が大きい)で、約七世紀前に開発された。


 しかし。それが、なんだというのか。


「おかしいと思わない? 馬小屋にあった馬具が、どれも古く朽ちて、蹄鉄に関しては錆びついていたのよ。――あれは、とても一年や二年でなるような見た目ではないわ。干し草もなかった。まるで、馬がずいぶん前にいなくなっていたような光景だったのよ」


 ……いや。でも。

 そんなことあるはずなかった。確か、昨日マリアテールさんに聞いた話では、主人が亡くなったのは『一年前』。冬を迎え、もうすぐ二年目に入るとはいえ、まだそこまで老朽化するような歳月ではない。


 よく分からないが、オリゼの知らない事情でもあるのではないか。

 少女は深刻そうな顔をしていた。沈黙し。瞳を深く沈めている。なにも、そんなに考えなくても……と。僕がそう思っていたとき。


 ――グルルルルルル――。


 僕たちは、弾かれたように顔を上げた。

あの独特の唸り声。目を上げると、枯れた木々と落ち葉の光景から、黒くゆったりとしたシルエットが出てきた。


「……く、ま……?」


 オリゼが、目を瞠っていた。

 熊……だ。四つ足。獰猛な両目。そして、獣の唸りと、丸太のように太い腕……。


 まずい。僕は血の気が引いていくのを感じた。

 僕は父との何度かの旅のうち、この怪物に出会ったことが二度ほどあった。


 この国には、絶対に出会ってはいけない生物がいる――。どんな恐ろしい逸話の化物も、呪いの魔道書も。この生き物には負けるかもしれない。



 東国でいうところの『虎』に近いかった。

 こちらでは獰猛さや勇猛さが、王族たちの猛々しさの象徴と崇拝のエンブレムとなり。アストレア国の徽章旗にも使われている。極めて有名であり、また身近な危険さなのだ。


「オリゼ……下がって」


 僕は小声で呼びかけた。慎重に、刺激しないように。


「え、ええ。でも……」


 どうするの? と。オリゼは不安そうに問いかけてくる。

 書物には載っていない事態が起こっている。自然の脅威であり、危機なのだ。森が唸りを上げているように、ひたひたと迫ってくる黒い影にオリゼは身を固くしていた。

 しかし、僕にはとっくに答えが出ている。


 ――倒す。


 それしか、ない。

 戦わないとオリゼを守れない。生きて出会ってしまった熊からは、絶対に逃れる術などないのだ。なぜなら、野生の熊は本当に賢い。間違っても死んだふりなんかしてはいけない。ヤツらは木にも登ってくるのだ。


 背を向けたら、襲いかかってくる。

 立ち止まったら、容赦なく爪で皮膚を切裂いてくる。

 僕は、父との旅で出会った商人たちから、何度も仲間が喰われた話を聞いていた。

 オリゼを下がらせ、身を低くする。


 ――『一閃』。

 すべてを、賭けるしかない。


「…………っ、」


 イアイ、独特の呼吸。

 僕は深く吸い込んで、猛獣の息づかいも測りながら、そろり。そろり。足をにじりながら自分の『領域』を広げていく。だんだん体が熱くなっていく。自分の運動量を、体が調節し、温めていく――。

 いざというときに、爆発するような瞬発力を発揮するために。


「…………」


 獣の唸りが、耳に近くなる。

 腰の『鞍馬〈くらま〉』を、ねじるように左手で浮かせる。


 少しずつ『死域』に足を踏み入れている感覚がした。まるで、沼に足が取られたように重くなっていく。それでも、両肩を押さえつけてくる重圧をかいくぐって――足をにじり進ませていく。


 近い。黒い鼻先が、くっきり見える。

 利き腕は、下げている。攻撃範囲のためだ。イアイは〝範囲〟が重要な剣技で、そのために腕を『軸』とする。だから、敵に最も攻撃されやすい場所にさらす…………〝諸刃の剣〟である。


 だからこそ、瞬間火力は最大級。

 僕はこの『一閃』に、すべてを賭けるしかなかった。


「…………」


 冬の風。枯れ葉が、舞った。

 後ろで、オリゼが息を呑むのが分かった。


 枯れ葉の向こうのシルエットが、消える。舞う葉に隠れて、ふわり。こちらに自然に足を踏み出していたのだ。気がつけば、僕に驚くほど接近し、鋭利な爪を――猛然と振り下ろしてきていた。


 僕は、その音を忘れた一瞬の中で、


「――ッッッ!」


 バキッと。刀を鞘から引き抜き、一閃していた。


 凄まじい手応えである。手が痺れる。普段なら絶対に聞こえないような音が聞こえた。

 僕の刀が、熊の一撃と重なって弾かれたのだ。当たったのは爪であった。顔を狙ったはずの一撃に僕は反動を受け、枯れ葉に膝をつく。熊ものけぞりながら飛び、枯れ葉に倒れてしまっていた。


 葉が、森に舞いあがる。

 熊は――背中を丸めていた。襲いかかってくることはしない。よほど僕の〝反撃〟が予想外だったらしく、それから距離をとって駆けだした。

 強敵は、森の奥に消えていく。


(…………父は、一撃で倒したんだけどな……。)


 僕は刀を見ていた。刃こぼれがしている。

 今度ばかりは危なかった。僕が『一閃』を決められなかったら、きっと頭を割られて即死していただろう。



「……すごい。熊を、追い返したの……?」


 オリゼが、木の幹の影から顔をのぞかせる。


「逃げてもらっただけだよ。あそこで、死にものぐるいの斬り合いをしても〝お互い〟に益はなかったからね。熊も、僕ら人間と同じさ。賢いんだ。本能でそれを感じとって、逃げてくれたんじゃないかな」


 僕は、旅の商人から聞いた話を思い出す。

 獰猛な熊とはいえ、冬は猫のように大人しくなって巣穴に隠れているらしい。『冬眠』というらしいが、僕たちが通りかかったのはたまたま熊の巣穴で、もしかしたら起こしてしまったのかもしれない。


 森は、彼らにとっての聖域テリトリーなのだから。


「……森は、危険なのね」


 当たり前のことを、オリゼは深刻そうに呟いていた。

 それから、意を決したらしく。


「分かった……。私、ずっと人に見せなかった私のやり方を使うわ。本の蒐集家しゅうしゅうかとしてのね」


 ……? ん?


「ずっと迷っていたの。あなたに、見せてしまってもいいのかと思って……。私のことを、変な女だと思われてしまうんじゃないかって」

「それは、今に始まったことじゃないだろ」

「ううん。違うの。私はね」


 彼女は、口ごもって。

 それから、やっと目を上げた。



「――私、詠唱鬼ヴァンドールの血をもつの」


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