第三夜 ②
彼女が腕によりをかけて作った料理が温め直され、スープやサラダが並ぶ。
ステーキがレアの加減で焼き上げられて沸きたつ肉汁が芳ばしい香りを立ちのぼらせる。
彼が手も触れずにワインを開け、グラスに傾けた。流れおちるワインは途中から枝分かれして2脚のグラスを同時に潤した。
3本のキャンドルの先に火種が生まれ、一斉に部屋を明るくする。
普通に手を使って食事を口に運び始めると、念力はレッドと遊ぶために威力を発揮した。
ずっと仕舞っていたフリスビーがいま自由気ままに飛びまわっている。
もう一枚焼いたステーキを追いかけてレッドは部屋の中をぐるぐるまわる。
「このままバターになっちゃいそうね」
久しぶりに逢えた愛犬の必死な姿に彼女は心の底から笑った。
「そら…!」
彼は意地悪な顔で彼女の口にプチトマトを滑り込ませる。スープを飲み損ねて上目遣いに睨む彼女の目の前にパスタで『SORRY』と描き、思わず笑い合うと空中のそれを二人で吸い込んだ。
包丁やナイフを何本も引っ張り出し、彼女手作りのケーキを一瞬で8つに切り分ける。
「メリークリスマス!」
2つの声が重なり、もう一度乾杯の音を響かせ、甘いひと時を味わった。
楽しい時間があっという間に流れ、そして12月24日最後の10分が訪れる。
目を火傷しそうな2人のイヴをじっと見守っていたサンタはやおら1つ手を叩いた。
「さて、おふたりさんクリスマスイヴをお楽しみのところじゃが… この奇蹟はイヴの終わりとともに消滅してしまう。全ては幻となってしまうのじゃ」
レッドの思い出を語り合っていたふたりはぴたりと会話を止めてサンタに目を向けた。
「消滅って……レッドも?」指先に愛犬の柔らかさと体温を感じながら彼女は愕然とつぶやく。
「この力も……か?」彼はクッキーをUFOのように浮遊させ、皿に落とした。
「残念じゃがそういうプレゼントなんじゃよ」
サンタは申し訳なさそうに後頭部をかいた。そしてそのまま「だが…」と続ける。
「最後に、2人で1つだけ願いを叶えてあげよう。それが本当のクリスマスプレゼントになるじゃろうな。どんなことでも良いぞ。ふぉっふぉっふぉ……!」
鞭の後に飴を与えるように、辛い事実を教えたあとに告げたサプライズには満面の笑みをそえた。まさに演出も含めた最高の贈り物と感じさせた。
「最後の願い……それが『最後の願い』なんだな……?」
強い語調で確認する青年にサンタは深くうなずき両手を広げる。「さあ……」
「じゃあ決まっている。ここで願うことなんて1つしかない」
彼は彼女の瞳を見る。互いに顎を引き、顔に決意を滲ませた。
ふたりの横顔を見つめるサンタの眼には微かな赤が過ぎり、髭に覆われた頬が小さく吊りあがった。
「――あんたの正体を……実体を今すぐ見せてくれ」
サンタの顔に驚きが広がる。
「なんと!? ワシのことじゃと……! 自分達のことは良いのか!? ワシの……」
言葉を途切れさせると少しうつむき、それから上目遣いに彼を見た。「本当に良いんじゃな?」
2人は息を吸い込むと声を揃えた。
「YES.」
サンタが身を震わせる。
再びうつむいたその顔にどんな表情が張り付いているのかは2人には見えない。
肩がぶるぶると振動し、白い髭もゆらゆらと揺れている。
やがて、くっく…と笑い声が漏れ出した。
「……信じられん巡り合わせだ…… まさか最後の2つを真の姿で喰えるとはな…………」
忍び笑いが見る間に大きくなっていく。
中背の老人の体が突然一回り膨れ上がる。
赤い服の背中がバリバリと音を立てながら破れる。
そしてそこから、黒いものが飛び出した。それは悠然と広げられた巨大な蝙蝠の翼だった。
驚いて椅子から立ちあがった青年は、同じくテーブルを離れる彼女の前に割り込んで庇った。
サンタの服が全て弾け飛び、そこに現れたのはおぞましい真紅の肌を備える長身痩躯の化け物だった。
骨格こそ人間だが身長は2メートルはあり、赤と黒だけで構成されているグロテスクな色素。
凶々しい翼と鋭すぎる爪、牙、そして普通なら白眼であるはずの部分、そのどれもが漆黒に塗られている。
赤いのは全ての肌、そして爛々と輝くふたつの瞳だった。それは狂喜を溢れさせる輝き。
「永かった…… あと2つというところまできて前回は失敗したが……貴様らの魂で長久の願いが果たされる。光栄に思え……!!」
愉悦に裂けるほど口元を歪めながら天井を、いや、天を仰いだ。まさに悪魔の威圧感を放ったその時……
「――ッ!? ぐあああああああああ!!」
無数の衝突音が怪物に苦痛の叫びを上げさせた。見開いた双眸を下ろす。
苦痛の正体、それは前後左右から突き刺さった包丁やナイフ、フォークの嵐だった。
「キ…キサマ……」
「レッド、
青年の念力に続いて、彼女の命令がレッドの凶暴性を解放させる。
苦悶する悪魔の喉笛にシェパードの強靭な顎が食らいついた。そこに念力が加わり咬合力は倍増する。不気味な黒い体液がその喉と傷口から大量に吹きだしていく。
赤く長い腕がレッドの胴体を左右から掴んだ。そして強引に引き離そうとし、結果レッドの胴体が千切れた。それでも忠実なシェパードは喉笛を喰い破ったまま放さない。
「ごおおおおおおおッ―――!!」
途轍もない怒号が部屋中を震わせる。しかしその震動に砕け散るコップや皿や食器棚のガラスは細かくなってなお全てが悪魔の身体へと殺到した。同時に足首から青白い炎が燃え上がっていく。
「―――ッ!」
猛り狂って突進してきた悪魔の薙ぎ払いを避けそこね、青年は壁へと吹き飛び背中と後頭部を強烈に打ちつけた。視界に火花が散り、一瞬息が止まる。
レッドに攻撃命令をした直後寝室へ駆け込んでいた彼女が戻る。
傷ついた彼と愛犬の無残な姿を目にして声を失った。
暴れ狂う悪魔の喉元からレッドの死骸が振り払われ壁に激突する。
彼女は怒りに満ちた眼で悪魔を睨み、拳銃を両手で握りしめると照準を定めた。
躊躇いなく引き金が引かれ、鼓膜を揺さぶる音が狂ったように鳴り続ける。
オートマチックに籠められた全弾が撃ち尽くされ、ガチン、ガチン、と空っぽの銃が乾いた響きを繰り返した時、その巨躯は煙をあげながら床の上に大の字で転がっていた。黒い血溜まりが広がっていく。
嵐のような数分が終わり、部屋に静けさが戻った。そして同時に青年のポケットから流れだしたメロディーが12月25日0時を告げた。
千切れたレッドの遺体が2人の目の前で光の粒子となって消滅していく。それを見つめて呆然とする彼女に青年はふらつきながら歩み寄り、ドレスの肩を強く抱き寄せた。
「成功したんだ。レッドのお陰だよ……」
そう呟く彼の手からも不思議な力は消え去っていた。
「ナ…ゼダ……」
断末魔の掠れた呻き声に2人は顔をこわばらせる。慎重に近づいてその姿を見下ろした。
「オレ…ノ正体ニ……気付イテ…イタ…ノカ…… ダカ…ラ……実体ヲ…………」
悪魔の赤い体は自らの血液で真っ黒に染まり、瞳は光を失って白く濁った色に変わっている。
呼吸は消え入りそうなほど細く、翼は燃え尽きて消滅していた。
青年は深く息を吐くとポケットから携帯を取り出した。すでにアラームは止まっている。
彼は画面の中にある笑顔の写真を悪魔に突き付けた。
「俺の兄貴は…2年前のクリスマスにお前の犠牲になった」
目を閉じると耳の奥で『Merry Christmas Mr. Lawrence』が甦る。悪魔の顔には驚きの表情と取れる面色が滲んでいた。
「兄貴はお前がいる間に2回電話をくれた。1度目は『何でも叶えるサンタがいるから早く来い』と言い、そして2度目は、25日0時1分……『来るな! 最後の願いが……!』悲痛な声でそう言った。それが俺が聴いた兄貴の…ジェレミーの最後の声だ」
悪魔は胸を小さく起伏させながら、天井を見つめた。
しかしその眼はもう何も映していないだろう。
その耳は彼の言葉をどれだけ受け止めているだろうか?
いま、この世に肉体を現した人外の存在の生命力が尽きようとしていた。
彼…ベンに抱かれた彼女は空の拳銃を右手に提げたまま口を開く。
「私はあの現場へ捜査に行きベンと出会った。そして彼の話を聞いて過去のクリスマスに同様の事件が起きていないか探したわ… 驚いた。毎年ではないけれど、類似した事件の記録が世界中に散らばっていて、古くは1600年代の記録もあった… でもきっと、もっと昔から貴方は繰り返してきたのでしょう?」
悪魔の呼吸が薄れる。答えは望めそうにない。
「…1800年代の資料にヨーロッパの古い民謡が添えられていて貴方らしき描写があったわ。私のように調べた人が過去にもいたのね」
「おの…れ…… あと一歩……我が…悲願……」
悪魔の全身の傷口から光が零れ出す。
それは小さな球体の輝き。
「せんねん…ついやした……ろっぴゃく…ろくじゅう……よん…もの……くも…つ……が―――」
堰を切ったようにその光の玉が無数に溢れ出し、驚きに声を失う2人の眼前を横切り、窓を抜けて夜空へと翔け昇る洪水となった。
十秒間ほど続いた幻想的な光景のあと、改めて視線を落とすとそこには息絶えた化物の骸だけが横たわっていた。
緊張の糸が切れたように、ベンはふらふらと壁に背中を預ける。
胸の中には兄達へのたくさんの想いが整理できないまま込み上げて来ていた。2年前の事件を悲しめばいいのか、目の前の出来事を喜べばいいのか、それすらも分からない。
「あいつ……いま、なんて?」
「たぶん…“千年費やした664の”…最後は…“供物”? そう聴こえたわ」
「供物……犠牲者の事、だよな…きっと」
「……ええ。664人も毒牙にかけてきたのね……」
その中には、ベンの兄と友人達もいる。
「さっきの光の玉はきっと彼らの魂じゃないかしら…… この悪魔に囚われていた、1000年も前からの人々の魂……それが解放されたんだと思うの」
彼女の言葉に彼は項垂れていた面を上げる。
「ベン……」
彼女は静かに彼へと歩み寄り、彼の頭を抱きよせた。
「おめでとう…でいいよね?」
喚き立てるようなサイレンが重なり合って響いた。
散々の騒音、人に在らざる叫び、そしてけたたましい銃声…… いかにそこら中パーティーで騒がしいクリスマスイヴだったとはいえ、コンドミニアムの下に何台ものパトカーが集まってきたのは当然だ。
宝石箱を開けたような街並みと足元で明滅する赤色灯を見下ろしていたベンは、ふと思いだしたように部屋を見回して床に落ちていたコートを拾いあげた。
「ベン……?」
窓辺で怪訝な顔をする彼女に、彼は少し緊張の面持ちで向き直った―――。
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