第三夜 ①

 

 12/24/PM/7:55

 

 コーヒーテーブル上のデジタル時計から視線を剥がす。

「間に合うかしら……」

 ダイニングテーブルにワイングラスを置きながら呟いた。ディナーの準備はこれでOK、彼女が心配しているのは恋人の帰りだった。

 今夜は誰もが浮き立ち、事故やトラブルが起きやすい日でもある。

 今年のクリスマスイヴはふたりにとって特別な夜にしたい。地下鉄が止まったりすることなく予定通り帰って来てほしいと思った。

 

 コンドミニアム14階の一室、暗いオレンジの明かりに揺れる少しムーディーな部屋。

 紫色のセクシーなドレスを着た彼女は開いたカーテンに軽く手をかけて外の景色を眺める。

 周囲にはここよりももっと高い建物もたくさんあるし、遥かに低い建物だって広がっている。そのどれもが明々と暖かな灯を湛え、街を縫う幾筋もの道路も光の河のように美しく流れていた。

 こんな景色を見つめていると、この世界の何処かでは悲しい聖夜を過ごしている人もいるということが嘘のように思えてきて彼女は微笑む。

(どうかそれが現実になってくれますように……)

 小さく祈る自分自身、予定をすでに過ぎている大切な夜に彼への想いを募らせ始めていた。

 早く逢いたいという寂しさ、無事に帰って来てほしいという不安、そして顔を見た瞬間に全身を包んでくれるに違いない喜びの予感。窓ガラスに薄く映る自分の表情に気付き、今日から本当の意味で幸せを始められるんだと確信した……。

 

「――メリークリスマス」

 

 突然背後で声がした。

 何の前触れもなく背中にかけられた祝いの言葉。

 低く、しわがれた男の声。

 彼女は心臓が止まりそうなほどの驚きに全身をびくりと跳ねさせ、数秒の硬直の後に自分の左胸を叩く鼓動を確かめるように手を当てた。

 大きく乱れている呼吸を少しずつ抑え込んでいく。ぎゅう…と瞼を閉じた。

「はぁ……はぁ…」

 首筋から耳の後ろまで燃えるように熱い。ゆっくりと目を開くと後ろに向き直った。


「……サンタクロース?」


 数メートル先、ダイニングテーブルの手前に立っているのはそう、紛れもなくサンタクロースだった。

 赤い帽子、赤い服、白い綿、白い立派な髭、皺の深い優しげな微笑み…これほど見事でなくてもいいのなら今夜は珍しい存在ではなく、街の何処で見かけても驚きはしないだろう。

 いま問題なのは、煙突もない20階建てのコンドミニアムの14階にある、鍵のかかったドアの内側で見かけたという一点だ。

 

「ふぉっふぉっふぉ… その通り、サンタクロースじゃ」

 老人は…サンタは彼女の驚く姿に喜んでいるかのように破顔した。

「信じられない…なんで……」とたどたどしく呟く彼女にパチッと目配せをし、「本物だからじゃよ」と付け加えた。

「さて、今も言ったとおりワシはサンタクロースじゃ。ここに来た理由は1つ、貴女にプレゼントをするためじゃよ」

 立てた人差し指を彼女へと倒し、それから両の掌を優雅な仕草で上向けた。

「何でも良い、欲しいものを言ってみなさい。どんな願いでも1つ叶えてあげよう」

 

「あ…貴方は何者……?」

 自分の両腕を守るように抱きしめたまま彼女は問いかける。

 その声は少し掠れてしまったが、むしろ色っぽい響きを持っていた。


「おや、それに答えるのがプレゼントで良いのかな?」

 老人は彼女と対照的に余裕のある口調だ。


「いえッ……でも本物のサンタだなんて言われても……」

 不可思議な登場に警戒心が解けないのか、落ち着きを取り戻しつつその言葉も眼差しもとても慎重だった。


「現代の人間は悲しいのう… 奇蹟的な出来事を目の当たりにしても感動より先に猜疑心や敵愾心で心に蓋をしてしまう。延々とクリスマスの祝いを欠かさずサンタを心待ちにしていながらどうも信じておらん」

 立派に蓄えられた白髭をするするとさすりながら哀しそうに眉尻を下げた。

「とにかくプレゼントを願ってみなさい。貴女が心から欲しいものを」

 

 彼女は右手を口元に当てると視線を床に這わせた。

「心から欲しいもの……」

 長い睫毛がすっと持ちあがる。

「それは生き物でも?」

 サンタはにこりと相好を崩してうなずいた。

「今年の夏に死んだ愛犬のレッド……もし叶うなら逢いたいわ」

 そう投げた声や表情には挑発的な色があった。出来るものならやってみなさい、と。


 2人の間に白い布がほうられた。

 それがサンタ必携の大袋であることに一瞬彼女が気付けなかったのは、空気すら入っていないと思われるほど情けなく萎んでいたからだ。しかし……

 

「お安いご用じゃ。メリ~メリ~クリスマス!」

 

 彼が大仰な動きでその呪文(?)を唱えた直後、潰れた袋に変化が起きる。誰も手を触れていないのにもこもこと膨らみ始めたのだ。

 我知らず口を閉じ忘れる彼女は、せっかくそれを隠していた右手まで無意識に下ろしてしまう。美しい睫毛は瞬きを忘れ、澄んだ瞳は乾きを訴えるより驚きを叫ぶことに忙しい。

 膨張が終わった袋は次に口元へと中身を動かし、何かが姿を現し始めた。

 つんとした艶やかな黒、それがずいずいと突き出して来ると、茶色っぽい毛のようなものに移り変わっていく。そしてすっぽりと飛び出したのは頭部、間違いなく犬の頭だ。

 驚く彼女の前で毛並みの良い首から逞しい体までどんどんと披露し、後脚で袋を蹴りつけるようにしてついに尻尾の先まで抜け出した。水から上がったようにぶるぶると体を振る。

 

「……レッド……?」

 

 ぴんと立った形のよい耳がぴくりと震える。

 顔を向けたシェパードの瞳は微かに赤味を帯びていた。


「――レッド!!」


 叫びをあげて両腕を広げる彼女にシェパード…レッドは一つ吠えて勢いよく飛びこんだ。

 大きなその体を受けとめた彼女は尻もちをついて倒れ、危うく床に頭を打ちそうになりながらもしっかりとレッドを包んだ。

「ああ…神様……! 逢いたかったわ……レッド」

 ドレスが乱れてスラリとした脚が露わになるが、彼女はお構いなしに精一杯抱きしめた。

 愛する友が頬もまなじりも温かい舌で拭ってくれる。

 変わらない重さ、変わらない力強さ、変わらない愛情表現…… もう一度だけハグで体温を伝え合いたかったと痛め続けた胸が聖なる夜の奇蹟に満たされていく。こんなに幸せな時間を与えてくれるならその真実がなんだろうと構わない、そんな想いが心の奥に生まれようとした。

 その時だった。不意に玄関の鍵を開ける音が響く。

 

「ただいま~! 参ったよ、地下鉄が人身事故で……」

 愚痴をこぼしながらドアを閉めコートを脱ぎつつ入ってきた青年は、ムーディーな薄暗さに揺れる室内へ眼を向けて動きを止めた。「遅れ…て…ご……」

 唇も薄く開いたまま固まり、首は目線と一緒にぎこちなく右往左往する。

「…犬…? サンタ…? なにこれ……?」

 混乱した思考をまざまざと表していた眼差しがやがて窓際に立つ恋人に留まる。

「君の……サプライズ?」

 

「ふぉっふぉっふぉ……」

 突然笑いだしたサンタに彼は小さく驚いて顔を向けた。

「彼女が呼んだのではない、ワシが勝手に来たのじゃ。お前さん達に素敵なプレゼントをするために」

 サンタはまるで彼が帰ってくることも分かっていたかのような言い方をする。そして自分が作ったパーティー会場のごとく会釈をしながら手のひらを流した。どうぞお進みください、そんな感じだ。


 青年はつい釣られたように歩を進める。

「勝手に来たって… プレゼントとか言って押し売――」

 じろり、とサンタを睨みつけた目が『商品』と思しき犬へ移った。そして息を呑む。

「……レッド?」

 くぅん…と鼻を鳴らしたシェパードに彼は顔を蒼褪めさせた。

「そんな馬鹿なッ……!! レッドは…死んだはずだ! 確かに俺達の前で灰になったのに……!」

 

「そう、これがワシのプレゼントじゃ。本物のサンタクロースはどんな願いでも叶えられるのじゃよ」

 誇らしげに胸を張る老人の声が背中に届き、青年は目を見開いた。

「さあ貴方も心から望むものを口にするのじゃ。何でも1つ、欲しいものをあげよう」


 信じ難い申し出に言葉を失ったまま、青年は死んだはずのレッドを呆然と見つめ、それから目の前に佇む恋人の強張った顔に視線をあげた。

 しばしの沈黙の後、彼女は重々しくうなずいた。

 冗談は言ってもこんな嘘は絶対につかない女性…… 彼はここにある非現実が事実であると感じ始めて背筋を震わせる。

「ま、待ってくれ… ちょっと……」

 部屋の隅にあるソファーへとふらつきながら向かい、どさっと腰を下ろした。

「考えさせてくれ……」

 目の前にあるコーヒーテーブルの上で、時計はちょうど8時半を告げた。

 

 レッドの背中をゆったりとした動きで白い手が撫で続けていた。

 彼女はその美しい右手を止めることのないまま、ソファーの彼へと目を向ける。ダークグレーのスーツ姿で頭を抱える彼は、思案を始めてからすでに20分ほどをそうしていた。


「どうじゃ? そろそろ願いは決まったかな。ここまで悩んだ者は久しぶりじゃのう……ふぉっふぉっふぉ」

 サンタは彼を見て笑い声をあげる。

 最も欲しいものと言われて答えが出てこない者は、考えたことも無かったか有りすぎて決められないかだ。あるいは「1つ」という言葉にとらわれすぎてどうやったらその数を増やせるか考える人間もいる。

「何か食べたければ例えば『豪華なフルコースを』とでも願ってくれれば中身は1つに限られないのじゃ。『2人にそれぞれ恋人を』などと言うのも可能じゃ…おっと、無粋な例じゃったかな?」

 過去には…と続ける。「自分達に一目惚れする可愛い女の子を3人プレゼントしてくれ、なんという大胆な願いもあったぞ。ふぉっふぉっふぉ……さあ、どうするんじゃ?」

 

 青年はうつむいたまま小刻みにうなずいた。

 話を聞いていたのかは分からないが、何かを決めた様子ではある。そしてゆっくり顔を上げた。

「俺は……子供のころから憧れていることがあった」

 顔の前で両手の指先を触れ合わせて、訥々とつとつと語り始めた。

「スプーンを曲げたり、火を熾したり、物を飛ばしたり… 漫画や映画と違って現実にはほとんど存在しない本物」


「ほほう」

 サンタが感心したように大きくうなずいた。


「俺は超能力がほしい。こんなプレゼントも出来るのか? …それともやっぱり俺を担いで?」


「い~や、出来るぞ。面白い願いじゃ」

 サンタは床で萎びている袋に向かって両手を広げた。

「メリ~メリ~クリスマス!」

 

 レッドの時のように袋が膨張していく。

 ただし身体の凹凸に合わせてもこもこと膨らんでいたさっきとは違い、今回は綺麗な球状でみるみる張りつめていく。まさに風船の状態だ。

 限界まで大きくなると、その口から勢いよく七色の光が飛び出した。そして部屋の中を旋回すると青年の体へと降り注ぐ。彼は驚愕と恐懼きょうくの入り混じった表情でソファーの上を後ずさり、顔を背けながら両腕をかざして防御の姿勢をとった。

 しかし光は彼にあたって消えていっただけで、何も怪我や苦痛をもたらさなかった。

 その光景を見ていた彼女は驚きにレッドを撫でる手も止めていたが、ハッとしたように立ちあがると厚いカーテンを引いた。窓の向こうからこの部屋の不思議が見えてしまったかもしれない。

 

 彼はようやく力を抜くと自分の掌を見つめる。

 何かが変わった感じがした。

 コーヒーテーブルに手を向けると強く願ってみる。すると、デジタル時計がゆらゆらと浮かび上がった。それをじっくり丁寧に操り、ついにはダイニングテーブルの端に着地させた。

「凄い……本物の超能力者だわ!」

 彼女が興奮した声で讃える。

 彼は静かに息を吐き、落ちついた様子で首肯した。


「ふぉっふぉっふぉ……! これは面白いプレゼントじゃった! さぁイヴの夜を楽しむのじゃ!!」

 まるでパーティーの司会者のような声が部屋に響いた。

 

 

 

 

 

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