第二夜 ②
実に3年ぶりに家族の揃ったクリスマスイヴを祝う。
アランとクレアは2人でダイニングを綺麗にした。割れたシャンパングラスも慎重に片付ける。
マリーはあの頃のエプロンをつけて、シチューを作った。クリスマスには必ず作っていた得意のクリームシチュー。
その時にいつも歌っていた鼻歌を、時間を跨いだ彼女はただいつものように口ずさむ。
鼻腔に染み込む大好きな香り、鼓膜を撫でる愛しい歌声、少しでも手伝いたいと彼女の後ろをウロウロするアランとクレアの心に暖炉よりも温かな灯をともしてくれる。
「なぁ、覚えてるかい?」
アランが後から彼女の腰を抱いて、耳のそばで楽しそうに囁く。
「あの州立公園に行った時にさ、クレアがアイスクリームを……」
「2段重ねを全部落としちゃった時でしょ? ワッフルコーンだけになっちゃって放心したあと泣きだして」
「わたし? アイスおとしたの? いついつ??」
マリーはくすくすと笑う。
「私にとっては去年のことだもの、覚えているわ。クレアは5歳だったから、ええと……」
「そうか、もう4年も前のことだよな。お前は覚えてないか」アランは娘の頭をぽんぽんと叩く。
クレアは頬を膨らませると、足もとをするすると通り抜けようとした白猫を抱きあげて父を引っ掻かせようとする。
「あ、じゃあアレは覚えているかしら? 遊園地に行った時にアランがクレアを持ちあげてマスコットキャラにキスさせようとして……」
「ああっ! 向こうが気付かないで後ろ向いたらクレアの手がファスナーに引っかかって……!」
「ヒゲおじさん?」
クレアの腕の中で彼女と一緒になって猫が首を傾げる。
「それそれ! お前覚えてるじゃないか。あれは笑ったなぁ~!」
「もう6歳だったものね。それにしても悪いことしちゃったわね…フフフ……」
バターと混ぜて炒めたら水を流し込む。湯気が勢いよく立ちのぼり換気扇からあぶれて天井に広がった。
「クレアはアスパラ食べられるようになった?」
マリーがちょっと意地悪な笑顔を向けると、クレアは悪戯っ子の笑みを返しながらアランの後ろに隠れて片目だけ覗かせる。
「アラン? 私が居なかったからってわがままさせてたの?」
「いや! その……! ベビーシッターの人がな、マリーほど美味しいシチューを作れないから余計に…な?」
「そっか。シチューは愛情が大切だからね」
どこか嬉しそうに微笑みながら、マリーは浮いてくるアクを丁寧に取り始めた。
テーブルに3皿のクリームシチューが並ぶ。
ゆらゆらと湧きだす湯気が美味しそうな芳香で誘惑する。
「よし、じゃあ最初にお祈りだ。」
アランが言うとクレアはすぐに両手を組み合わせた。
「あら、それはちゃんと続けているのね。偉い偉い」
「今度は……サンタさんの最高のプレゼントと、ママのクリームシチューとその材料達に感謝します…アーメン」
2人が浮き立つ声でそれに続き、そして3人は早速スプーンで掬いあげると二,三度息を吹きかけてから口に運んだ。
「あふっ…へほ…ふはい!」
アランは熱さにロレツを回せないまま歓声を上げる。
「ふぅ… やっぱりこれがマリーの味だよ……」
舌を火傷したからか? 彼の目には涙が滲んでいた。
「ふふ…どうクレア? 美味しい?」
母の言葉に娘は頬を膨らませたまま力いっぱいうなずく。口の周りは早くもシチューだらけだった。
たくさんの思い出を、心のアルバムをバラバラにめくるように語りあった。
6年前のこと、4年前のこと、クレアが生まれる前のこと、初デートのこと……笑顔の満ち溢れる時間があっという間に過ぎていった。
そして、12月24日が終わりに近づいてきた。
「――さて、皆さん。クリスマスイヴをお楽しみのところじゃが……」
今まで穏やかに黙して見守っていたサンタが、やおら手を1つ叩いて呼びかけた。
3人が会話を止めて彼を見る。
談笑していたアランの頬が強張り、摘まみあげていたクッキーを取り落とす。クレアは顔色を変えない。
そしてマリーは静かに、美しく、表情を引き締めた。
「ふぉっふぉっふぉ… どうやら察しておったようじゃな。この奇跡は
クレアの顔がさっと蒼くなる。
「え…ネコちゃんも…ママも…きえちゃうの??」
「そうなんじゃよ。全て幻になってしまうんじゃ」
サンタは悲しそうに白い眉尻を下げた。アランはうつむいて唇を噛む。
「じゃが……今から全員で1つだけ願いを叶えてあげよう。今夜最後のプレゼントじゃ」
そう言って好々爺は優しげに目を細めると白い歯を覗かせた。
アランがハッとしたように顔を上げる。しかし彼より先にクレアが叫んだ。
「ママたちをけさないで! このままいっしょにいたいの!」
サンタの瞼がふわりと広がる。頬の髭が笑みに持ちあがる。
「つまり…… 今夜の幸せな時間を、永遠のものにしたい……と?」
その声は飽くまで穏やかであり、柔らかかった。ただほんのりと甘い香りを漂わせながら。
「YE――!」
衝動的に叫ぼうとしたクレアの唇に、なんとマリーの手のひらが被せられていた。答えは最後まで告げられず、サンタは初めて驚きの表情を浮かべた。
「マリー? 俺もクレアと同じ気持ちだよ……?」
夫と娘が紅潮した顔で彼女を見つめる。
しかし彼女はにこりと笑った。
「私ね、思いだしたの…… 自分が死の床で二人に願ったことを」
アランの目が大きく見開かれる。
「どうするのじゃ! あと5分しかないぞい!?」
サンタが焦らせる様に声を膨らませた。
そこに僅かだが苛立ちの色が溶け入っている。
クレアの不安そうな瞳が時計と両親の間を浮つく。
ぎゅっと瞼を閉じて震えるアランの手に、マリーはもう一度手のひらを重ねた。
何も言わず、もうすぐ幻になってしまう体温を伝える。
アランは静かに目を開いた。壁の掛け時計の長針は正確に59分を示したところだった。
「頼む……この幸せな時間を……」
彼の決意に満ちた顔を見て、サンタは髭の奥で口角が上がるのを抑えきれない。
「……イヴの終わりと共に全て忘れさせてください」
しかし予想だにしなかった言葉がアランの口から告げられた。
サンタは愕然と身を震わせる。
「な、なぜじゃ? それで本当に良いのか!? 今夜の奇跡まで忘れて元の暮らしに戻って良いのか!?」
「YES!―――」
アランは席を立つとマリーの傍に回り込み、クレアを抱き上げる。
マリーも急いで立ちあがった。秒針は最後の10秒を刻む。
彼女の唇がクレアの額に、そしてアランの唇に重なった。
静かに体を離した彼女の両手が二人の頬にそっと触れている。そしてにっこりと微笑んだ。
「さようなら―――。」
12月25日0時と同時に、何処かの家から「メリークリスマス!」の掛け声が賑やかにあがった。
アランはクレアを抱いてテーブルの傍に佇んだままそれを耳にした。
ゆっくり窓の方を向くと、二人とも呆けた表情でぼんやりとリビングを見回す。
今の今まで何をしていたのか分からない。時計の短針は12を回り、日付はクリスマスへと移っている。
体にはずいぶんと疲労感があるが、やはりよく思い出せない。
0時の瞬間に叶えられた最後の願いは、この4時間弱の出来事を確かに記憶から消してしまった。
最後に贈られた別れの言葉も。そして59分57秒にサンタがつぶやいた「あと2つというところで……」という耳に入るか入らないかの声も。
奇跡の日の到来を告げる聖なる夜は
潤えば消えてしまう薄く儚い窪みだけを残して……。
ウトウトし始めたクレアを部屋に寝かせると、アランは彼女のために買ったぬいぐるみがソファーにあることを思い出す。
「あれ……?」
リビングに戻った時、さっきまで気付かなかったものが目に入った。
欠けたケーキと山盛りのクッキーが端に寄せられたテーブルに、空のシチュー皿が3枚。最初に一瞥した時はグラタンの皿かと思ったが改めて見ると別物、何より枚数がおかしい。
臨時シッターのディアとテーブルを囲んだのだったか?
いや、そんな覚えもないし、第一シチューをいつ作った?
アランはキッチンに入ると、鍋の中にクリームシチューが1人前ほど残っていることを確認する。
ゆっくりかき混ぜてみるとまだ柔らかく温かみを感じた。
そのまま掬いあげて一口すする。直後、顔中に驚きが広がっていった。
「これは…これはッ…… そんな……!」
弾かれたようにリビングへと振り向く。
そこにはさっきまでと何も変わらない光景。誰も居ない風景。
ラッピングされたぬいぐるみが座っているだけだ。
「いや……あり得ないか…… ディアさんが作っていったんだ。覚えていないのが不思議だけど……」
不可解でもその方が現実味がある。自分を納得させてそっと鍋に蓋をした。
ソファーへと歩き、それから窓の外の暗闇を横切る雪の舞いに惹かれる。
しばらく窓辺に佇み、ふ…と笑みを浮かべると部屋の隅にある小さなボードの上に手を伸ばした。
「マリー…なんでだろうな? あの味に似たシチューのせいかな……君に最期に言われた言葉を思い出したよ」
手の中で微笑む写真から再び窓の外へ眼差しを送り、アランは噛みしめるようにゆっくりとつぶやく。
「クレアがウェディングドレスを着るまでは貴方が守ってあげて欲しい…… そして、私が消えた世界で育む強さをどうか……誇りに思って生きて―――。」
上擦る声が零したひと滴に心の窪みが温かく潤う。
聖誕祭の夜は穏やかに世界を包んでいった。
第二夜 幕。
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