第二夜 ①
「~~セントのお釣りよ、サンキュー」
赤い帽子の先にある丸い白綿を揺らしながら、売り子の女性がにっこりと微笑む。
アランは小銭を右手の平で受け取ると笑い返した。
左手に抱える大きく歪な包み紙。赤やピンクや緑の小さな絵柄がたくさん散りばめられているファンシーな包装紙は、見る者にその中にあるものが愛する誰かへのプレゼントであろうと容易に想像させた。ここが玩具売場であることを考えればもっと絞り込める。
「さてと……急いで帰らなくちゃな」
デパートの大きな自動ドアを一歩出て、アランはベージュのロングコートの前を片手で締めながら夜空を見上げた。
吐息の向こうに灰色の雲が分厚く立ちこめ、ゆらゆらと白い光が零れ落ちてくる。
それほど珍しいわけではないが、少し気分も高まって「今夜くらいはこの寒い風も許してやるか」と寛容になった。
ホワイトクリスマスイヴ。
娘もきっと、庭に積もり始めたこの雪にはしゃいでいる頃だろう。
車をガレージに収め荷物を抱えて降りると、アランは腕時計に眼を落す。
19時前…口約は無事に守れたようだ。安堵の笑みを浮かべて歩き出す。
肩や髪に乗る雪をはらい落しその手でポケットをあさり、握った鍵で玄関ドアを開けて一歩踏み込むと、途端にクラッカーの音が2発響いた。
「メリークリスマ~ス!」
「お仕事お疲れ様でした!」
カラフルな紙切れがささやかに降り注ぐ向こうで、9歳の娘とベビーシッターを頼んだ女性が満面の笑顔を湛えていた。
「メリークリスマス。いやぁびっくりしたな、車の音で分かったんだね。」
胸に広がる温かな喜びが自然と顔に滲み出るアランを見て、彼女達は互いに目配せをし「やったね!」とタッチを交わした。
「――ありがとう、ディアさん。ええと…これは貴女へのプレゼントです」
彼女は、亡き妻の妹だった。今年はどうしても仕事を休めず、この町で働いている彼女にクレアの事を頼んだところ19時頃までならと引き受けてくれた。
傍らのクレアの顔を見れば彼女が良くやってくれたことは分かる。帰り際、アランは感謝を込めてプレゼントを差し出した。
「まぁ! お気遣い頂かなくても……」
「いや、せっかくのイヴにこんな遅くまで働かせてしまったんだ。早いところ家に帰って大切な人とこのワインでも味わってください」
ディアは恐縮しながら礼を述べると、包みを大切に抱いたままクレアの目線にしゃがみ込んで彼女の頭を優しく撫でた。
「いいパパだね。じゃあクレアも楽しいクリスマスイヴを過ごしてね」
「うん! ディアもね!」と元気よくうなずく娘に二人は顔を見合せて笑った。
白い排気を連れ、薄く積もった雪に轍を引きながら車が遠ざかっていくと、アランは窓際から離れてテーブルへ向かう。
娘が一生懸命皿を並べているのが愛らしい……親子水入らずのディナータイムだ。
「綺麗に並べられたね。じゃあお祈りして食べよう」
ちょうど電子レンジが鳴り、彼女のホットココアも揃う。アランの手元にはシャンパングラス。
向き合うとまず両手を組んで、今夜の糧に感謝のフレーズを口ずさんだ。
大きな鶏肉にかぶりつき、グラタンの熱さに口を膨らます。
ディアが焼いていってくれたクッキーとケーキは二人では食べきれないくらいだがとても甘くて美味しい。
彼女とどんなことをして過ごしたのかと尋ねると、クレアはそれを待っていたように喜々として喋りだした。一緒にお絵描きをしたり、TVゲームをしたり、ジングルベルや赤鼻のトナカイを歌ったり……と、色々と付き合ってくれたらしい。ランチにはピザトーストを焼いてくれてとても美味しかったと自慢する。
雪がもっと早い時間から降っていたら雪合戦も出来たのに…と悔しがる姿に頬が緩んだ。
いつものシッターは50歳近い女性だが、ディアは確か20代前半。娘にとってはとても久しぶりの賑やかな時間だったのだろう。
(もしマリーが……)
組んだ両手に顎を乗せて娘を見つめながら、ふと遠い記憶に想いを馳せる。
「――メリークリスマス」
それは突然だった。
音楽もない静かなイヴの夜に、愛娘以外の声が低く割り込んできた。
あまりの驚きに腕がシャンパングラスを弾き落としてしまい、床で鋭い破砕音が響く。しかしそんな事は問題ではない。
目一杯に見開いた眼で声の方を見やると、リビングの窓辺にサンタクロースの格好をした老人が立っていた。
「……ななッなんだお前は! どうして、どうやって……!!」
“この家に入った?”という言葉が出てこない。
彼の背にある窓は閉まっているし鍵がかかったままだ。ディアが帰った時に玄関の鍵も間違いなくかけたし、他に開いている場所もないはずだった。そもそもリビングの奥に現れるまで視界の端すらも横切られた感覚はなかった。
「わぁ! サンタさんだー!」
娘もいま気付いたらしい。向き合っている二人に見つかることなくあの位置に現れることなど出来るだろうか…? アランがそんなことを頭の片隅で思った時、クレアは椅子を下りて無邪気に走り出した。
「クレア! ダメだ戻れ!!」
咄嗟に伸ばしたアランの手をすり抜けて、彼女は不審な老人の懐に抱きついてしまった。
「き、貴様ッ…娘から離れろ! クレア戻るんだ!!」
「ふぉっふぉっふぉ… 可愛らしいお嬢ちゃんじゃ。お父さんが心配するのも仕方ないが…ワシはサンタクロース。人を幸せにするためにやってきたんじゃよ?」
サンタを名乗る老人はクレアから一歩離れると腰を曲げて彼女の顔を覗き込んだ。アランがまたも怒鳴るが何処吹く風だ。
「お嬢ちゃん。何か欲しい物はあるかい? なーんでも1つ、願いを叶えてあげるぞい」
サンタは頭を撫でながら温かな笑みで問いかける。
クレアは全く恐れを感じていないらしく、「うーん」と右手の人差し指を顎に当てた。
「クレア! プレゼントならパパが……!」
「ネコちゃん! リンジーがね、白いネコかってるんだよ!」
アランの言葉より早く、クレアはプレゼントを要求した。娘の友人は確かに白猫を飼っていたが、まさかこの子がそれに憧れていたとは思いもよらなかった。
「ふぉっふぉっふぉ、お安いご用じゃ」
サンタがだらしなく萎んでいる白い袋を床に
「メリ~メリ~クリスマス!」
アランは自分の眼を疑った。
ベッドに敷いたシーツのようにのっぺりとしていた袋が、ひとりでにもこもこと膨らみ始めたのだ。
言葉を失ったままその光景を見つめていると、膨らみは袋の中をゆっくりと移動し始め、そして自分から口を押し開いて絨毯へと飛び出した。
「あ~! 白いネコちゃん!!」
クレアの歓声に応えたのか、現れた白猫はニャアと一鳴きしてみせた。
「う…嘘だ…… 一体どんなトリックだ……」
大喜びで猫と戯れ始めた娘を呆然と見ながら、その種を明かそうと思考が働く。
しかし、袋は潰れていたしサンタは手を触れていない。もちろん床に穴など空いていない。それ以前に重要なのは、娘が何を欲するか分からないのに白猫を用意出来たかということだ。
「困惑するのも当然じゃ。ワシは本物のサンタクロース、これは手品ではなく種も仕掛けもない真の奇蹟なのじゃからのぉ」
サンタは微笑みを浮かべたままゆっくりと、大きく何度もうなずいて見せる。
「悪い子にはプレゼントはやらん。じゃが良い人間なら大人でも1つだけ叶えてやるぞい。お父さんも何か欲しい物はあるかね? 何でも叶えよう」
「……何でも……」
娘と猫を凝視したまま、アランはその単語を復唱した。
(そんなわけはない。乗るな。今するべきことは警察に通報――)
「――猫が出せるということは…… 人間でも可能なのか……?」
強張った眼差しがぎこちなくサンタへ向けられる。自分が口にしてしまったことへの戸惑いや畏れが、“俺は何を言っているんだ”とその表情にありありと滲んでいる。
「もちろんじゃ」
「それは… たとえばすでにこの世から去った人間でも……?」
理性を無視して言葉が止まらない。
サンタは両手の平を緩やかな動きで上向けた。「言ってみなされ」
アランは口中に溜まった唾を大きな音とともに飲み込んだ。
そしてクレアに視線を泳がせながら、小声で呟いた。
「2年前に病死した僕の妻に……」
睨むようにサンタへ向き直る。
「マリーに逢わせてくれ……!」
恰幅のいい赤服白髭の老人が、優雅な動作で会釈をした。
「メリ~メリ~クリスマス!」
ゆっくりと、そしてさっきよりも遥かに大きく、白い袋が盛り上がっていく。
アランはそれに釘づけになり言葉もない。息すら止まり、下唇が小刻みに震え始める。
娘はそんな父を見て猫をきゅっと抱きしめると、ごそごそと開き始めた大袋の口に目を向けた。
やがてそこに現れたのは、一人の女性。
淡いピンクのワンピースを着た、生前好んでいた姿のままの、そして変わらぬ美しさの……妻、そして母だった。
「マリー……?」
見紛うはずもない。
それでも名前を呼ぶ声は目の前の愛する妻に疑問符を投げかけずにはいられない。もう二度と会えるはずのなかった最愛の
「……アラン? どうしたの?」
立ちあがった彼女は、不思議そうな顔で彼を見た。
それは生前に彼女がよく見せた表情、よく口にした言葉だった。
洪水のように押し寄せる在りし日の記憶と共に、アランの
「マリー! マリー……!!」
両手を広げて歩み寄り、彼女の腕ごと力の限りに抱きしめた。「君に逢いたかった……」
「ア、アラン… いったい……」
驚き当惑する彼女だがアランは抱擁と涙でひたすらその体温を伝えてくるばかり。
彼の嗚咽は言葉にならない。ただ、温かかった。
少しすると彼女は諦めたように目を閉じ口元を優しく綻ばせる。肘を曲げて彼の背中を手のひらで温め返しながら「ありがとう、愛しているわ……」と応えた。
「――ママ? ママなの……?」
マリーは瞼を開けると、きょとんとして見上げるクレアを前にして目を瞠る。
「まさか…クレア!? そんな……! あなたなんで…こんなに……」
その狼狽にアランは体を離し、妻と娘の間で視線を彷徨わせた。
「こんなに大きく……何が……」
“起きたの……?”と呟きを震わせながらマリーは膝を落とし、娘の頬や頭や肩を両手で確かめる。
しかし、戸惑う母親とは逆に、クレアは顔を紅潮させて青い瞳を震わせると全力で抱きついた。ママ…!と叫ぶ声は言葉になりきらない。全身が痙攣しているように起伏し、首に回した両腕は痛いくらいに想いを伝えていた。
2年間という日々は幼心にも死の持つ意味を理解させ、二度と会えないという事実を彼女は受け入れ始めていた。
しかし今夜、目の前に母は現れた。
クレア自身も知らなかったほどの積もり続けてきた寂しさがいま全て溶けだしたのだった。
娘の頭をあやすように撫でながら、マリーは夫を振り返る。
「アラン……教えて。私はもしかして昏睡でもしていたの? 今は……」
成長したクレアに目を落とす。
「今はいつなの……?」
マリーの記憶は生前、それも2年前ではなく元気だった約3年前以前のものしかなかった。
自分が病気になり、度重なる検査、入退院、そして最後の入院から息を引き取るまでの辛い1年のことは知らないのだ。アランはその部分を改めて教えるべきか迷った。
「昏睡じゃないのね……? じゃあ一体……」
テーブルの向かいで口ごもる夫からそう推測しつつ、マリーは何度か視線を向けていたリビングの隅へ初めてしっかりと顔を向けた。
「サンタさん……? あなたは…もしかして何か関係があるの?」
アランが蒼褪める。それを一瞥して、マリーはさらに続けた。
「もし何か知っているのな…」不意にある物が目に留まった。「……まさか……」
食い入るように注ぐ彼女の視線を追ったアランは、耳の奥に自分の強烈な鼓動を聴いた。
サンタが立っているすぐ傍に小さなボードがあり、その上にはマリーだけの顔写真が写真立てに入って置かれていたのだ。
「私は……」
顔から血の気を引かせ、歯をかちかちと鳴らしながらマリーは怯えた瞳をクレアとアランへ泳がせた。「私は死んだのね……?」
アランは何も言えずに全身を震わせてうつむく。その姿が如実に答えていた。
白い顔で両の手のひらを見つめたマリーは、テーブルの上で固く握られた彼の左手にそっと自分の右手をかぶせる。
光の歪む視界の中で、室内を彩る様々な欠片を拾い……全てを悟った。
「そう…今日はクリスマスイヴなのね…… じゃあきっと神様があのサンタさんを遣わせて……」
老人の向こう、窓の外で降り続ける雪を街灯がきらきらと照らしている。
「……少しだけ逢わせてくれたのね」
夫の手を強く握り、隣に座る娘をきつく抱き寄せると、彼女は堪え切れずに大粒の涙を零した。
死の意味を知っているから、これまで二人に与え、そしてこれから二人にさらに募りゆくであろう寂しさを想い、その胸を痛めずにはいられなかったのだ。
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